東アジア文化圏の成立

 

              2 東アジア文化圏の成立
 
 隋の統一  唐帝国の国際性  唐の盛衰  両税法  黄巣の乱 
 宦官の専横  唐の均田制   
   
 【隋の統一】   戻る  
 中国の分裂時代は大詰めをむかえる。北周が北斉を滅ぼしたが、その北周も、外戚の楊堅によって滅ぼされてしまう。楊堅は、北周開国の功臣であり、北周最後の皇帝、静帝の外祖父でもあり、静帝を廃してみずから帝位についた。これが、隋の文帝である。文帝は、質素な生活を送り、民衆に無用な負担をかけない政策をとったが、貴族や官僚に対しては、厳しい刑罰をもってとりしまった。文帝は、従来の九品中正の官吏登用法を廃止し、あらたに科挙によって官吏を登用しようとした。九品中正は本来、個人の才能を評価して適当な地位に人材をつけるのが目的であったが、しだいに地方の豪族が貴族化していく制度になってしまったことは、すでにふれた。文帝は、その不合理なことをあらため、家柄、門閥によって官吏になれるという制度を廃止し、かわりに中央で試験をおこない、その合格者に官吏となる資格をあたえた。これが、その後1300年にわたってつづく科挙の起源である。  
 2代目の皇帝、煬帝は、文帝の二男であるが、嫉妬深い母親、独孤皇后に取り入り、兄の皇太子を廃してかわって皇太子におさまった。  
 当時、高句麗は、南満州の主要部分、つまり遼河から、東の方は韓半島の中心にいたるまでを領有していた。この高句麗に対しては、すでに文帝のときに一度遠征して失敗したことがある。そこで、煬帝は二度と失敗しないように、大量の軍需物資を用意しようとした。それには、新しく領土となった江南から物資を取りよせようとした。長江流域の物資を東北に輸送するために運河を必要とした。そこで、北から白河、黄河、淮水、長江、銭?江の五つの河を縦に連絡する大運河を開削して、北はソ州(今の北京)から 、南は杭州にいたるまでの水路を建設しようとした。そして、運河を開くだけでも大変な労力を必要としたが、そのうえ、大船団をつくり、港、倉庫、宿場や、皇帝の離宮の建設など、統一まもない中国の民衆に大変な犠牲を強いることになった。  
 605年、大運河が完成すると、煬帝は竜船という4階建ての船に乗りはるばる揚州まで大旅行をおこなった。  
 煬帝は、大運河だけでなく、万里の長城の大修築もおこなっている。すべて、民衆の負担である。  
 しかし、高句麗との戦争は3回にわたったが頑強な抵抗にあい、3回とも勝つことはできなかった。そして、この高句麗遠征の失敗の結果、人々の不満は爆発しいたるところで反乱がまきおこった。それは、連鎖反応でとめどもなくなく広がった。民衆が食べていけなくなって自然発生的に起こった反乱である。こうなると、都、長安も安全ではなくなった。煬帝は、比較的安定していた大運河の南の揚州に避難したが、側近の軍人が暴動を起こし、煬帝とその一族を殺し、長安へ向かって移動をはじめた。  
 
 【唐帝国の国際性】   戻る    
 北魏の末期に、モンゴル高原を支配した柔然をたおし、かわって覇をとなえたのはトルコ系遊牧民の突厥であった。中国の北朝は、これに対し属国と同じような立場をとった。しかし、隋が中国を統一すると、突厥が弱くなり、隋の攻撃を受けることになった。   
 唐のおこったころ突厥は東西にわかれ、唐と直接接していたのは東突厥であった。李淵は隋に対して反乱する直前、東突厥の援助を要請している。しかし、間もなく内紛があり唐はこれを利用して東突厥を崩壊させている(太宗の貞観3年630年)。いっぽう、西突厥にたいしても経略をすすめ、657年ついに西突厥を倒して中央アジアを支配した。
   
 隋の時、文帝と煬帝は合計4回にわたって高句麗遠征をおこない満州から朝鮮を支配しようとしたが、いずれも失敗した。このころ朝鮮半島では、北に高句麗、東南に新羅、西南に百済の三国が対立抗争していた。高宗は659年新羅とともに百済をうって平定した。
 しかし、百済の遺臣は日本に援助を求めた。日本は大化の改新のあとで新興の意気にもえ、朝鮮半島に出兵したが白村江で唐に敗れた。667年唐は高句麗をうち、そこに安東都護府をおいた。  
 南方のいまのベトナム方面では679年ハノイに安南都護府を置いて統治した。実際には、そこの土着の諸民族の酋長がそのまま管轄下の長官に任じられた覊縻府州が多かった。  
   
 唐の発展にともなって、海陸両路からの東西の交通が盛んになったが、そこで著しい活動をしたのがアラビア人などのイスラム教徒であった。彼らは陸路、隊商を組織して中国にいたったばかりでなく、海上においてもめざましい活躍をしたのである。唐代の貿易港には、揚州(江蘇省)、泉州(福建省)、杭州(浙江省)、広州(広東省)、交州(ハノイ)があったが、ことに広州すなわち広東は中国第一の貿易港として栄え、アラビア人などはこれをカンフウ(広東都督府の略)とよんだ。唐はこの貿易の利益に目をつけ、市舶司という官庁をおいて輸出入の貨物に課税した。
 
 【唐の盛衰】   戻る  
 隋末の反乱の中に、山西の実力者・李淵がいた。彼は、北周の開国の元勲として称せられた八柱国の家柄であった。彼が唐の最初の皇帝・高祖ある。彼には、二男に李世民という子がおり、唐の天下統一には彼の働きがもっとも大きかった。ところが、兄の李建成が皇太子としてすでに立てられていたが、その地位に不安をいだき末弟の李元吉と結んで李世民と対抗した。これは、やがて武力衝突に発展し、李世民が機先を制して兄・李建成を倒した(玄武門の変)。父・李淵は優柔不断で、やむなくこの事態を黙認し、やがて皇帝の位を李世民にゆずり、みずからは引退して太上皇となった。  
 2代目・李世民は太宗として知られる人物で、不世出の名君として名高い。彼は軍事において卓越した才能を発揮しただけでなく、文治においてもその優れた資質を発揮した。彼は、煬帝の失敗に学び、政治の基礎を儒教道徳におき、自らを厳しく律して質素な生活を送った。「貞観政要」は、玄宗時代の呉競が、李世民と魏徴をはじめとする多くの名臣との政治問答をあつめ、君主に訓戒を与えたものである。「貞観の治」。  
 当時の政治の仕組みは、それまでは皇帝の考えに従い中書省において政策の決定をおこなったが、門下省(長官─侍中)において中書省の決定に審議する役目を持たせた。こうして、政策決定は従来のように皇帝の考えだけでおこなうことができなくなり、中書での決定が門下省をへてはじめて、尚書省によって実施されるようになった。つまり、皇帝であっても一定の手続きを経なければ政策を実行できなくなったわけで、その主権を制限されたようであるが、同時に官吏と政策の責任を分かち合うことになり、時間もかかるが広く意見をきくことになり、それだけ過失を少なくすることができたのである。これが、唐が300年間も永続した一つの理由といわれる。また、唐に新鮮な息吹を感じさせる理由でもある。  
 3代目の皇帝は高宗である。高宗は、生まれつきあまり賢くなく、そのうえ病身で頭痛もちであり、政務を決定する文書を見ることができないことがある。すると、そんなとき皇后の武皇后がかわって決裁をおこなうことになり、しだいに皇后が皇帝のようになってきた。こうして、武皇后は権力を握るようになると、唐の一族を次々と倒し専横な振る舞いをはじめた。次の皇帝・中宗を三ヶ月でやめさせ、かわりに睿宗をたてる。そして今度は自分が皇帝となり、国号を周となのった。これが則天武后である。しかし、よる年波という肉体的現象にはかてず、則天武后81歳のとき、張柬之が宰相に任ぜられる。彼は80歳。老後に死に花を咲かせるつもりで一か八かの危険を冒しクーデタをはかった。そして、武后にせまって中宗に位を譲らせた。そして、一年後に武后は死去する。中国では、女性皇帝の例がないので、皇帝とはいわないで則天武后とよぶのがならわしとなっている。  
 再び皇帝となった中宗はあまり賢くない人物で、常に皇后であった韋后の意見にか左右されることは、高宗と武后の関係の再現のようであった。やがて、韋后は中宗を毒殺し、権力を握ろうとした。このとき皇族の李隆基は、みずから近衛軍を動かして先頭に立って宮中に攻め入り、韋后とその党派を一掃した。そして、自分の父である睿宗を復位させた。そして、まもなく睿宗は皇帝を李隆基に譲った(713年)。これが、玄宗である。  
 玄宗の44年にわたる長い治世は、年号によって「開元」と「天宝」の前・後期にわけられる。前期の「開元の治」は、太宗の「貞観の治」とならんで大唐帝国の最盛期を現出した。
   
 唐は兵農一致の徴集制である府兵制を採用して大いに武力をはったが、府兵となるべき農民の減少、府兵の負担の過重などによって制度がゆるみ、そこで玄宗のときに墓兵制を採用した。ちょうどこのころから、国境外の異民族の動きが激しくなる。外モンゴルではウイグルが突厥を破ってとってかわり、チベットでは吐蕃が強力になり、雲南では南詔が独立していた。そこで710年河西節度使を置いたのを最初として、玄宗のときに辺境10ヵ所に節度使を配置したが、募兵制の採用により、節度使がみずから兵士を募集して強大な力をもった。  
 玄宗は後半の天宝時代に入ると、政治に対する緊張感や興味を失い、政治は急速に腐敗していった。玄宗ははじめ、後宮の武氏を寵愛したが、その死後誰も自分の意にかなうものがいなかった。最後に、自分の18番目の皇子寿王の妃を取り上げて後宮に入れた。これが楊貴妃である。息子のためには別の嫁を世話してやり、世間体をはばかって楊貴妃を出家させて女道士としてから、あらためて皇帝の後宮に入れたのである。時に玄宗55歳、楊貴妃22歳。それからは、寵愛並ぶものはなく、その一族までが高位高官に取り立てられた。
 とくに、不良少年あがりのぐうたらな遊び人であった再従兄の楊国忠は、大名に取り立てられただけでなく、ついには宰相の地位にまでついた。心ある人は危機の到来を予感したのであった。
 
 「長恨歌」 ─ 「ひとみをめぐらして一たび笑えば、百の媚が生まれ、六宮の粉黛も顔色なし」 ─ 白粉で化粧をこらした美人たちも、容貌をゼロと感じさせるほどの美しさ」と歌われた楊貴妃。
 
 西アジアのイスラム世界では、ウマイヤ朝が倒れてアッバース朝がおこった。イスラム勢力は、東トルキスタンの唐の属国に圧力を加えてきたので、唐の将軍・高仙芝は75000の大軍を率いてアッバース朝の軍勢と戦い大敗して逃げ帰った。その部下はほとんど敵の捕虜になってしまった(751年)。  
 そして、唐の屋台骨を揺るがす大反乱を起こすのが、今の北京を根拠地としていた大軍閥の安禄山であった。内モンゴルにあった平盧節度使、北京において奚や契丹などのツングース系部族を抑えていた范陽節度使、山西の太原においてウイグルを防いでいた河東節度使は、河北三鎮として重要な職にあったが、この三節度使を兼任したのが安禄山であった。安禄山は、玄宗が寵愛した楊貴妃に取り入って節度使に取り立てられた。755年、安禄山は、楊国忠を除くことを名目に長安を目指し進撃をはじめた。  
 ここの長い太平の夢は破れ、安禄山の軍はほとんど抵抗らしい抵抗をうけずに東都・洛陽を陥れ、その先鋒は関中に進入した。玄宗は四川に逃亡しようとして長安を離れるが、途中、警護の軍士の要求に屈し、宰相楊国忠と楊貴妃を殺し、やっとのことで四川の成都におちのびた。玄宗は退位し、とどまって戦うことを命じられた皇太子は、朔方節度使の本拠地であった甘粛省・霊武におもむいてそこで帝位についた。これが粛宗である。節度使・郭子儀はモンゴル高原の遊牧民ウイグルの助けを受けて安禄山とそれを継いだ史思明の反乱軍を破った。安禄山は757年息子の安慶緒の殺され、安禄山の部将史思明は安慶緒を殺して自立したが、彼も自分の子史朝儀に殺された。朝儀は洛陽から范陽(北京)へ逃れる途中に殺され、ここに9年に及ぶ大乱はようやく終結した。(763年)
 
 ウィグルの援助によってようやくこの乱を平定できたことは、少なからず唐の威信をそこなうこととなった。安史の乱の直接の影響は、地方軍閥である藩鎮の勢力が強まったことである。反乱の平定には、反乱軍の方が仲間割れし、その有力部隊が降伏してきたことが決定的な力となった。そこで唐は、反乱軍の将士を徹底的に処分せず、投降した将士を逆に、その功績により河北地方の節度使に任命するという妥協策をとった。特に、これを河北三鎮といい、彼らはそのまま地方軍閥・藩鎮として勢力を築き上げ、中央の命令を無視し租税を中央へ送らず、ほとんど独立国のような状態となり、中央ではこれをコントロールできなくなってしまった。
 節度使とは、本来辺境防衛のために置かれた軍団で、いくつかの州を支配し租税を集めて軍隊をやしなったあと残りを中央に送るという形をとっていた。強力な軍隊を擁し、兵士は本籍からの逃亡者や外国からの帰化人たちからなる傭兵であった。
 
 両税法   戻る
 780年徳宗のとき、宰相楊炎は従来の租庸調制の税制を廃して両税法をおこなった。両税法は現在耕作している農民の土地私有を認め、土地の面積・生産力などの資産に応じて春秋2回に金銭で税を納めさせる。春、秋の二期に徴収したのは、華北に二年三毛作が普及して、夏麦の収穫が可能となったからである。しかし、金銭で納めさせるには、当時通貨の絶対量が不足していたので穀物と布帛とで納めせざるを得なかった。
 
 黄巣の乱   戻る
 安史の乱後、均田制が崩れて土地の兼併がおこなわれ、均田農民の没落するものが多くなった。重い負担に耐えかね農民の逃亡が続出し、残る農民の負担はさらに強くなり、さらにそれが逃亡を促すという悪循環におちいる。逃亡した農民は豪族の荘園に逃げ込み小作人となるものが多かったが、山林にかくれ群盗となるものもあった。780年均田制が廃止されて以降、この傾向はいっそう激しくなり、貧富の差が大きくなって社会不安が増大した。このため唐末には農民の反乱が相次いでおこり、876年には黄巣の乱が勃発して、中国ほとんど全土がこの乱に巻き込まれた。
 黄巣は長安に入城すると皇帝の位につき、国を大斉と号した。そのうち、黄巣の前途を見限ってみずからすすんで唐に降伏するものもあらわれてきた。黄巣の前線の指揮官の朱温は軍を率いて唐に帰順した。そして、唐の皇帝はこれを喜んで、温の名を全忠と改めさせた。この朱全忠がのちに唐を滅ぼすことになる。
 これよりさき、西突厥に属していた沙陀の部族が強力になり、中国に移動して山西に地盤をつくった。唐は族長に李国昌の姓名を与えて懐柔をはかるが、反乱をおこして万里の長城の北に追われてしまった。
 
 宦官の専横   戻る
 玄宗のころから宮中で宦官が確固たる地位をきずき、高力士という宦官が政治にも影響を及ぼし始めた。さらに代宗、徳宗のころから、宦官を監軍として軍に派遣するようになり、また、皇帝の親衛隊の神策軍が宦官の監督下におかれるようになると、宦官の発言権はさらに強大なものとなった。
 
 唐の均田制   戻る
 一丁あたり永業田20畝、口分田80畝を標準として田を受ける。それに応じて、毎年、租として粟二石(約100g)、庸として力役20日、調として絹2丈(約6m)を負担。力役は重労働であるが、このほか、軽労働である雑徭を課せられる。これは地方官庁に必要があれば39日まで無償で成丁を使役できるが、40日になると何か代償を与えなければならない。
 政府から均田法により田地を給与された壮丁は、その中から強壮なものが選ばれて軍府に所属し、農業の合い間に軍事をならわせた。その代わり、租庸調全部を免除するのである。

 


 

Top Pageへ