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4 モンゴル民族の発展
チンギス=ハンの出現
チンギス=ハンの西征
バツゥーの西征
モンゴル帝国の分裂
フビライの中国征服
元の中国支配
東西の交通 マルコ=ポーロ
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万里の長城の北にはゴビの大砂漠 ─ 砂と岩山の連続で到底人の住めるところではない。その周辺にはところどころに広い草原があり、そこでは遊牧民が馬や牛や羊の群れを追い、天幕を携えて転々としながら生活していた。彼らは血縁による集団である部族組織を保って社会を維持していた。強力な部族が弱小な部族を支配して遊牧国家を形づくっていた。時にはこの遊牧国家が非常に強大な勢力をもち、南の中国を圧迫することも多かった。
ウイグル遊牧国家が崩壊してからは、モンゴル高原にはこれを継ぐ強力な統一国家はあらわれなかった。12世紀中ごろには、モンゴル高原の各地には多くのモンゴル系・トルコ系遊牧部族が割拠していた。このなかから現れて大遊牧帝国を建設したのがチンギス=ハンであった。
外モンゴルの中央、オルコン・トラ・セレンガ河の合流する一帯の平野は最も肥沃な牧地であった。
1206年、テムジンは有力者の組織するクリルタイの会議において全モンゴルの主権者に推戴された ─ チンギス=ハン。西夏への攻撃を開始した。西夏の領土は河西回廊にまたがり東西交通の要衝をおさえていた。中央アジアから中国へ出入するとき必ず通らなければならない敦煌や玉門関・陽関、その背後の涼州などはすべて西夏の領土に入っていた。チンギス=ハンの侵入で服属した。次に中国の華北に侵入して金を攻撃した。
また、ジュンガリアのナイマンを滅ぼし、西夏の西にあって東西交通の通路の一部を占有している西ウイグル国は、すすんでチンギス=ハンの保護下に入った。さらに長子ジュチを派遣して、その西方のカラ=キタイ(西遼)の王位をを奪っていたナイマン部の残党クチュを破った。
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当時、中央アジアから西アジアにかけて、トルコ系のホラズム王国が強盛を誇っていた。トルコ系遊牧民の出身で、セルジューク朝に奴隷として仕えていたアヌシ=テギンという男が封土を与えられたのがこの王朝の始まりであったセルジューク朝が衰退するなかで、次第に勢力を強め、第7代アラー=ウッディーン=ムハンマドはサマルカンドを都に、東はインダス河、西はメソポタミアにいたる広大な領土を支配した。
1215年最初のホラズムの使節団が金の首都中都(北京)を訪れ、チンギス=ハンの大本営にたどりついた。一行は丁重に取り扱われチンギス=ハン自らが謁見した。チンギス=ハンはホラズムとの通商を望んだ。1218年、約400人の隊商が組織され、500頭のラクダに東方の珍貨を積んでホラズム王国へむかった。しかし、この隊商がシル河のほとりのオトラルという町につくと、この地方の知事イナルチュクはこの隊商をすべて逮捕して惨殺し、すべての貨物を奪ってしまった。一行のうちただ一人が獄中を脱してチンギス=ハンに報告した。チンギス=ハンはこの悲報を聞くや自制心を失い、怒りに目がくらみ、復讐を誓った。チンギス=ハンはトルコ人ブグラーと二人のモンゴル人をムハンマドのもとに送り、オトラル事件の責任を追及した。これに対し、ホラズム王はブグラーを殺し、モンゴル人の鬚をそり落として追放した。チンギス=ハンはただちにクリルタイを開き、1219年秋、ホラズム征討の軍をおこした。
1219年、チンギス=ハンはモンゴル軍20万を率いて復讐の遠征を開始した。まず、オトラルを攻め落とし、その知事イナルチュクはを捕らえてサマルカンド包囲中のチンギス=ハンのもとに護送され、その面前で拷問の後、銀を溶かしてその目と耳に注ぎこまれて殺された。それから怒涛のごとくホージェンドやボハラやサマルカンドの各都市を占領しては破壊をした。チンギス=ハンはサマルカンド攻略後、ジュベ、スブタイ、トクチャルの三人の将軍に「ムハンマドを生け捕りにせよ」と命じた。彼らがアム川をこえてバルフにいたると、国王はすでに西方のエシャプールに逃れていた。ホラズム王ムハンマドは、カスピ海東南部の孤島アーバスクーン島に逃れて、そこで心身ともに疲労し失意のうちに病死した。
サマルカンド攻略後、チンギス=ハンはチャガタイ、オゴタイを派遣しホラズムの旧都ウルゲンジ城を攻撃させた。工芸技術者は助け、婦人と幼児を除く人々は虐殺された。
ホラズム王の三男ジェラール=ウッディーンは一人モンゴル軍と勇敢に戦った。ヒンズークシ山脈で南下してきたモンゴルのジギ=フトフの軍を破ったことは、ホラズム側の数少ない勝利のうちの最大のものであった。この戦勝でホラズム軍の士気は大いにあがったが、戦利品の分け前をめぐって紛争がおきてしまった。ジェラールはインドをめざした。チンギス=ハンの軍は、インドへ逃げるジェラール=ウッディーンを追いつめてインダス河の岸に達した。ジェラール=ウッディーンは河を背にしてモンゴル軍に最後の突撃をかけてたじろがせたのち、人馬もろともインダス河に飛び込んだ。チンギス=ハンはジェラールの後を追おうとするモンゴル兵を押しとどめた。そして「武士たるものはあのようでなければならぬ」と賞賛したという。インダス河畔の出来事は、モンゴル西征中のもっとも劇的な出来事であった。
ホラズム王ムハンマドがカスピ海の孤島で死んだことを聞いたジェベ、スブタイの二将軍は南ロシアに侵入した。1223年、キエフ公国は南ロシア諸侯の連合軍を組織し、カルカ川でモンゴル軍を迎え撃ったが、モンゴル軍はこの連合軍を打ち破り、逃げる敵を追ってドニエプル河畔に達した。
一方、チンギス=ハンはインドからアフガニスタンを経てサマルカンドに達し、1225年モンゴルに帰還した。
チンギス=ハンは西征から帰って、1226年には西夏攻撃に出陣して西夏を滅ぼし、次に金を攻めようとして病気にかかり74歳で死んだ(1227年)。
モンゴル族の間では君主の後継者は有力者の会議クリルタイで推薦される。チンギス=ハンの後継者として、第3子のオゴタイがクリルタイで選ばれて大ハンの位についた。中国風の諡では、太宗と称する。オゴタイは父チンギス=ハンの志をついで金の攻撃を再開し、これを滅ぼして淮水以北の華北を併合した。また、バツゥーを総大将としてロシアからヨーロッパへの遠征をおこなった(バツゥーの西征)。
モンゴル軍のすぐれた機動力はすべてが騎兵であることによる。歩兵はいない。敵が弱ければ攻め、強ければ退く。また町を攻めるには、まず投降を勧告して戦闘を回避しようと努めた。敵と戦うにも捕虜を前面に立ててモンゴル兵の被害を防いだ。モンゴルの騎兵は西アジアやヨーロッパの重装騎兵とちがって、装甲を施さない軽装である。兵士も簡単な皮の鎧をつけるだけである。重装騎兵が剣と槍を主な武器とするのに対し、彼らの主な武器は弓矢である。馬に乗りながらのすぐれた旗射能力こそがモンゴルの戦闘力の要であった。防御力では劣るが、運動性と攻撃力ではるかに優っていた。第二次大戦での零戦をほうふつとさせる。兵士は予備の馬を5・6頭ともなっていた。
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イランの地はこの遠征の前にすでにジェラールが死に、モンゴルの支配下に入っていたので、ブルガル族を平定するためカザフ=ステップを西に向かって出発した。翌年の春には東ヨーロッパ平原に入り、モスクワをはじめその周辺の諸侯国に軍を進め占領した。モンゴル軍はいったん南下してキプチャク草原に帰還し休養した。そして2年後に再び軍を進め、ロシア最大の王国ルーシの首都キエフの平定に向かった。キエフはロシアにおける最も繁栄していた都市である。
キエフ攻略後、バツゥーはみずから本隊を率いてハンガリーに進んだ。そして、兄のオルダの軍とチャガタイの子バイダルの軍をポーランドに侵入させた。モンゴルの侵入でポーランドの主要都市が次々と攻略されて、ヨーロッパは援軍をポーランドに送り、ポーランドも最大規模の軍を動員して防御線をリーグニッツにしいた。そして、戦端が開かれた。モンゴルの戦線部隊はポーランド軍の第一隊の歩兵に押されて退却した。第一隊はこれを追撃する。これこそ、退却を装って伏兵を用いるモンゴル軍の常套手段である。第一隊が本隊からかなり離れたとき、モンゴルの騎兵が反転して襲いかかる。また、左右からモンゴルの大軍が押し寄せて包囲すると、一斉に矢をはなった。第一隊は全滅した。第一隊を援助するために出動した第二隊・第三隊ともモンゴル軍の待ち伏せにあって潰走する。それをモンゴル軍が追撃する。
バイダルの率いるモンゴル軍はポーランドを蹂躙すると、バツゥーの本隊に合流すべく南下した。バツゥーはそのときすでにハンガリー国王軍を破り、全ハンガリーを支配下におきつつあった。
モンゴルが史上最大の帝国を築けたのはなぜか。天才的な戦術、モンゴル兵の勇敢さ、騎兵のすばらしい機動力、それだけではなく、それを支える力としてウイグル人とイスラム教徒の商人たちの活躍があった。
モンゴル帝国の分裂 戻る
オゴタイの死後、グユク=ハンが大ハンに推戴されるが在位3年で死んだので、その後継者にチンギス=ハンの末子ツルイのモンケが4代目の大ハンに推戴された中国流では憲宗とよばれる。モンゴル民族には遊牧民の末子相続の風があり、それは年長の兄から順次財産を与えられて分家し、その間末子は長く父と同居するため父が死ぬと、そのとき財産を相続するのが自然だからである。ただしツルイの場合、最もチンギス=ハンに愛されて同居していたため、独自の領地を与えられず、しかも大ハンの地位がオゴタイの系統にいったため、わずかな領地を持つに過ぎなかった。しかも大ハンの地位は世襲できるとは決まってなかったので、大ハンの直轄地であるモンゴルと華北は子孫がいつまでも支配できるとは限らない。そこでモンケは新たに領土を拡大して、これを子孫に相続させようと考えた。
モンケは即位すると、東西に軍を出し、西では地中海に達する全イラクの地が、東ではチベット・雲南の地が新しく領土となった。末弟フラグはアフガニスタンからイラン・メソポタミアにわたる地方に割拠していたトルコ系諸侯を征服しさらにシリアめで平定して、ここにイル=ハン国を建国した。それと並行して、モンケ=ハンは東方の侵略に着手した。弟のフビライに雲南・チベット・安南方面の攻略を行わせた。フビライはモンゴルの君主のなかで最も中国文化に理解を持っていた。フビライは四川から雲南に侵入して大理国を滅ぼす。次にチベットに入り、この地のラマ教政権を帰服させた。これがモンゴルとラマ教との結合の始まりである。これ以来、ラマ教が宮中に入り、モンゴルの国教のような地位を占めるようになった。フビライがチベットに入った際、パスパというラマ僧がフビライに謁したが、年15歳にかかわらず応対は流れるごとくであった。フビライは感服して連れ帰り、国師の待遇を与えて尊重した。
西夏の西にあたるウイグル人の帰服 ─ ウイグル人はもとトルコ系の遊牧民であったが、このころ新疆に移住して遊牧民から転じて商業民族にかわり東西貿易に活躍した。このウイグル人がすすんで帰服したのを喜び、その商業的な才能を利用して、その財政を一任するうち、ウイグル文字の使用がいつとなくモンゴル人の間に広まってきた。
モンケ=ハンの南宋への総攻撃。モンケ=ハン自身は四川へ侵入して長江を下り、安南にあるウリヤンハイは広西・湖南を経て長江へ出、フビライは湖北の正面を突破して後の武昌にあたる鄂州に出て、ここで三軍が合流して長江を下って、南宋の都へ進撃する手はずであった。しかし、モンケ=ハンは中国・四川省の前線で急死する。フビライは急遽南モンゴルに築いていた彼の居城・開平に戻りクリルタイを開き、有力な王侯が参加しないのを無視してみずから大ハンの位についた(1260年)。フビライは同時に北京を大都としここに中国を支配するのための中央政府を設けた。しかし、モンゴルの首都カラコルムにいた末弟のアリクブケも、ハンの位についたため、ここにフビライとアリクブケの兄弟の帝位をめぐる抗争が始まったのである。
フビライの中国征服 戻る
元は世祖フビライが南宋を滅ぼしてから中国に君臨すること約90年。まず中国の華北を征服。華北には中国人のほかに契丹人・女真人が多数すんでいたが、これらを総称して漢人といった。世祖フビライは今度はこの漢人を利用して南宋を攻めた。こうして南宋を滅ぼしたあと、その旧領の住民を南人をと称した。次に日本に対し侵略軍を送るときは南人が使われた。そのときの大将、呂文煥や范文虎は降伏した南人であった。
高麗を服属させたフビライは、日本に対し高麗を通して服属を求めてきた。高麗は文部次官の潘阜を日本へ使わしたが、その後も趙良弼など降伏をすすめる使者をたびたび使わした。文永の役 ─ この出兵をもって日本はおそれをなしたものと思ったらしく、杜世忠を日本へよこした。北条時宗は竜の口においてこれを斬ってしまった。
マルコ=ポーロはフビライが日本を攻めた理由をこう書いている。「ジパング(日本)は東海にある大きな島で、住民は色が白く、文化的で、物質に恵まれている。黄金は無尽蔵にあって、宮廷の屋根や部屋の床は純金の板を敷きつめている。ばら色の真珠も多量に産する。フビライはこの島がきわめて富んでいるのを聞いて、占領する計画をたてた。
元の中国支配 戻る
元代にはモンゴル人・漢人・南人のほかに色目人という集団があった。これはウイグル人など西域から渡来した種種雑多な民族の総称であることから、諸色目人すなわち諸種類人と名づけ略して色目人という。彼らの多くは商人であり、経済官僚として登用された。
モンゴル人は民族としての自覚がはなはだ強く、モンゴル人第一主義という信条を持っていた。地方行政には中国人官僚が任ぜられたが、その上には必ずダルガチをおき、モンゴル人がこれを独占し色目人がこれを補佐し、漢人・南人は低い地位に抑えられていた。その他あらゆる点でモンゴル人ついで色目人を優遇し、漢人・南人と区別した。漢人・南人には武器の保持を厳禁したのもその一例。
東西の交通 戻る
モンゴル帝国の最盛期には、その領域は太平洋岸から黒海・ペルシア湾に及ぶ。しかも、帝国内の主要道路には駅伝の制度が整えられたので、ユーラシア大陸の東と西の交渉はかつてない盛況を呈した。
ポーランド・ドイツ連合軍がモンゴル軍に敗れたのは1241年。1243年、インノケンティウス4世が教皇に選出されると使節団をモンゴルに派遣。それはキリスト教世界へのモンゴルの攻撃をとめること、モンゴル人の間にキリスト教をひろめること、さらにヨーロッパに対するモンゴルの意図がどこにあるかを確かめるため。イタリアのプラノ=カルピニ生まれのフランシスコ修道士ジョバンニであった。カルピニの帰国後しばらくして、フランスのフランドル地方ルブルク生まれのフランシスコ修道会士ギョーム(ウィリアム)を団長とするルイ9世の使節団が出発。ボルガ下流でバツゥーに会い、モンケ=カンに謁見。二人とも南ロシアのキルギス草原を経てモンゴル高原に達するステップ=ルートを利用。
マルコ=ポーロ 戻る
二人のベネチア商人、ニコロ=ポーロ、マッフェオ=ポーロ兄弟は元の宮廷へ行きフビライに謁見。フビライはポーロ兄弟を自分の使節として教皇のもとへ派遣。ポーロ兄弟はイランを経て帰国し、教皇からの書簡をもって、二コロの子・マルコを連れて再び出発。マルコが17歳のとき。3年半を超える旅行の後、元の上都に到達し、フビライに謁する。彼らは大都の宮廷に仕え、17年間中国にとどまる。イル=ハン国の使者がきて、元から花嫁を迎えたい旨を伝えると、フビライは案内者としてポーロ一族を選び王女をおくった。こうして彼らは泉州を1292年出帆して2年の航海ののち、オルムズに上陸。イル=ハン国の都タブリーズに着き、使命を果たしたあと、1295年ベネチアに帰り着いた。そののちジェノヴァ軍に捕らえられたマルコは、獄中で自分の見聞談をピサの作家に筆記させたのが彼の旅行記のもとである。
フランシスコ修道士 ─ モンテ=コルビノ
1289年から東方へ旅立つ。1294年大都について、その地で宣教することを許される。東アジアにおける最初のカトリック伝道者。
後世まで大きな影響を与えたのは進歩したイスラム科学。それはとりわけ天文学の領域において目覚しい。フビライは1271年大都にイスラム天文台を設けて、イラン人ジャマールッディーンをその長としている。天文暦法において長い歴史をもつ中国人は、新来のイスラム天文学の知識を取り入れて精密な天文観測をおこない、その結果、郭守敬の授時暦が生まれた。1685年(貞享2)年から1872(明治5)年まで、わが国でおこなわれた貞享暦はあこの授時暦をもととしている。
イブン=バッツータ
マルコ=ポーロに遅れること50年、1304年モロッコで生まれ、21歳のとき世界旅行に出発し、前後30年間の間に西アジアの全域、インド、東南アジア、華南を旅行。イスラム世界最大の旅行家といわれる。
【モンゴル帝国の成立】
A モンゴル帝国の成立
1 テムジンの出現
@ モンゴル高原の諸部族統一
(1 )(部族会議)でハンに推される(1206年)
→ (2 )(太祖、位1206〜27) と称す
A 千戸制(全遊牧民を1000戸単位に編制) ― 軍事力の基盤
2 チンギス=ハンの遠征 → 内陸の東西貿易路へ進出
@ ナイマン部(カラ=キタイを奪う) を滅ぼす
A (3 )を攻撃、首都の燕京を占領
B (4 )王朝(トルコ系、西トルキスタン・イランを支配)を倒す
C (5 )を滅ぼす(1227年)
3 (6 )(太宗、1229〜41)
@ (8 )を征服(1234年) → 北中国支配
A 首都:(7 )を建設
B (9 )(チンギス・ハンの孫) の西征(1236〜42年)
ロシアを征服、ポーランド・ハンガリーに侵入
(10 )の戦い(1241年、ポーランド・リーグニッツ)
ドイツ・ポーランドの諸侯連合軍を撃破
→ (11 )国を建設(首都サライ)
4 モンケ=ハン(憲宗)
@ (13 )(フビライの弟)の西アジア遠征
バグダード占領、(14 )朝滅亡、(15 )年
→ (16 )国建設
A 高麗を服属(1259年)
【モンゴル帝国の分裂】
A 分裂の原因
1 分割相続 → 諸子分封
2 ハン位継承問題
(17 )(1260〜94) の即位 → (18 )の乱(1266〜1301年)
B 4ハン国の盛衰
1 (19 )=ハン国(1224〜1310年)
西北モンゴル、都:エミール、チャガタイ=ハン国に併合
2 (21 )=ハン国(1227〜14C東西に分裂)
中央アジア、都:アルマリク、ティムールに征服
3 (23 )=ハン国(1243〜1502)
南ロシア 、都:(24 )、モスクワ大公国の独立で崩壊
4 (26 )=ハン国(1258〜1411)
西アジア、都:タブリーズ
ガザン=ハンの時代(1295〜1304) が全盛
イスラム教に改宗し、イラン=イスラム文化繁栄
【元の中国支配】
A 元(1271〜1368年)の成立
1 世祖(27 )
@ カラコルムから(28 )(北京)に遷都
国名を、元と定める(1271年)
A (29 )を滅ぼす(1279年、N山の戦い)
B 領土の拡大
モンゴル高原・中国を中心に、チベット・高麗を属国
日本、ヴェトナム(30 朝)、ジャワ遠征 → 失敗
ミャンマー(パガン朝滅亡)
2 元の中国支配
@ 従来の州県制にもとづく統治
地方 ― 行中書省(地方統治機関)、ダルガチ(長官または監督官)
A (31 )主義 ― 民族的差別
支配階級
モンゴル人
主要官職を独占、色目人とで全人口の3%
(32 )人
中央アジア・西アジア系民族、ウイグル・タングート・アラブ人など
被支配階級
(33 )人
金の支配下の民、女真人・契丹人・高麗人・漢人など-人口の15%
(34 )人
南宋の支配下の民、人口の82%
B (35 )の一時廃止(→ のち復活)
C 社会
大土地所有制 = 佃戸制
モンゴル人は強大な武力で中国社会に寄生
B 元の衰退と滅亡(1368年)
1 原因
@ フビライの死後、相続争い → 軍事力衰退
A 財政難
ぜいたくな宮廷生活、チベット仏教(36 教)への出費
B (37 )の乱発・専売制度の強化
→ 物価騰貴、社会不安
2 滅亡
@ (38 )の乱(白蓮教徒の乱、1351〜66年)
→ 明の(39 )により滅亡(1368年)
A 北元の成立(1371年) ― モンゴル高原に後退
【交通・貿易の発達】
A 交通路の整備
1 (40 )制(ジャムチ、站赤)
牌符を発行、4ハン国(ユーラシア大陸)にわたる安全な交通路
2 海上貿易の発達(港市の繁栄) ― イスラム商人
杭州、(41 )(ザイトン、世界第一の貿易港) 、広州など
3 大運河の補修、新運河の開削、沿岸海運の発達 → 江南の食料を輸送
B 貨幣経済の発達
紙幣の発行(= ) → 元の主要通貨へ
【東西文化の交流とその文化】
A 大帝国の形成と交通路の発達
1 人物の往来
@ (43 )(草原の道利用)
教皇インノケンティウス4世の使節、カラコルム訪問
A (44 )(草原の道利用)
フランス王ルイ9世の使節、カラコルムでモンケ=ハンに会見(1254)
B (45 ) ― ヴェネツィア出身
世祖(46 )に仕える、「世界の記述」(「東方見聞録」)
C (47 ) ― モロッコ出身の旅行家
元末の中国へ、「三大陸周遊記」
D ( ) ― 中国初めてのカトリック教の布教
フランチェスコ派修道士、大都の大司教
B 文化の交流
1 イスラム科学の流入 ― アラビアの天文学・数学など
暦法の改革 ― (48 )の(49 )暦
→ 江戸時代の貞享暦に影響
2 中国絵画 → イランの(50 )画(ミニアチュール) に影響
C 元の文化
1 公用語=モンゴル語、公文書=ウイグル文字・(51 )文字
2 庶民文化 − 戯曲・小説が発達
@ (52 )(戯曲)
「53 」・「漢宮秋」・「琵琶記」
A 小説
「54 」・「西遊記」・「三国志演義」の原形が成立
3 南宗画の確立 趙孟L・黄公望など
【隣接諸国の変遷】
A 高麗(918〜1392年)
1 (55 )が建国、 都:開城
2 「高麗版大蔵経」の刊行
3 高麗青磁 → 世界的名品といわれる
4 (57 )による印刷(13世紀、世界最古)
5 モンゴルに服属
B ヴェトナム
1 李朝(大越国、1009〜1225年) 都:ハノイ
ヴェトナム初の長期王朝、宋の侵入を撃退
2 陳朝(1225〜1400年)
@ 元の世祖フビライの侵入を撃退
A 国字(58 )(チュノム)をつくる
C 雲南地方
(59 )国(937〜1254年)
タイ族、南詔にとってかわる
元の世祖(フビライ)に滅ぼされる
☆ 重要語句
モンゴル帝国 ワールシュタットの戦い チンギス=ハン バトゥ
フラグ カラコルム 大都 ハイドゥの乱 オゴタイ=ハン国
キプチャク=ハン国 イル=ハン国 元 モンゴル人第一主義 色目人 漢人
南人 フビライ 紅巾の乱 駅伝制 プラノ=カルピニ
ウイリアム=ルブルック 泉州 世界の記述 授時暦 細密画 元曲
パスパ文字 西廂記 琵琶記 三国志演義 水滸伝 郭守敬
モンテ=コルヴィノ マルコ=ポーロ イブン=バットゥータ 高麗
高麗青磁 李朝大越国 陳朝 字喃(チュノム)王建 開城
☆ 重要年代
元朝の成立 南宋の滅亡 高麗の建国
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