中国社会の変化と北方民族の進出

 

          3 中国社会の変化と北方民族の進出
 
 五代の形勢  宋の統一  神宗と王安石の改革  徽宗
 金の勃興  経済の発達   
    
   
 【五代の形勢】   戻る  
 876年黄巣の乱が勃発して、中国のほとんどがこの乱に巻き込まれた。この乱は鎮定されたが、これからは唐の勢力はまったく地に落ち、各地の節度使が独立した。907年、もと黄巣の部下で唐に帰順して?州(開封)の節度使となった朱全忠は、唐を滅ぼし後梁を建国する。?州(開封)は黄河と大運河の交差点にあたるところで、江南の物資を長安に運ぶときは必ず汴州(開封)を通らなければならない。そして、黄河と大運河を水位が異なるので、運河を北上した船は汴州(開封)で一度物資を積み替えて、別の船が黄河を西へ向かうのである。つまり、交通の要衝・物資の集積地であり、その重要性は増すばかりであった。  
 朱全忠の後梁はこの要衝によったのである。この梁に対して、黄巣の乱の鎮定に功労のあった李克用は山西の太原に拠って対立した。両者は激しく争ったので、北中国の情勢は不安定であった。まもなく、李克用が死に、天才的な軍人である李存勗があとを継いだ。  
 朱全忠は後継を争う息子の一人によって即位後6年目に殺された。李存勗は自立して後唐の荘宗となり、後梁を倒して都を洛陽に移した。これから、後晋、後漢、後周があいついで興亡する。これら五代の王朝はみな節度使の出身で、武人政治をおこない、国内でも各地に節度使を任命していた。  
 河東の節度使として山西の太原に勢力をもっていた石敬?は、後唐の相続争いに乗じて、契丹の援助を受けて洛陽を陥れ帝位についた。これが後晋の高祖であり、後唐は15年で滅んだ。石敬瑭は契丹にたいし援助の見返りとして、北部国境の十六の州を与える約束をした。燕州はいまの北京の地、雲州は山西省北部の大同である。住民は主として中国人であった。石敬瑭の死後あとを継いだ出帝はこの約束を実行しない。そこで契丹の大軍が進入して開封に入城し、後晋はわずか10年で滅んでしまった。太原によっていた沙陀族出身の後晋の節度使・劉知遠は、契丹軍が北に帰ると、開封に入り即位した。これが後漢の太祖であるが、後漢も4年で滅亡した。  
 ただこれらの王朝では時代がくだるにしたがって、中央に強力な禁軍、すなわち皇帝の親衛隊をおいて節度使を制圧しており、後周の世宗は強力な禁軍を編成して節度使を抑圧するとともに、中国を統一しようとした。世宗は、長江から北をほぼ支配し、後晋の石敬瑭が契丹に割譲した、いわゆる燕雲十六州の奪回にとりかかった。世宗はみずから軍を指揮し瓦橋関(河北保定)までを回復したが、病気のために倒れた。子の恭帝が7歳で即位した。将士たちは幼い皇帝に不安を抱き、軍事的才能が高く人望の厚かった禁軍の将軍・趙匡胤をおしたてて帝位につかせた(960年)。これが宋の太祖である。禁軍の指令官であった宋の太祖趙匡胤は後周・世宗の政策を踏襲した。  
   
 【宋の統一】   戻る  
 太祖や2代目の太宗は唐末五代の節度使の弊害を体験していたので、これを解体させることに努めた。  
 太祖は軍人を抑えて文官優先の原則で政治をおこなった。皇帝に軍事権を集中し禁軍の指揮官を廃止して皇帝が禁軍を統帥するようにし、これを首都の開封に常駐させて中央集権を確立した。また、これまで軍人が幅をきかせていた地方の節度使や地方長官も、しだいに文官にかえていった。   
 太祖と弟2代目の太宗は呉越などの帰服をうけ、山西の北漢を征服して979年中国を統一した。そして、国境警備の将軍を内地と同じように文官に入れ替え財政権も中央に納めてしまった。このようにして節度使のもっていた兵権・民権・財政の権を奪って、地方をことごとく中央政府に直轄させ武人政治にかえて文官による政治体制を確立した。つまり宋は文治主義による中央集権的官僚体制をとって、君主独裁体制を確立した  
 しかしその結果、軍隊の訓練も行き届かなくなり、軍隊はしだいに弱くなって戦いにも敗れてばかりいた。  
 五代は政権が武官によって争われたが、宋代において最も幅をきかせたのは科挙に合格した官僚である。官吏のでた家は官戸といい、さまざまな特典を与えられた。そのうえ官吏にはいろいろ莫大な収入があって、三年つとめると孫子の代まで安楽な生活ができるといわれた。そこで科挙には受験者が殺到し、棺おけに足を入れかけた老人の受験者さえあり、孫に手を引かれて試験場にやってくるという光景も見られた。太宗の時代から科挙の合格者は急速に増え、次の真宗のころには合格しても、長い間官吏になることのできないものが続出した。官吏の増加は俸給の増加として政府の財政を圧迫した。  
 2代目の太宗(太祖の弟)の時代国内の統一がほぼ完成したので、北漢の攻撃を開始した。北漢は遼の後援を受けていたので、これが宋と遼の戦いのきっかけとなった。歩兵を主力とする宋軍は、華北の平原では遼の騎兵の機動力に対抗できず、燕州を攻撃していったんは手に入れたが、遼の騎兵に攻囲されて大敗北を喫し、太宗はわずかに身をもって脱出した。燕雲十六州をめぐる遼との戦いはその後十数年に及び、宋はたびたび敗北を重ねたが、今度は西北地方にタングート族の西夏がおこり、その戦いも始まった。  
 太宗が死ぬと、その子の真宗が即位した。1004年遼は大挙して進攻を開始し、南下して黄河の北岸に近いカ州まで進撃した。宋ではこの知らせに大衝撃をうけ、首都・開封をすてて都を江南に移す案まで出されたが、宰相寇準の意見により、皇帝みずから黄河を渡り、カ州に進撃して士気を鼓舞することになった。寇準は一方で遼軍に対して戦う姿勢をしめすとともに、一方で遼軍に使者を送って交渉を始めた。その結果、遼に毎年絹20万匹・銀10万両を贈与すること、外交文書には年少の遼の皇帝が年上の宋の真宗を兄とよぶことを定めて和議が成立した。こうして、遼と宋の関係は小康状態を保つこととなった。  
 また、真宗の次の仁宗(在1023〜63年)は在位40年に及ぶ。その間、西夏が西北国境に頻繁に侵略をくりかえした。李元昊は、オルドスの草原地帯から西の河西のオアシス地帯をへて中国の西域への通路である甘粛省回廊地帯までの大領域をおさめ、1038年西夏帝国の皇帝となった。西夏の精鋭を率いた李元昊のため大敗北を喫した宋は、毎年銀5万両・絹13万匹・茶2万斤を贈る条件で和議が成立した。しかし、実力でかちとった平和ではないので、その後も侵攻を繰り返す西夏に敗北を重ね、その結果銀45万両・絹55万匹に改定された。遼に対してもこれに応じて銀20万両・絹30万匹を贈ることを取り決めたため、大きな財政負担がかかることとなった。また、遼・西夏に対する防衛のため兵力は160万に達した。兵士は実戦の経験に乏しく、訓練も不十分であった。この戦費の負担も大きな財政負担となってのしかかった。  
 仁宗の時代には特権的な官僚層の増加する反面、農民は重い職役(徴税や輸送、自治的職務)の負担に苦しみ転落するものがあった。さらに大土地所有がすすむにつれて、小農民の問題も深刻化していた。このような内外の重要な課題があったが、1068年神宗が即位すると、かねて有為の官僚ときこえていた王安石を参知政事に抜擢した。  
   
 神宗と王安石の改革   戻る  
 20歳の青年皇帝である。1067年即位。信じるところにしたがって事を断行する性格の持ち主であった。これまで遼や西夏に対して屈辱的な条約を結び、内には国政が乱れているのを見て、その改革を決意した。  
 田舎まわりばかりして地位はそれほど高くなかったが、若手政治家のうちで最も評判のよい王安石を知った。王安石はいわゆる唐宋八大家の一人で、文章がすでにその名声が高かった。彼は今の南京の知事から中央政府に召された。  
 
 最初に実施した新法   戻る    
 均輸法 ─ 御用商人が中間の不当利益を独占。この矛盾を解決するために実施 ─ 大商人の反対    
 青苗法 ─ 農村への小口の低利資金を融通 ─ 地主の反対    
 市易法 ─ 大きな都会には商工業の組合が発達し、政府の物資を調達するかわりに、営業の独占を認められていた。組合は2・3の豪商に牛耳られ、組合の小商人の多くは豪商から高利の資金を借りて商売をおこなっていたので、利益の大部分を彼らに搾取されていた。商品の流通を盛んにするためには、商人を豪商の束縛から解放するための資金を融通することが必要であった。    
 保甲法・保馬法 ─ 宋の軍隊は中期以降ほとんどめざましい軍功をたてたことがない。王安石はそこで農民に対し、郷土防衛のため自警団をつくることを指導。これを保甲法という。戦争では馬が不可欠である。そこで保に馬を飼わせたり官馬を貸し与えたりして養育させ、有事の際にはこの馬を挑発した。  
 弱者の利益を保護することは当然の結果として従来の強者が既得権と考えていた領域を侵すことは避けられない。そこで朝野の有力者の間から反対の声があがってくるのも、当然の成り行きであった。宋は、西夏との交戦以来、国家財政が破綻して民衆にしわよせが及んでいたが、官僚は既得権に安住し、抜本的改革に消極的だった。
 王安石は江西省の出身で、22歳のとき科挙に合格し地方官を歴任した。生来剛直な性格の彼は、生活苦のなかで地方の実態を長年にわたり見てきており、その体験がのちの新法実施につながっていくのである。
 王安石がこのような改革を強行したことで、国家財政はいちおうの立ち直りをみせる。しかし既得権を侵された官僚層からは猛烈な反発を買うことになり、彼に対しては「世間知らず、いじっぱり、姦人」など、あらゆる罵署が浴びせられる。とくに華北の保守派は、江南人を中心とする新法派の台頭を喜ばず、以後宋は、新法派と旧法派の泥仕合のなかで衰退していく。  
 
 神宗が死んで哲宗が後を継ぎ祖母高太后(神宗の生母)が摂政となると、王安石は退き引退した。旧法党の司馬光が宰相に任じられた。彼は王安石の一派を追放し、新法をすべて廃止してしまった。高太后が亡くなり、旧法党をきらった哲宗が親政をはじめると、新法が復活された。哲宗が死に弟の徽宗が即位し向太后が摂政となると旧法党が復活するが、徽宗が親政をはじめると新法党が政権に復活した。しかも、その指導者蔡京は王安石持ったような改革の理想のない人物で、徽宗の意を迎えて反対者の弾圧にのりだした。  
   
 徽宗    戻る  
 150年にわたって続いた北宋もこの皇帝の時に滅亡(滅亡直前に子供の欽宗に位を譲っているが)。神宗の子供。兄の哲宗が死んで跡継ぎがなかったので、弟5人のうち誰を皇帝にしようかというときに、嫡母の向氏が選択を誤った。遊び人皇帝として有名。主席大臣の章惇が「道楽者(浪子)」という評判があるからと反対したが、彼は大臣の地位を奪われて、地方に追いやられた。  
 さていよいよ徽宗が政治をやりはじめると、本来の道楽者の気質がでてきた。鳥や獣をあつめ、さらに花や樹木や庭石を集めだす。全国から珍しい樹木や石を集めよという指令を出した(花石綱)。庭ができたら今度は建物が必要となる。そして、今度はその中に入れるものが必要となり、書画や骨董に凝りだす。ここまでくれば、ありとあらゆる金のかかる道楽が全部揃ったことになる。 ─ 全国から集めた奇石をくみあげた名園をつくりあげた。また自身、素人離れした画筆を振るう(「桃鳩図」)。
   
 金の勃興    戻る  
 このころ北方では遼が国勢が下り坂となり、満州では新しく女真族の金が勃興した。女真族は遊牧民の契丹とちがって狩猟・農耕民族である。11世紀頃から統一国家の形成。中心人物がワンヤン部出身のアクダ。1114年遼の差し向けた討伐軍を打ち破って、1115年全女真族を統一。国号を金とする。これが金の太祖である。1120年には遼の首都上京臨黄潢府を陥れた。宋は燕雲十六州を取り返す好機と見る。宋と金が協力して、遼を南北から攻める計画をたてた。金が北から遼を攻めるのに応じて、宋は南から遼の南京を陥れる。そしてこの攻撃が成功すると金は燕雲十六州を宋に返還するが、それ以外の遼の領土は金がとり、宋は従来の遼に与えていた銀・絹を金に贈与する。以上のような内容の取り決めをおこなった。  
 金の太祖はこの条件にしたがって遼の上京・中京を陥れ、西京(今の大同)を陥れる。宋は童貫を将軍として遼の南京(今の北京)を攻撃したが、遼軍の抵抗で陥れることができず、結局、金軍の力によって北京を攻略することができた。戦いが一段落すると、宋は燕雲十六州の全部を取り戻すつもりだったが、金との交渉の結果、燕州など六州しかもらえなかった。遼討伐に果たした宋の役割から考えて、これも仕方のないことだった。金の太祖が死んで弟の太宗が即位すると、宋は掌をかえしたように毎年の銀・絹の贈与などの支払いの約束を守らないばかりか、金の支配下の中国人をそそのかして反乱をおこさせたり、逃亡した遼の王族と手を握ろうとしたが、いずれも発覚して、金の感情を悪化させた。  
 金の太宗は1125年南下を開始して翌年の正月、首都の汴京に達し、宋は太平の眠りを覚まされることとなった。宋の徽宗は責任を負って太子に位を譲った。これが欽宗である。欽宗は金軍との講和を図った。宋は金に金500万両・銀5000万両の支払いと中山・河間・太原の三鎮と二十州を要求し、宋はこれを約束した。金が北に帰ると宋は約束にそむいて、金の国内に密使をおくって内乱を起こそうとした。金の太宗は激怒して再び南下して汴京を包囲した。汴京はたちまち陥り、金軍は欽宗・徽宗らを捕らえ満州に引き上げた。1127年北宋は168年で滅亡した。徽宗の皇子・高宗は身をもって首都の汴京を脱出し、はじめ長江岸の揚州にうつり、金軍が揚州に迫ると長江を渡って、抗州から温州に逃れた。寧波までせまった金軍はいたるところで宋の義勇軍抵抗にあったので、長江を渡って北に帰った。1138年、高宗は臨安すなわち抗州に帰って南宋の基礎がおかれ、南北対抗の形勢が出現した。  
 金の捕虜となっている間に金の和平派と了解をもった秦檜が帰還した。高宗は彼を要職につけて金との和平交渉をおこなわさせた。秦檜は金と和平条約を結んだ。内容は、淮水を国境とすること、銀25万両・絹25万匹を金にわたすこと。宋の皇帝は金に臣礼をとることなどを約束する。両国の和平は実現したが、河北を実力をもってとりかえせると確信する軍人、金との和平を恥だとする学者・学生たちはこの講和に猛然と反対した。  
 秦檜は岳飛「を無実の罪で告発しついに獄死させた。岳飛は後世長く中国一の救国の英雄として崇拝をうける。  
  
 遼が滅びたとき、その一族耶律大石が部族を率いて西域に逃れ、セルジュクー=トルコ族を破って領土を広め、さらに現在の新疆もあわせて西遼を建設した。耶律大石は、太祖阿保機8世の孫にあたり、文武両道に通じていたという。
 彼は草原のモンゴル系諸部族を糾合し、さらにセルジューク朝の勢力圏にあった西に向かう。セルジューク帝国は第1次十字軍が終わったあとも兵力を対ヨーロッパに集中させ、中央アジアは無防備に近い状態になっていた。そして、1132年のカラ・ハーン朝との戦闘に勝利した耶律大石は皇帝と称し、モンゴル系の政権としてはのちのモンゴル帝国にさきんじて中央アジアに覇を唱えることとなった。
   
 経済の発達    戻る   
 唐では開元通宝をはじめ貨幣の鋳造がおこなわれたが流通は少なく、物の価値を絹などの物であらわし、実物経済の面が残っていた。宋代になって銅銭が増加し、完全に貨幣経済の時代に入った。唐には飛銭という手形が用いられはじめたが、宋には交子・会子という紙幣がさかんに使用されるようになった。  
 唐末から特に長江以南の開発は大きく進んだ。長江下流の蘇州・杭州を中心とする地方の米作の発達により、「蘇常熟すれば天下足る」という言い方がされるようになった。  
 唐の安史の乱後、均田制が崩壊し流浪する人々が多くなると、それまで本籍地主義をとって一般の人々の移住を認めなかったことを改め、本籍の人 ─ 主戸のほかに、寄留の人 ─ 客戸を認めるようになった。
  客戸 ─ 彼らは地主の土地を耕す小作・佃戸・佃客でもあった。
  主戸 ─ 資産に応じて五等に分けられて税を負担した。客戸は人頭税を納める。  
 主戸のうえに官僚で種々の特権をもつ官戸があり、一等・二等の戸とならんで、人口中の十分の一の大地主が耕地の90%近くを所有した。大地主は荘園を単位に佃戸を小作として経営し始めた。唐の荘園で奴・婢をつかって経営された部分がしだいに小作経営に変わっていった。  
 南宋では失った黄河流域に変わり、長江流域の開発にいっそう力が入った。  
 南宋の外国貿易は北宋時代をはるかにこえる盛況を呈し、とくに磁器は世界的に名声が高く、ジャワ・エジプト・アフリカのソマリアの海岸などの遺跡から、磁器と宋の銅銭が多く発見されている。  
 マルコ=ポーロは、臨安(杭州─キンザイ)を「地上の天堂」とよんだ。まるで天堂にいるようで、いつかもう一度帰りたいと思うと語り、マルコ=ポーロを魅了した町として有名である。   
 
 
 
   
 B 王安石の改革(新法、1069年)  
   ※ 皇帝(16   )が王安石を登用  
  1 富国策  
    @ (17    )法  ― 農民への低利の資金貸し付け  
    A (18    )法  ― 中小商人への低利の資金貸し付け  
    B (19    )法  ― 免役銭徴収、失業救済  
    C  均輸法  ― 物価安定策・物資流通の円滑策  
  2 強兵策  
    @ (20    )法 ― 兵農一致の強兵策  
    A (21    )法 ― 民間に軍馬を飼育させる  
    
  3 (22     )ら保守派官僚の反対 → 新法党と(   )党の党争  
   → 政治の混乱、国力弱体化  
    
 【遼と西夏】  
 A 遼(916〜1125年)    
   ※ モンゴル系(23   )族 ― 遼河上流で半農半牧、ウイグルに服属  
  1 (24      )(太祖)が建国  
  2 (25   )を征服(926年、中国東北部支配)  
  3 (27   )十六州 ― (26   )(石敬K)援助の代償  
  4 (28    )の盟(1004年)  
    宋(兄)・遼(弟)の関係、 歳貢(銀・絹)を得る  
  5 (30   )統治体制 ― 征服王朝の特徴  
    遊牧民=部族制で統治(北面官)  
    農耕民=州県制で統治(南面官)  
  6 文化  
   @ 仏教文化  
   A 独自の(31    )文字(民族的自覚のあらわれ)  
    
 B 西夏(1038〜1227年)  都:興慶  
  1 チベット系(32      )(陜西・甘粛方面に居住)の(33     )が建国  
  2 東西貿易路を支配  
  3 慶暦の和約(1044) ― 宋は歳貢(銀・絹・茶) を与えて、和議  
  4 西夏文字  
  5 モンゴル人(チンギス=ハン)に征服される(1227年)   
          
 【女真の侵入と南宋】  
 A 金(1115〜1234年)   都:会寧  
  1 (35      )系の女真族 ― はじめ遼に服属  
  2 (36       )(太祖)が建国  都:燕京  
  3 宋と結び遼を滅亡(1125年)  
   → 耶律大石が中央アジアにのがれ、カラ=キタイ(西遼)を建国  
  4 (37   )の変(1126〜27年)   
   宋の上皇(39   )・皇帝欽宗を捕虜 → 北宋の滅亡  
    
 B 南宋(1127〜1279年)  都:(40   )(臨時の都の意味、現在の杭州)  
  1 宋の一族(41   )が江南に逃れ建国  
  2 主戦派(42   )と和平派(43   )が対立 → 和平派勝つ  
  3 金と和議(1142年)  
   金に臣従し歳貢を贈る。(44   )と大散関の線を国境とする。  
    
 C 金の支配  
  1 二重統治体制   
  (45   ・   )(従来の軍制)を維持 ― 中国風の州県制と併用  
  2 女真文字 ― 国粋保存につとめる  
  3 (47   )教の盛行(王重陽) = 儒・仏・道の3教を調和  
  4 (46   )(紙幣)の乱発で混乱  
  5 モンゴル民族(オゴタイ=ハン) に滅ぼされる(1234年)  
    
 【宋代の社会】  
 A 大土地所有(荘園) = 佃戸制  
    荘園の所有者 = 新興地主(形勢戸・49   )  
    荘園の耕作者 = (50   )(農奴的小作人)  
   ※ 一般の自作農 ― 重税の負担で流民化  
    
 B 農業の発達  
  1 江南の開発  
   「52             」(長江下流域が米作の中心)  
   稲の品種改良:(51   )(早稲、ヴェトナム原産)  → 1年二期作  
  2 華北 ― 2年三毛作  
    
 C 手工業  
   陶磁器(白磁・青磁) ― (53    )(江西省)  
   蘇州の(54  )織物  
    
 D 商業の発達  
  1 商業都市が発達   
   商業制限(市など)がくずれる、夜間営業の許可など   
  2 海外貿易の発展(→アラブ人の活動)   
   (55   )(広東省) ・(56   )(福建省) ・明州(寧波)など繁栄  
   (58    )(貿易管理機関)を設置  
  3 草市(地方の小規模な交易場) → 鎮・市(小商業都市)  
  4 同業組合 ― (59  )(商人)、(60  )(手工業者)  
  5 貨幣経済  
   銅銭(宋銭)が流通(日本が輸入)  
   紙幣 ― (62   )(北宋)・(63   )(南宋)  
    
 【宋代の文化】  
 A 特色   
  1 中国的  
  2 (64    )(読書人、地主・官僚)が中心  
  3 庶民文化の発達  
                            
 B 儒学  
  1 宋学(=朱子学)  
   ※ 儒学の精神・本質を経典から明らかにする ← (65   )の影響  
   @ (66     )(北宋)にはじまる ― 『太極図説』  
    → 程・程頤(北宋)をへて  
    → (67    )(南宋)が大成  
   A 五経よりも四書を重視。  
   B 理気二元論  
    (68     )論 = 華夷の別、君臣・父子の身分関係を正す  
  2 (69    )(陸象山)  
   「心即理」=人間の心性を重んじる、明代の(70   )学の源流  
    
 C 歴史  
   司馬光 ― 「71     」( 編年体の中国通史)  
   欧陽脩の「新唐書」   
   
 D 絵画  
  (72   )画 ― 米Mら知識人 → 南宗画  
  (73   )画 ― (74   )(北宋皇帝)、宮廷画家、写実的 → 北宗画  
    
 E 工芸 ― 青磁・白磁などの陶磁器  
    
 F 文学   
  唐宋八大家 ― 欧陽脩・(75   )(「赤壁の賦」)・蘇洵・蘇轍・王安石・曾鞏  
  (76   )(宋詞) ― 新体の韻文   
   
 G 宗教  
  (77   )教 ― 開祖:金の王重陽(儒・仏・道を調和)           
     
 H 宋の三大発明  
   印刷術(木版の「大蔵経」など、畢昇の膠泥活字の発明) 、火薬(11世紀)、羅針盤(12世紀)  
   ※ 後漢の紙を加えて「中国の四大発明」    
  
  
       
 ☆ 重要語句  
 藩鎮 佃戸 五代十国 武断政治 宋 趙匡胤 文治主義 殿試 J淵の盟   
 王安石 神宗 青苗法 均輸法 市易法 募役法 保甲法 保馬法 新法党   
 契丹 遼 二重統治策 タングート 司馬光 耶律阿保機 燕雲十六州 西夏   
 女真 金 カラ=キタイ 靖康の変 南宋 猛安・謀克 交鈔 完顔阿骨打   
 秦檜 岳飛 開封 官戸 形勢戸 蘇湖熟すれば天下足る 景徳鎮 広州 泉州  
 明州 市舶司 行 作 交子 会子 宋学(朱子学) 四書 資治通鑑 周敦頤  
 朱熹(朱子) 陸九淵 文人画 院体画 詞 全真教 火薬 羅針盤  
 徽宗 蘇軾  
    
 ☆ 重要年代  
 宋の建国 王安石の改革の世紀 靖康の変 金の滅亡 

 

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