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イスラム帝国
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ムハンマドとイスラム教
「ヒジュラ」
大征服活動
ウマイヤ朝
マホメットは、生まれる前に父を、ついで六歳で母も失い、孤児となった。その後、面倒をみてくれた祖父も他界し、彼は、叔父アブー・ターリブのもとに身を寄せる。叔父の保護を受けたといっても、暮らしは貧しかった。幼くして親を亡くした彼は、当時のアラブの習慣で、遺産を相続することができなかったからだともいわれている。やがて、彼はメッカの商人の隊商に加わり、商人として働くようになる。商才もあり、よく働く、真面目な若者であったようだ。彼は「アミーン(誠実な者)」と呼ばれた。その後、商売上の付き合いから、夫を亡くした富裕な婦人ハディージャと知り合い、彼は結婚する。マホメットニ十五歳、ハディージャ四十歳の時である。結婚によって、マホメットは、裕福な商人となったが、生活そのものは、いたって平凡な暮らしぶりであった。ただ、いつのころからか、メッカ近郊のヒラー山の洞窟にこもり、瞑想するようになっていた。 そんなある日、彼は、瞑想中、人生を一変させる不思議な体験をする。天使を通じて神の言葉を聞いたというのだ。いわゆる“神の啓示”とされる体験である。時にマホメットは四十歳であった。 当初、彼は、悪霊に憑かれたのではないかと、恐れおののいた。それを“神の啓示”だと真っ先に信じ、彼にそう確信させたのは妻のハディージャであった。 この不思議な体験は何度も繰り返され、マホメットは、自分が啓示を人に伝える「神の使徒」であるという自覚を得る。彼の教えの最初の信徒は、妻のハディージャであった。そして、その教えは、少しずつ近親者の間に広まっていった。こうして、イスラム教が誕生するのである。ところで、イスラムの教えの核心は、なんであったか。要約していえば、「唯一の主アッラーと使徒マホメットを信じよ」ということであろう。そもそも、「イスラム」という言葉は、唯一神への「絶対的な帰依・服従」を意味し、自らの全存在を、唯一神の手にゆだねた人を「ムスリム」(イスラム教徒)というのである。 この唯一の創造神である「アッラー」は、ユダヤ教やキリスト教の神と同じ神とされる。そして、マホメットは、自分を、モーセやイエスのように、神の言葉(啓示)を預かる預言者の系譜に連なる者とし、その「最後の預言者」であると考えていた。また、イスラム教では、神の啓示を記した"啓典"の最も神聖なものとして、『コーラン』のほかに、『旧約聖書』のモーセの五書・詩篇、『新約聖書』の福音書も含めている。 マホメットには、最初、新しい宗教を創始したという意識は、全くなかったといってよいだろう。二、三年後、彼は、広く一般の人びとにも、唯一神への信仰を説き始めた。ところが、それは、アラビア半島の“宗教の常識”に対する、不遜な挑戦と受け取られたのである。当時、一般のアラブ人の宗教は“多神教”であり、また、部族の習慣が善悪是非を決める基準となっていた。さらに、高貴な血統をもつかどうかが、人間の価値を決定づけるものとされていた。しかし、マホメットは、唯一神アッラーへの服従を訴えるとともに、人間の高貴さは血統などではなく、信仰の深さによって決まり、いかなる人間もアッラーの下に平等であり、皆、同胞になると主張していったのである。 人間の価値の根拠を「血統」「生まれ」などの外在的な要因に求めるのではなく、「信仰」という内在的なものに見いだしていったところに、マホメットの卓見があったといえる。そこには、釈尊の「人は生まれによってバラモン(高貴な人の意)になるのではない。行いによってバラモンとなる」との言葉に通ずるものがある。それはいわば、アラビア半島における"宗教改革"の叫びであった。 やがて、マホメットの信徒は、若者を中心に次第に増えていった。彼の伝える神の言葉は、激烈であり、妥協を許さなかった。メッカには、『旧約聖書』に出てくるアブラハムとその息子のイシュマエルが建設したとされる、カーバという神殿があった。その神殿の最高神は、本来「アッラー」とされてはいたが、さまざまな神々の偶像が祭られていた。この神殿には、アラビア各地から人びとが巡礼に訪れ、それがメッカに大きな利益をもたらしていた。だが、マホメットは「アッラー」以外の神々を認めず、偶像崇拝を強く否定していった。メッカの指導者たちは、彼の主張が広まり、自分たちの立場や利権が脅かされることを恐れた。マホメットは先祖伝来の神を冒涜する者とされ、迫害が始まった。弟子たちのなかにも、迫害によって部族の保護を失う者が増えていった。彼は、その信徒たちを、キリスト教国のアビシニア(現在のエチオピア)に移住させたりもした。迫害はマホメットの一族ハーシム家にも及んだが、家長である叔父のアブー・ターリブは、マホメットを守り抜いてきた。
また、近郊の町でも、布教をすると、石を投げられ、追われるようになっていった。遂に、彼は新しい天地を求めて、メッカの北方三百数十キロメートルにある、ヤスリブの町へ移ることを決意する。六二二年、マホメットはまず、七十余人の信徒をヤスリブに向かわせた。彼は最後にメッカから脱出するが、既に命を狙われていたため、洞窟に身を潜めて追っ手を逃れたのである。 ヤスリブは、オアシスの町であった。そこでは、長年にわたってアラブの部族の間で紛争が続き、人びとは疲弊しきっていた。そして、その混乱を収束させる指導者を望んでいたのである。マホメットは指導者として迎えられ、ここに最初のイスラム共同体(ウンマーが誕生する。これが世にいう「ヒジュラ(移住)」であり、イスラム暦はこの年をもって、「元年」とするのである。また、ヤスリブは、預言者の町という意義から、「メディナ」と呼ばれるようになった。マホメットは、新天地メディナでは、宗教上の指導者であるだけでなく、政治的指導者でもあり、また、調停者、裁判官、立法者でもあった。当然、彼のもとには、共同体の存続にかかわる大事から、日常の預事に至るまで、さまざまな問題が持ち込まれたが、彼は、必要に応じて、それらの問題に対処する神の啓示を、次々と伝えていった。こうして、イスラム教徒の現世の生活万般を律する道徳的な規範が定められ、以後、この教えに基づいて、人びとの生活が営まれていく。それが後に「イスラム法(シャリーア)」となるのである。 イスラム教では、「聖」と「俗」いわば個人の「信仰の次元」と、日常の生活から国家の運営に至る「世俗の次元」が一体化している。つまり、宗教の教えが、そのまま生活すべての規則となり、共同体、国家の法律となって、独自の文明を形成していったところに、イスラム教の特徴がある。また、聖俗両面にわたる指導者層は存在しても、世俗を離れた聖職者制度は設けないことも、イスラムの特色となっている。 マホメットは、この新たな共同体であるイスラム国家の建設を進める一方、それを阻む敵とは、徹底的に戦うことを訴えた。いわゆる「聖戦(ジハード)」である。彼は、カーバの神殿があるメッカをはじめ、諸部族に戦いを挑んだ。メディナ移住(六二二年)から、彼の死までの十年間で、実に大小約七十回もの戦争が繰り広げられたという。だが、そこには、過酷な砂漠という現実があったことを知らねばなるまい。食料の確保さえ難しく、他部族が、いつ攻めて来るかもしれない砂漠にあって、自分たちの生活と安全を守るためには、戦いは、やむをえぬ選択であったのであろう。六三〇年、メッカの勢力を圧倒するに至ったマホメットは、大軍を率いて、遂に、故郷メッカに凱旋する。彼は、直ちに、カーバの神殿に祭られた数百の偶像をことごとく破壊した。やがて、マホメットを拒否し続けてきたメッカの人びとも、次々にイスラム教に帰依していったのである。 ただ、マホメットは、メッカを征服する際にも、住民感情を気遣い、寛大な政策をとって、住民を協力者にしている。彼の最大の狙いは、敵をも味方にすることにあったにちがいない。 彼は、その後、アラブの他の部族とも同盟関係を結び、彼の影響力はアラビア半島全域に及んでいった。 六三二年の三月、マホメットは、自らメッカ巡礼の指揮をとった。しかし、巡礼を終えてメディナに戻った時、彼の体は、病に侵され始めていたようだ。それから間もない六月八日、六十余年の波欄の生涯を閉じたのである。マホメットが神の啓示を受けてから、イスラム教がアラビア半島に広がるまで、わずか二十余年にすぎない。それは、彼の力の大きさを物語っている。それだけに、創始者の死は、人びとに大きな衝撃をもたらした。動揺のあまりか、マホメットは死んだのではなく、再び帰ってくるはずだと語る者もいた。 その時に立ち上がったのが、マホメットの最初の壮年信徒であり、よき片腕であったアブー・バクルである。彼は「使徒マホメットは死んだが、神を信ずる者にとっては、神は死ぬことはない」と宣言する。死という現実が受け入れられず・嘆き悲しむ人びとの心の弱さを打ち破り、信仰の眼を開かせたのだ。さらに、彼は、マホメットの継承者(ハリーファ)、すなわち「カリフ」に選ばれる。そして、部族の反乱が相次ぐ、最大の難局を切り開き、全体をまとめていったのである。
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