2 西ヨーロッパ封建社会の発展
第二次民族移動 ヴァイキングの活動
ノルマンディー公国
封建社会の成立
荘園制 三圃農法
教会の権威 クリユニー修道院
カノッサの屈辱
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侵入は三方からおこった。西地中海では、テュニスを根拠地にしたイスラム勢力が、シチリア、サルディニア、コルシカを襲った。イタリア本土にも上陸し、南フランスの海岸一帯を荒らしまわった。
また、9世紀にハンガリー平原に移動してきたマジャール人は、現在のハンガリー人の祖先にあたるが、フランス、イタリアにまで侵入したが、東フランクのオットー1世が止めをさした。(のち、指導者ステファン1世のときキリスト教に改宗し、ハンガリー王をなのった)。
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800年ごろ、ヴァイキングの時代が始まった。ヴァイキングとは、中世スカンディナビア語で海を利用して冒険する者を意味する。人口の過剰が、ヴァイキングの活動の大きな原因といわれる。2世紀に多数のゲルマン部族が南方に移動したあと、スカンディナビアの人口は希薄になったが、やがて人口は徐々に増え、住民は外に出るようになった。スカンディナビアの族長は一夫多妻制を実行し、長子相続を守っていた。相続権のない次男以下の男子たちが多くいて、彼らは軍事エリート集団をつくっていた。ヴァイキングがヨーロッパを襲ったときの指導者は、大部分が彼らたちであった。
また、8世紀にはヴァイキングの造船術が完成の域に達した。甲板がなく、30のオールを取り付け、平均すると船長が21m、船橋が5m、大きな1枚の帆を張って、10ノットの速さを出すことができた。喫水線が浅かったので、ヨーロッパの河川を通って内陸深く入り込めたし、そんなに重くなかったので、陸上を引きずって進むこともできた。
ヴァイキング ─ ノルマン人の3部族は、スウェーデン人、ノルウェー人、デーン人である。スウェーデン人はロシア北部に進出し、ヴォルガ・ドニエプル川にそって南下し、ノヴゴロドやキエフのどに交易所を設け、スラヴ人を相手に取引をおこなった。
ノルウェー人は進路を西にとり、アイスランドの島々を植民地とし、アイルランドの大半とスコットランドとイングランドの北西部の広大な地域を占拠した。10世紀にはグリーンランドに植民し、1000年ごろには北アメリカの沿岸に到達している。しかし、大規模な後続がなかったため、まもなく痕跡をとどめないで絶滅したとされる。コロンブスに先立ってアメリカに到達していたのである。
最も開化して人口も多かったのはデーン人である。イングランドやヨーロッパ大陸に対するデーン人の攻撃は835年ごろから始まった。最初は手早く略奪をしては引き上げていたが、やがて目星をつけた町の近くに上陸しては、その守備隊と戦闘をおこなうようになっていった。教会堂や修道院を襲いその財宝を略奪し町を焼き払うと、近くの軍隊が救援に来る前に、舟にのって逃げ去った。そして、このような電撃作戦はしだいに大胆となり、町を占領して略奪を働いたあとは、一部を上陸地点の守備にあたらせておき、残りのものは盗んだ馬に乗って周囲一帯を荒らしまわった。
840年代からは、彼らは冬を越すためにスカンディナヴィアに引き上げることをやめ、イングランドやフランスの豊かな地域を襲うのに便利な河川の島々に、半永久的な居留地を建設するようになった。855年ごろには、ロワール川・セーヌ川・テムズ川近くの居留地から略奪に出撃していた。居留地を持ったヴァイキングは、大陸の奥地や川の上流にあってもほとんどすべての町や村を襲撃することが出来るようになっていた。
865年ごろ、デーン人のイングランドへの襲撃は全面的な侵略となり、無数の部隊にわかれて東海岸に上陸し、878年にはデーン=ローとよばれる領土ができあがった。イングランドのアルフレッド(アングロ=サクソン族の王、ウェセックスのアルフレッド。在871〜899)は、このデーン人に対抗するため、イングランド南部の勢力を結集して戦った。
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フランスでもデーン人の部隊がセーヌ川とロワール川の間を荒らしまわっていた。何回も荒らされた町を襲い修道院を略奪した。フランスを統治していたカロリング朝の王シャルルは、911年運を天にまかせて大博打をうった。ヴァイキングの首領のなかからノルマン人の王ロロという人物をえらびだし、彼にセーヌ河口の広大な土地を与えた。
911年頃、セーヌ川の支流エプト川沿いのサン・クレールで、ルーアン周辺地域に定住したノルマン人(ヴァイキング)の首長ロロ(51)と会談を行い、融和策によってロロを味方につけようとしたのである。占領地域の領有を認められたロロは、そのかわりに、キリスト教に改宗し、シャルルの家臣として他のヴァイキングから防衛することを約束した。ここにヴァイキングは初めて、西ヨーロッパの支配階級の仲間入りを認められた。その地は彼らノルマン人の名をとって、ノルマンディーと呼ばれていた。シャルルのもくろみどおり、ノルマン人たちは、他のヴァイキングに対する防壁となった。しかし、ノルマン人たちは周辺地域の占領を続け、10世紀末までに、ノルマンディー地方全体を支配するようになる。その首長がノルマンディー公と自称するようになり、ノルマンディーはのちのフランス王国内でもっとも強力な諸侯に発展していく。
ノルマンディーを起点として、ノルマンの騎士は北に南に活躍する。ノルマン人王ロロから6代目のノルマンディー公ウィリアムは、デーン王朝の後再びアングロ=サクソン王家が復活したイングランドを征服する。
ローマ帝国の支配下にあったころ、ブリトン人とよばれたケルト人の一種族が居住。民族移動のとき、アングロ=サクソン族が侵攻し、いくつかの部族王国をつくった(5〜9世紀はじめまでを七王国時代という)。このころデーン人の侵入が激しくなる。1016年、クヌート王の支配をうける。以後、デーン王家三代の支配をうける。1042年、再びアングロ=サクソン系王家が復活していた。
11世紀南イタリアの政情は混乱していた。イスラム、ビザンツ帝国、神聖ローマ帝国やその他の勢力が入り乱れ、分裂し抗争を繰り返していた。この地へのノルマン人の登場は、1016年聖地巡礼途中にイスラムとの戦いにサレルノの傭兵として起用されたことが始まりである。こうして、南イタリアはノルマンディーの次男や三男以下の騎士たちにとって絶好の活躍の場となった。なかでも、オートヴィル家のタングレッドの子供たちの活躍は目覚しく、11世紀後半にはイタリア南部を制圧して、シチリアからイスラム勢力を駆逐した。そして、1130年シチリアから南イタリアにまたがる両シチリア王国が成立した。
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激化の一途をたどるヴァイキングの攻撃は、新しい政治制度 ─ 封建制度を成立させた。二人の自由人の間に見られる主従関係は、ローマにもゲルマン部族にも存続した伝統であった。国家がもはや国民の安全を保障できない状態になったとき、身を守るために人々は、有力者に保護を求め、それをうける代償として従者となる。
カール=マルテルは、スペインからのイスラム教徒軍のたびたびの侵入に、フランク教会から所領を取り上げ、没収した土地を家臣として仕える領主たちに与えて、軍隊を編成した。土地を与えられたときにつけられた条件は、領主が王に忠誠を誓うことであった。これが後に封土と呼ばれるもので、こうして主従制度と封土は不離不測のものとなり、封建制度が形を整えていった。カール=マルテルは、732年11月トゥール=ポワティエ間の戦いでイスラム軍を撃破する。この戦いを機に、中世の騎士がデビューする。イスラム軍を破ったのは騎兵隊の力で、彼らはナイトという名誉ある身分となる。当時、イスラム軍はすべて騎兵であった。そして、ヨーロッパでは見知らぬ新しい装備である鐙を使い、馬上で自由に動いて戦っていた。カール=マルテルは、臣下たちに馬・馬具・鐙などを整えておくように命令した。イスラム軍との戦いは、それまでの歩兵が中心であったヨーロッパの戦いを、騎兵を中心とした戦術に転換させたのである。
従士団
一人の戦時の指導者と彼に個人的に服従する人々からなる。戦士たちは選ばれた首長に従い、戦利品というかたちで生活の糧を得て、そのかわり首長に忠誠を尽くした。軍事的義務を持つ家の子・郎党の類である。
荘園制 戻る
ローマ帝国が小農民からその負担能力を超えた地租を取り上げるようになると、農民の多くは自分のわずかな所有地を富裕な大地主の手にわたすことによって、地租の負担から逃れようとするようになった。大地主のほうは、その土地を「プレカリウム」(一時的貸与)という形そのまま農民に耕作させておき、その農民が死ぬと土地をとりあげた。もとの所有者である農民は、しだいに自由と土地に対する所有権を失っていき、なかば奴隷的な小作人に転落していった。
小領主の典型的な荘園
戦乱の中で小農民や都市からの避難民など、領主の保護を求める自由人の数はますます増え、彼らは着々と規模を広げつつあった領主の所領で、自由のない小作人や家臣となっていった。領主の役目は、領地の防衛に気を配り、皆に適切な保護を与えることであった。荘園には二つの拠点があった。教会堂と防備を固めた領主の荘園庁である。畑はこの二つを中心に広がっている。領主の第一の役割は、領地の防衛で、侵入者の一隊が森をぬけてやってくるのがわかると、配下の騎士や農民を集めて戦った。領主はその地域の警察官であり、検察官であり、裁判官であった。領主の保護をうける見返りとして、多くの農民は領主に束縛される農奴となった。農奴は領主の土地で週何日か決められた日数を働き、自分の生産物の一部を領主に供出した。働く日数は、農奴の領主に対する隷属の程度によって一週間に3日とか1年に数週間とかさまざまであった。それ以外の時間は、自分の土地で働いた。
農地の主要な作物は、粉にしてパンをつくるための小麦や穀類であった。パンは欠かすことの出来ない食料であったから、領主は製粉所とパン焼きガマを経営し、穀物を粉にしパンを焼く農民から使用料をとり、他のところで製粉やパン焼きをするものを厳重に罰した。そのほか、結婚や死亡などあらゆることから金を搾り取った。ほかの荘園の娘と結婚するために金を払わなければならいこともあった。また、排水溝を掘ったり、さまざまな仕事に駆り出された。
三圃農法 戻る
12・13世紀〜19世紀まで存続したヨーロッパ特有の農法。一続きの耕地を冬畑(秋畑)、夏畑(春畑)、休耕地に三分し、冬畑には秋にライ麦か冬小麦、あるいは大麦かカラス麦がまかれる。また春畑には、翌年の春に、豌豆・レンズ豆・大豆などの豆類がまかれる。残りの一つは休耕地となる。翌年には、第一の畑が春まき地となり、二番目の畑が休耕地となり、三番目の休耕地が秋まき地となる。各畑とも順に3年に1年休みながら、耕地の1/3はつねに耕作されるというものである。豌豆と大豆は貧富を問わず、中世の食事の主な材料であった。
水車(製粉や製材に利用)
蹄鉄
馬の首あて
車輪のついた重い鋤
蹄鉄や馬の首あてにより、馬の牽引力が十分に利用できる。また、重い鋤は深い畝をつくることができたから、ヨーロッパ北部の層の厚い湿った土壌に効果を発揮した。
中世の詩歌
「神様は人間を3種につくられた。百姓と騎士と坊主がそれ」
貨幣の支払いに基づく経済は成立していなかったので、物々交換に頼っていた。
刑罰は粗野で残酷であった。鞭で打ったり、焼印を押したり、目をえぐりとったり、手を切り落としたりした。
裁判も残酷であった。
水中に投げ込まれて浮き上がった被告は有罪 ─ 手遅れになる前に救われることを祈りながら、息をありったけ吐き出して身体を沈めた。
熱した鉄棒を素手でつかむ ─ 仕事で鍛えられ手がたこでかたくなっていて、熱した鉄棒を素手でつかんでも3日後には何のただれたあとも残さず、潔白の証を立てることができるものもいた。
決闘裁判
教会の権威 戻る
ローマ帝国属州の首都の司教は大司教となり、帝国の主要都市 ─ ローマ・コンスタンティノープル・アンティオキア・エルサレム・アレクサンドリアの司教は総大司教とよばれた。なかでも、ローマの総大司教は一頭地を抜く存在であった。聖ペテロからの直接の継承をすることが出来たからである。福音書によれば、イエスはペテロに次のように言った。「汝はペテロである。そして私はこの岩(ペテロ)の上に私の教会を建てるであろう」。
大グレゴリウス ─ ベネディクト派修道士からはじめて教皇となる(590年)
ローマ帝国で、教会の所領と聖職者は租税を免除された。また、金銭や財産の遺贈を教会が受けることを許可されていた。これは、ローマ帝国が滅んだあともつづいていた。そして、国王や貴族は、自分たちのこの世の富を教会に贈ることが美徳と思うようになっていた。教会と修道院はしだいに富裕となり、その所領は莫大なものとなった。こうして、教会の高い役職についたり、その土地からあげる収入を管理したりすることは大きな利益をうんだ。
俗人による叙任権の行使
金銭による教会の役職の売買、つまりシモニー(聖霊を授ける力を聖ペテロから買おうとした魔術師シモン=マグヌスにちなんだもの)。9世紀になると聖職者が独身であることが物笑いの種になるほどで、教会がいかに低俗な状態におちいっていたか。貧者に奉仕したり、慈善を施すことは退屈な仕事とされるようになった。教皇も堕落の道をたどった。ヨハネス12世は破廉恥な行動で有名で、オットー1世はヨハネスを追放している。
クリユニー修道院 戻る
しかし、節義のある人は、教会が滅亡に向かってまっしぐらに進んでいるのを憂えた。その先頭にたったのは、フランス中南部のクリュニーにあったクリュニー派という新しい修道院であった。俗人による叙任、聖職売買、聖職者の結婚・同棲などの数々の悪弊を攻撃しだした。クリュニー修道院ではたとえ農民であっても有能であれば昇進できる仕組みになっていた。そして、道徳的にも知的にも選りすぐりの人々が集まった。このクリユニー修道院は、ベネディクトゥス戒律の原初の精神に回帰して、これを厳守しようとする修道院運動にもとづくものであった。その結果、クリユニー修道院は教会刷新運動の中心となり、一方で教皇の直接保護を受け、歴代の優れた院長の指導下に影響力を拡大していく。世俗権と司教権からの免除を拡大し、多くの修道院を傘下に収め、院長を中心とする集権体制を確立、勢威を誇るようになる。
カノッサの屈辱 戻る
皇帝とローマ教皇の争いは、叙任権闘争といわれる。1075年、ハインリヒはミラノの新しい大司教を叙任し、司教職叙任への彼の権利を主張しようとした。それに対し教皇グレゴリウスは、この行為に抗議し、ハインリヒに服従を要求した。その後、皇帝の臨席のもとに開かれた、ウォルムスの公会議では、教皇廃位を宣告。決定に激怒したグレゴリウスは、報復措置として、ハインリヒ4世を破門した。それを受けてドイツ諸侯は満1年以内に破門が解決されない場合には、皇帝を廃位することを決めていた。ドイツの司教たちもハインリヒの破門決定以来、彼から離れる動きをみせはじめた。
1077年1月27日、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世(27)はひそかにアルプスを越え、教皇グレゴリウス7世(56?)のいるトスカナ女伯マティルデ(31)の居城カノッサ城門前で3日前から、修道衣をまとい、裸足で雪中に立ち教皇の許しを請うた。トスカナ女伯マティルデのとりなしと、クリユニー修道院長ユーグの忠告で、グレゴリウスはハインリヒの破門を解いた。破門が解除されたものの、ハインリヒ反対派の諸侯は、シュヴァーベン公ルドルフを対立国王に選ぶが、1080年ハインリヒがルドルフを倒す。1080年の2度目の破門をおこなうが、それは無効となる。グレゴリウスに不満なドイツの司教たちが、ハインリヒの側についたからである。84年、ハインリヒはローマに攻め入り、ラヴェンナのギルベルトを教皇に指名し、グレゴリウスを廃位した。その翌年、サレルノに逃れたグレゴリウスはそこで憤死する。
【フランク王国の分裂】
A 分割相続の習慣 ― 有能な皇帝でないと統治が困難
1 (1 )条約(843年)
カール大帝 ― ルートヴィヒ1世
ロタール1世(中部フランク)
ルートヴィヒ2世(東フランク)
シャルル2世(西フランク)
2 (2 )条約(870年)
中部フランクを分割 → ドイツ・フランス・イタリアの原形
B 分裂後の3国
1 イタリア
カロリング朝断絶(875年) → 諸侯や都市の分立、混乱
2 東フランク(ドイツ。911年、カロリング朝断絶)
@ ハインリヒ1世がザクセン(サクソニア)朝を創始(919年)
A オットー1世(ハインリヒ1世の子)
(3 )人を撃退(955年、レヒフェルトの戦い)
北イタリアに出兵
神聖ローマ帝国の起源(962年)
教皇ヨハネス12世が帝冠をさずける
B 以後、歴代の皇帝はイタリア政策に力を入れる
→ ドイツ国内の不統一をまねく
3 西フランク(フランス)
カぺー朝の成立( 年)
パリ伯(5 ) ― 王権は弱く、地方分権の傾向
【ヴァイキングの活動】
A ヴァイキング(ノルマン人) ― ゲルマン民族の一派(北ゲルマン)
1 原住地 ― スカンディナヴィア・ユトランド半島
2 航海にたくみで、商業活動。海賊・略奪行為で恐れられる
B ヴァイキング(ノルマン人)の活動(8世紀末〜12世紀)
1 (8 )公国(911年)
北フランス、(7 )に率いられた一派が建国
2 (10 )王国(1130年)
南イタリア・シチリア島、ルッジェーロ2世が建国
※ イングランドの情勢
アングロ=サクソン族の七王国(ヘプターキー)
ウェセックス王(12 )が統一(9世紀前半)
デーン人の侵入 ― (13 )大王が撃退(9世紀末)
デーン人の王(14 )がイングランドを征服(1016年)
一時、アングロ=サクソン王朝が復活
「ノルマンの征服」(ノルマン=コンクェスト、15 )年
(16 )が征服(ヘースティングズの戦い)
3 ロシアの起源
@ (20 )国(862年)
(19 )が率いる一派(ルス族)が、スラヴ人を征服
A (21 )公国(882年)
一族のオレーグ公がキエフに南下
4 北欧3国(ノルウェー、スウェーデン、デンマーク)の成立
5 大西洋横断
アイスランド、グリーンランド、北アメリカへ到達
【封建社会の成立】
A 封建制度(フューダリズム。feudalism )
1 狭義 ― (22 )(知行)の授受による領主間の主従関係
2 広義 ― 荘園制(農奴制)を経済的基盤とする社会体制
主君 ← 忠誠・軍役 ← 臣下
→ 封土(知行) →
〔双務的契約関係〕
B 起源
1 ローマ末期の(23 )制度とゲルマン人の(24 )制度が結合
2 8世紀頃成立〜10世紀頃確立、イスラム教徒・マジャール人・ヴァイキン
グなどの侵入
C 荘園制
1 領主 ― 国王・諸侯・騎士・聖職者など
2 荘園の構造
耕地 = 領主の(25 )と農民の(26 )
農民が共同で利用する牧草地・森林など
3 農民の負担
@ 農民の多くは(27 )
(28 )(労働地代、領主の29 の耕作など)
(30 )(生産物地代、年貢など)
(31 )税(教会に支払う)
その他、死亡税・(32 )税(領外結婚)・施設の使用料など
A 経済外的強制
領主の(33 )権、移転の自由なし
4 農法 ― (34 )制度(→ 開放耕地制)や犂耕の普及
5 自給自足の現物経済
D 領主の権限
1 複数の主君につかえることができた。
2 (35 )権(インムニタンス)
領主は領内の裁判や課税について、国王の介入を防ぐ権利、
E 騎士道
1 キリスト教の影響 → 騎士の道徳の形成
勇武・忠節・敬神・婦人や弱者へのいたわり、教養など
【教会の権威】
A ローマ=カトリック教会(Roman Cathoric Church) の世俗化
1 土地の寄進をうけ領主化
2 聖職者の階層制度
教皇 ― 大司教 ― 司教 ― 司祭
3 教会の腐敗と堕落 ― (36 )・聖職者の妻帯など
B 修道院運動
1 (37 )修道院(フランス東部、910年)
教会の粛正運動(11世紀) ― ベネディクトゥス戒律の継承
2 シトー派修道会(フランス、1098年)
3 托鉢修道会(13世紀)
@ (38 )修道会(イタリアのフランチェスコ)
A (39 )修道会(スペインのドミニコ、南フランス)
C 教皇と皇帝の対立
1 (40 )闘争 ― 聖職叙任権をめぐる争い
@ 教皇(41 )
教会の粛正(42 など禁止)、聖職叙任権を教皇の手におさめる
→ 神聖ローマ皇帝(43 )と対立
A (45 )の屈辱(44 年)
B (46 )協約(1122年) で妥協
2 教皇権の絶頂期
@ 教皇ウルバヌス2世 ― 十字軍を提唱(1095年)
A 教皇(48 )
教皇権の絶頂期、(47 )世紀はじめ
イギリス王(49 )・フランス王フィリップ2世を屈伏させる
「教皇は太陽、国王は月」
第4回十字軍を提唱
☆ 重要語句
ヴェルダン条約 メルセン条約 東フランク王国 西フランク王国
イタリア王国 神聖ローマ帝国 マジャール人 カペー朝
ヴァイキング ユーグ=カペー ノルマンディー公国 両シチリア王国
ノルマンの征服 ノヴゴロド公国 キエフ公国 封建社会 カヌート
ノルマンディー公ウイリアム リューリク 封建制度 封土 領主
不輸不入権 騎士 諸侯 騎士道 恩貸地制 従士制 直営地 農奴
賦役 貢納 十分の一税 領主裁判権 三圃制(三圃農法) 聖職売買
修道院運動 クリュニー修道院 フランチェスコ修道会 托鉢修道会
カノッサの屈辱 聖職任命権 ウォルムス協約 グレゴリウス7世
ハインリヒ4世 ウルバヌス2世 インノケンティウス3世
☆ 重要年代
ヴェルダン条約 メルセン条約 神聖ローマ帝国の成立 ノルマンの征服
ウォルムス協約
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