第7章 ヨーロッパ世界の形成と発展
1 ヨーロッパ世界の成立
ゲルマン民族の大移動
フランクの発展
カール=マルテル
グレゴリウス
ピピン シャルルマーニュのヨーロッパ
帝国の分裂
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紀元前1世紀の中ごろ、カエサルはライン川流域まで領土を広げていった。その時、スカンディナビア半島から南に移住してきた最初のいくつかのゲルマン部族と衝突している。カエサルの残した記録によれば、これらの部族は原始的な半遊牧民で、牧畜によって生活し、時に狩猟や漁労をおこなったという。
1世紀末のローマの歴史家タキトゥスは、もっと進んだ状態のゲルマン人について記録を残している。彼らは、一人の王と、数人の首長に率いられている。部族の戦士によって構成される民会があって、そこでは、楯を槍でたたいて賛成の意志が示されたという。
2,3世紀になると、ローマ帝国とゲルマン人の勢力はライン川とドナウ川に沿って、ほぼ伯仲する状態となった。ローマは弱体化していて国境を守ることで精一杯となっている。いっぽう、ゲルマン人はローマ帝国にむかって南下する数がますます増えていた。ゲルマン人は奴隷や傭兵としてぞくぞくとローマ帝国内に入り込んできた。仲間うちの戦争によって捕虜とした人々を、交易商人が南に連れて帰り、剣闘士用、召使い用、作男用などの奴隷として売った。また、3世紀以降、ゲルマンの兵士は大挙してローマ軍団に参加する。4世紀末になるとローマ軍は数の上からいっても、性格からいっても、ゲルマン化してしまう。
4世紀になると、ゲルマン人の5大グループというべき、フランク族・サクソン族・ヴァンダル族・東ゴート族・西ゴート族が姿をあらわしていた。
西ゴート族は、376年フン族の侵入に追われてドナウ川近くに姿をあらわし、皇帝に保護を求めた。皇帝は彼らを同盟者としてローマ帝国内に移住を認めたが、西ゴート族は、十分な土地を割り当てられず、武器を没収され、多くのものが奴隷にされた。そのうえ、ローマの役人たちは、彼らに法外な値段で質の悪い穀物を売りつけた。こうした待遇に、とうとう堪忍袋の緒をきった西ゴート族は、378年アドリアノープルのローマ軍を攻撃し、町を廃墟同然にした。つづいて彼らはバルカン半島を蹂躙した。そして、攻撃の向きを変え、イタリア本土を繰り返し襲った。
当時、ローマの将軍スティリコが西ローマの防衛を一手に引き受けていた。彼はヴァンダル人を父にローマ人を母に持ち、テオドシウスに仕えて大功を立てていた。スティリコはローマ帝国の中心を守るため、ライン川の国境地帯に駐屯させていた軍隊をよびもどした。こうして、ガリア北部は無防備状態となった。そして、スティリコはホノリウス帝とその側近から妬まれ、陰謀にはめられる。教会堂に避難したスティリコを、軽い処罰だけという勅令で巧みに外に誘い出し、聖域を一歩出た途端に、即時死刑と書かれた第二の勅令が手渡され、打ち首。スティリコ処刑の数カ月後、バルカン半島の西ゴート族は、408年豪胆王アラリックに率いられてイタリアに軍を進めた。これ以前にも2回アラリックは北イタリアに侵入したが、このときはヴァンダル族出身の名将スティリコの指揮する西ローマ軍にはばまれてしまった。しかし、猜疑心の強い皇帝ホノリウスが彼を殺してしまい、西ゴート族の侵入をやすやすと許してしまったのである。アラリックに率いられた西ゴート族がイタリア北部に再侵入。そして、旧スティリコ麾下のゲルマン傭兵をあわせて、第ローマ包囲をおこなった(410年アラリックのローマ大攻略)。そして、ローマから南下して海峡をわたってシチリア島のメッシナに上陸しようとしたが、暴風雨にあって失敗し再び北上しようとしが病死した。アラリックの義弟アタウルフを王としてイタリアをさり、王ワリアのもとで南フランスのツールーズを中心に国をたてた。
西ゴート族のキリスト教はアリウス派で、カトリックである大部分のガリア系ローマ人にとっては、憎むべき異端の教えであった。この宗教上の違いが原因となってガリアに騒乱がおきるのである。そして結局は西ゴート族が最後にスペインに落ち着くことになった。しかし、スペインはガリア以上に戦闘的なカトリックから激しい戦いを挑まれ、100年以上の間たがいに迫害を繰り返すこととなった。
当時、ローマ帝国はいくつかの部族を選んで同盟者とし、帝国内に入ることを認めていた。協定を結んだそれぞれの部族は、取り決めにしたがって土地を与えられ軍隊維持にあてる一定の年金を支給された。そのかわり、各部族は皇帝に対して忠誠を誓い、辺境を防備する義務をもった。
406年、大晦日の夜に、スティリコの出身部族・ヴァンダル族に率いられたゲルマン諸部族は、凍りついたライン川を渡った。それに続いて、ローマの国境はいたるところで打ち破られ、ガリア地方は暴力と破壊でおおわれることとなった。
420年代にはスペインの大半の地域が、ライン川をこえて3年目の409年に到来した勇猛なヴァンダル族の根拠となっていた。このヴァンダル族は、地元のローマ人と進出してくる西ゴート族の圧力に押され、ローマの属州で肥沃な北アフリカにまで移動することになった。そして428年、ガイセリックという異様な男が王に選ばれた。429年ジブラルタル海峡をわたり、海岸沿いにアフリカを東に進んだ。彼は機動力にすぐれた艦隊をつくり、海賊となって地中海を荒らした。ここでも、アリウス派のヴァンダル族とカトリックの原住民との対立がおこり、ヴァンダル族はカトリックを激しい勢いで迫害した。
このころ東方では、フン族にアッティラ大王があらわれて、その全盛期をむかえる。436年アッティラの軍はライン中流域を支配していたブルグンド王国を滅亡させ、451年には北ガリアに侵入したが、カタラウヌムの戦いでローマとゲルマン諸部族の連合軍と戦って敗れた。翌年にはイタリアに侵入したが、これも不成功におわり、453年ハンガリー平原の本拠地に帰還して急死した。フンの大帝国は、その後アッティラの諸子の争いで、分裂・崩壊した。
454年、これまでフン族に服属していたゲルマン部族は独立割拠した。東ゴートはテオドリック王に率いられてイタリアに侵入し、オドアケルを倒して東ゴート王国を成立させた。東ゴートは535年から、東ローマ皇帝ユスティニアヌスの征討をうけ、20年にわたる抗戦のすえ滅亡する。
そのころ東方のドナウ川中流域には、あらたにロンバルド族が急速に台頭し、彼らは568年イタリアに侵入し、ポー川流域を占領してロンバルド王国を建設する。これが最後のゲルマン人の移動であった。
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一方、フランク族は地理的にたいへん恵まれた立場にあった。彼らは4世紀なかば以来、ローマ帝国の同盟者としてベルギーに住むことを認められた。そこはガリアに近かったから、ローマ文明を知ることができた。さらに5世紀はじめ、彼らが侵入を開始したときには、根拠地としてベルギーが大いに役立つことになった。他の部族は、もと住んでいた場所を遠く離れた土地でゼロからの出発をしなければならなかったが、フランク族は小規模な進出を次々におこない、ガリア地方に勢力をのばしていった。
そして、クロービスがフランク族を統一して、フランク王国を建国する。クロービスは493年ブルグント族の王女でカトリックのクロティルドを妻に迎えた。このカトリックの信仰をもつ妻がすすめたこともあり、496年、クロービスは3000人以上の兵を引き連れて洗礼をうけ、カトリックに改宗した。フランク族は全員が次々とカトリックに改宗した。こうして、ガリアのカトリックの司教たちと協力する関係ができあがり、クロービスは信仰の名において西ゴートに攻め込み、これをガリアからスペインにおった。フランクの教会は一部の税を免除され、十分の一税を取り立てる権利を認められた。さらに、貴族や王からは広大な土地が寄進された。
511年クロービスが没すると、彼の王国は4人の息子により分割された。この分割相続の慣習のため、以後数百年間、王がかわるたびに必ず兄弟同士の骨肉の争いが起きるのである。クロービスの息子の一人は、彼にそむいた家族を焼き殺している。
しかしその間、フランク王国の領土は大変な勢いで広がり、524年までに、ガリア南部のブルグンド族の領土とゲルマニアの領土を併合した。
(アングル族の土地という意味のアングルランド、ここからイングランドという名がおこる。)
カール=マルテル 戻る
711年西ゴート王国を滅ぼしたイスラム軍はピレネー山脈をこえて、南フランスに侵攻。その後719年再びピレネー山脈をこえて南フランスの諸都市を占領。730年にはアビニョンを占領。732年アキテーヌ地方を征圧し、ボルドーをぬき、ガロンヌ川をわたってポアティエへ。このあとイスラム軍はポアティエ北方100kmにあるトゥールを目指した。カール=マルテルはただちにフランク軍を率いて南下した。トゥール=ポワティエ間の戦いは、フランク軍の勝利でおわった。イスラム軍のヨーロッパ侵攻をくいとめた出来事として大きく評価されてきた。カールは、それによってキリスト教の英雄、武将ともてはやされる。
「槌」を意味するマルテルという異名。王家の領土の管理を主な任務とする宮宰という地位。カロンリング家が独占的に世襲する。
この戦いがカール=マルテルの地位を高めてカロリング朝の成立を準備した。
グレゴリウス 戻る
裕福な元老院議員の家庭に生まれ、ローマの長官を務めていた。33歳のときに突然、財産を教会と貧しい人に寄付して、修道院に入った。
グレゴリウスが最も成果をあげたのは、イングランドの未開の異教徒でるアングロ=サクソン族に教えを広めたことであった。596年、ベネディクト派の修道士たちをイングランドに派遣し、7世紀末には、イングランドの教会が教養あるアングロ=サクソン族の修道士たちを、ヨーロッパに逆に派遣するようにまでなった。特にイングランドの修道士・聖ボニファティウスは、北海沿岸の未開の地の布教に成功した。
ピピン 戻る
フランク王国と教皇とのつながりは、カロリング朝にはいっていっそう密接となり、ピピンは754年イタリアに遠征してロンバルド族を討ち、ラヴェンナ地方を教皇に献じた(ピピンの寄進)。
ピピンは、腐敗した教会を改革するよう、741年にボニファティウスを招いている。
ピピンは、ローマ教皇ザカリアスに質問を送る。「ある者が権力を握っているのに、別のものが王の称号を握っているのは正しいことか」と。
ザカリアスは、こう答えた。「まったく力のない者よりは、力を持つ者のほうが王と呼ばれるにはふさわしい」と。
シャルルマーニュのヨーロッパ 戻る
現在のハンガリーに攻め入ったシャルルマーニュは、アジアに進出していた遊牧民アヴァール族を大いに破って、アジア系の遊牧民の侵入を防ぐために二つの辺境領を設けた。その一つがオーストリアの基礎となる。
ピレネー山脈の南のスペインでは、イスラム教徒からバルセロナ領を奪い取り、スペイン遠征への帰途、シャルルマーニュ軍の後衛部隊がロンスヴォーの隘路で、独立勢力のバスク族に襲われ全滅した。中世の大叙事詩「ローランの歌」はこの出来事から生まれる。
771年ロンバルド族は、条約を無視して教皇領を占拠しローマを脅かした。教皇は応援を求めた。これに応じて、774年までにロンバルド族を撃破し、南はほぼナポリまでのイタリアを支配した。
西方では、ライン川の東、かつての西ドイツの大半を併合し、ゲルマニア北東部にいた異教徒のサクソン族を平定した。
800年のクリスマスの日、聖ペテロ教会で開かれたミサに出席し、教皇レオ3世が彼の頭上に帝冠を置いた。
アングロ=サクソン人の、ヨークのアルクィンは、ヨークの大聖堂付属学校で校長をしていたが、シャルルマーニュに招かれ、シャルルマーニュの都アーヘンの宮廷学校をたて直した。そして、この学校がカロリング朝ルネサンスの母体となる。
778年8月15日、フランク王カール1世の家臣でブルターニュ辺境伯のローランが、ピレネー山中のロンスヴォー峠でバスク人の急襲に遭遇し非業の最期を遂げた。イスパニア(スペイン)のイスラム勢力軍に対して数々の戦功を収めたローランは、カール1世のスペイン遠征軍の後衛部隊を率い、故郷フランスへ戻る途中だった。ロンスヴォー峠で、待ち伏せしたバスク人の攻撃を受け、多くの輩下ともども奮戦したが、むなしく戦死したのである。
この地域一帯を支配しているバスク人は古来、ローマの征服も受けず、固有の言語と文化の伝統をもって独立を誇る自尊心の強い民族である。バスク人が住むピレネー山脈に近いこの国境付近は危険な地帯とされていたが、フランスに帰還するには最短のルートでもあった。武将ローランの数々の武勲と彼の気高い人格とその悲劇的な死は、のちに中世フランス文学で最初の武勲詩「ローランの歌」として成立する。
帝国の分裂 戻る
シャルルマーニュの死後、帝国は急速に解体。814年、シャルルマーニュの死後、帝国はルイ(ルードヴィヒ)によって継承される。
ベルダン条約(843年)、ルイの息子たち(ルードヴィヒ・シャルル・ロタール)の兄弟戦争が一段落すると、この条約によって統一フランク王国は終わる。
メルセン条約(870年)、855年にロタールが死ぬと、生き残ったルードヴィヒとシャルルの野心から再び分割の動きがはじまる。ロタールの王国は3人の息子によって分割相続。長男ルイ2世がイタリア、次男ロタール2世が中部フランクのロレーヌ(ロートリンゲン)を、三男シャルルがプロバンスを領有。プロバンス王シャルルとロレーヌ王シャルル2世が、跡継ぎを持たずに死亡すると、シャルルとルードヴィヒは870年のメルセン条約で、ルイ2世のイタリアを残して、中部フランクを分割。このとき、今日のドイツ・イタリア・フランスの領土的基礎が固まる。
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