第2章 オリエントと地中海世界
1 古代オリエント
オリエント 戻る
ローマ人の命名で、「日の昇る所」という意味。イタリア半島から東をさし、世界最古の文明が生まれた西アジアとエジプトの総称。
チグリス・ユーフラテス川とナイル川において、治水と灌漑の共同作業を通して最古の国家がうまれる。
肥沃な三日月地帯 戻る
H・J・ブレステッドの命名。世界でも最古の農耕文化地帯。
メソポタミア
メソポタミアとは、川と川と間の地という意味で、現在のイラクにあたる地域。ここはチグリス川とユーフラテス川とがペルシア湾に注ぐ河口付近。沼地や湿地は一面の葦におおわれている。それ以外のところは、荒涼とした原野で雨が降らないので土地は乾ききっている。ほとんど雨の降らないこのメソポタミア南部では、灌漑用の運河やため池をつくらないと農地は砂漠にもどってしまう。そして、灌漑は共同体の事業としておこなわれないと効果はあがらない。ばらばらに仕事をしても何にもならない。運河やため池をほったり、手入れをすることは、到底、個人の能力を超えた仕事である。二つの川が運ぶ肥えた土砂が堆積して、海岸線は5千年前にくらべたら200kmも進出しているという。
シュメール人 戻る
シュメール人はもとからこの地に住んでいたのではないが、どこからきたのかははっきりしない。インダス文明のインドと人種的な関係があるともいわれている。エジプトのナイル川の氾濫は定期的で、増水の速度も緩やかであるが、チグリス・ユーフラテス川は始末におえないもので、絶えず川のコースは変わり、土砂の堆積で浅くなった川は堤防を決壊させたので、当時のシュメール人は洪水の危険に脅かされていた。
シュメール人の都市国家がうまれ、その都市国家がたがいに争う時期がつづく。ウル、ウルク、ラガシュなどの都市が覇権を争った。
バビロン第1王朝 戻る
その後、肥沃な三日月地帯とアラビア砂漠のあいだのステップ地帯で遊牧民のセム語族が入ってくる。チグリス・ユーフラテス川の上流、アッカドに首都をおくアッカド人が支配。アッカドのサルゴン王のときメソポタミアを統一するが、チグリス・ユーフラテス川の肥沃な下流地帯は、いつも外敵の侵入にみまわれていて、ザグロス山脈から攻めて来たグチ族によって滅んだ。その後、シュメールの都市は再び独立し、ウル第3王朝が覇権を握った。
この後、小国分立の群雄割拠の時代がつづく。そうした中、アムル人の都市バビロンが、次第に周囲を征服していった。6代目のハンムラビ王のとき、全メソポタミアを統一した。これがバビロン第1王朝である。ハンムラビ法典(1902年、スサ出土)は世界最古のものではないが、それが整っていることと、後世に与えた影響が大きい。
ハンムラビ法典の特色は、階級の差別と同害復讐法の考え方、この二つである。同じ傷害罪を犯しても、被害者の身分が低ければ賠償金が少ないけれど、逆に加害者の身分が低ければ、同じ罪でも重い刑罰が課せられることになっている。「人の妻たるものが、夫以外の男と寝ているところを発見された場合には、二人を縛って水の中に投げ込むべし」、「大工が人のために家を建て、それを頑丈につくらなかったために、彼の建てた家が崩壊して、家の所有者をしに至らしめた場合、その大工は死刑に処せられる」、「外科医が・・・病にかかった目を手術し、それがために患者の眼がつぶれた場合は、外科医の手が切り落とされる」など。こうした社会を構成していたのは、貴族、一般市民、奴隷の三つの階級であった。
バビロン第1王朝は、ハンムラビ王の時代に最高に繁栄したが、その後、カッシート人のなどの侵入が相次ぐことになる。
インド=ヨーロッパ語族の移動 戻る
前2000年紀は、二つの大民族移動によって、オリエントが混乱する。最初の移動は、インド=ヨーロッパ語族の移動で、北のほうからオリエントに侵入する。馬に引かせた戦車でオリエントを襲った。そしてまた、馬と戦車をオリエントに普及させることにもなる。前16世紀には、ヒッタイトとミタンニが有力となり、カッシートのバビロニアがこれに加わる。ヒッタイトは、オリエント貿易の要衝となったシリアをめぐり、ヒクソスを撃退したエジプトと争ったり、同盟を結んだりした(「アマルナ文書」にみえる)。
セム系3民族 戻る
2番目の民族移動は、前1200年ごろ、西北からおこったエーゲ民族移動とアラビアから進出したアラム人の移動である。ドーリア人の移動によってはじまったエーゲ民族移動によってトロヤは炎上し、ヒッタイトは滅亡。エジプトもこの打撃で衰退する。こうして、オリエントの強国が没落したあと、アラム人は西アジアに進出する。
アラム人は陸上のフェニキア人とよばれ、ダマスクスを中心にアラム人の王国をつくり、陸上貿易を独占し、広い範囲にわたる交易で繁栄した。この後のアッシリア、ペルシア帝国においてもアラム語が共通語として使われ、アラム文字はインドからモンゴルまでの東方のアルファベットの母体となった。
フェニキア人は、ギリシア語の語源でフェニックス。シリア沿岸、レバノン山脈の西の細長い地域の住民。前13世紀ごろから地中海貿易に活躍した。各地に植民地や貿易中継地をつくったが、特にカルタゴは有名である。
ヘブライ人は、もとアラビア砂漠の遊牧民族。旧約聖書「出エジプト」によって象徴されるように、農耕地を求めて定着生活を行おうとしてさすらう。こうして艱難を繰り返すうちに、唯一絶対のヤハウェの信仰によって結ばれる。彼らはカナーン(パレスチナ)にはいり(前14・13世紀頃)、先住民との戦いに勝ち、ヘブライ王国を建設。のち、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂。
カルタゴの建設 戻る
紀元前814年、テュロスのフェニキア人の一派が、北アフリカに植民都市カルタゴを建設した。テュロス王ピュグマリオーンの姉エリッサは、神官である叔父のアケルバースと結婚していたが、アケルバースが莫大な財産を隠匿していることを聞きつけたピュグマリオーンは、彼を暗殺してしまった。王に反感をもつ貴族の一部を味方につけたエリッサは、夫の隠し財産を持って逃亡を企て、キプロスを経由して、カルタゴに到達した。エリッサは「牛の皮で覆えるだけ」という条件で、細長く切った牛の皮をつないで囲めるだけの土地を先住民から手に入れた。カルタゴ発祥の地であるビュルサの丘が、ギリシア語で「皮」という意味をもつのはこの伝承に由来する。以後、カルタゴは前146年にローマに敗れるまで、地中海の貿易大国として君臨することになる。
セム系の遊牧民たちは、数世紀にわたって、アラビア北部の広大な半乾燥地帯から東の豊かなチグリス・ユーフラテス川へ移動をくりかえし、また、西の地中海方面へむかって、現在のシリア・レバノン・ヨルダン・イスラエルの地域に入っていったのである。このセム人の中のヘブライ人ももとアラビア砂漠の遊牧民で、旧約聖書の「出エジプト」のような苦難をくりかえすうちに、唯一神ヤハウェの信仰によって結ばれていった。彼らは前14・13世紀ごろパレスチナに入り、先住民との戦いに勝ち、イスラエル王国を建設する。のち北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂する。
メソポタミアに石材は少なく、建築は泥をかためた日干し煉瓦で造られた。時を計るのに60進法を使うことと、7日を1週間とすることはメソポタミアにはじまった。
楔形文字 戻る
楔形の符号を組み合わせて文字を表現。木のへらを粘土板に押し当てて書いたので、字の形が楔形になったのである。イランの西のべヒスターンという小さな町のそばに、巨大な岩山があり、イランからメソポタミアへの街道沿いにある。90メートル以上の高さのところに、ダレイオス1世の武勲をたたえる勇姿の浮き彫りと楔形文字が刻まれていた。イギリスの騎兵少佐ローリンソンがその岩山によじ登り、決死の思いで手帳にその文字を写し取った。そこから研究が始まり、解読されている。
ナイル川 戻る
全長6400km以上、エチオピアに源のある青ナイル、ウガンダから流れる白ナイルが、スーダンのカルツームで合流する。ここから、地中海まで約3000km、周囲の不毛の砂漠に恵みをもたらす。下流のデルタ(ギリシア文字のデルタに似ているのでギリシア人が命名)が、下エジプトで、ナイル川が険しい崖の間を流れる乾燥地帯が上エジプトである。
ナイル川は毎年必ず氾濫(増水)をおこすので、川のほとりの村々は実り豊かな収穫があげられるよう共同作業を行った。共同作業はナイル川のすべてに及ぶので、巨大な労働力を必要とした。必要な労働力をそろえ組織するには、強い権威が必要であった。ナイルは中央集権を生むきっかけとなったのである。
ナイルの氾濫は、上流から肥沃な土を運ぶ。5,6月ごろ、エチオピア高原にモンスーンが雨を降らせる。雨ははるばる流れて7月にデルタで増水が始まり、9〜10月にかけて水位は最高となり、11月に水は減り始めて、6月には最低となる。雨が降ったらすぐにあふれるような日本の川とはスケールが違うのである。ナイル川はこうした増水を地質時代の昔から、何回となく繰り返し、上流から肥沃な土をせっせと運び川のほとりに積み上げていったのである。
エジプトはほとんど雨の降らない土地柄。灌漑をしなければ作物は育たない。水を供給できる土地をひろげるために、大きなため池を掘り、氾濫のときに水をためおいた。また、水揚げ装置を工夫して、土地に水を引いていった。また、毎年氾濫のあとわからなくなった所有地の境界線を幾何学的な方法を使って引きなおしていった。
エジプト史 戻る
前3世紀の神官マネトーはファラオの登場(前3100年ごろ)からアレクサンドロス大王がエジプトを征服する(前332年)までの3000年間を30の王朝に分けて「エジプト史」を書いた。このわけ方が今も使われる。
ファラオ − 王が一体になった存在。超人間的な権威をもった王。
最初のファラオをメネスという。第1〜2王朝のファラオは上エジプトからでるが、狭い峡谷の奥では南北に細長い国土を支配できないので、デルタの扇にあたるところにメンフィスの都を建設。古王国時代には巨大なピラミッドをつくる。前2600年前後、ギゼーの三つの巨大ピラミッド、クフ・カフラー・メンカウラーの造営が行われる。
そのうち最も大きい「クフ王のピラミッド」は、基底の長さ約二百三十メートル。全体の高さ約百四十七メートル。使われた石の数は約二百七十五万個。一個の平均の重さは二.五トン(二千五百キロ)。総重量は六百九十万トン。この石材を三十センチ立方の角石に切って一列に並べると、赤道の約三分の二の長さになる。かのナポレオンが、エジプト遠征の折、兵士たちに「諸君、四千年が君たちを見おろしている!」と言って激励した逸話は有名である。ナポレオンに同行していた学術隊の計算によると、三大ピラミッドの石材全部を使えば、厚さ三十センチ(一メートル説も)、高さ三メートルの防壁でフランス全土を囲めるという。
これほどの大建造物が、実に四千六百年前からそこにある。人類最大の石造建築物であり、古来「世界の七不思議」の筆頭に挙げられるのも、無理もない。まさに「永遠の時間」を結晶させたような巨大な存在感である。今なお、世界中の人々を引きつけてやまない魅力がある。トインビー博士は、「ピラミッドは、おそらく将来、幾千年、幾万年、人類そのものよりも長く残るだろう」(『歴史の研究』)と述べる。
実は、ピラミッドは他にも多く造られた。その数は八十基とも二百基ともいわれており、大きさや構造も多様である。そして、その多くが長い時間の攻撃に敗れ、崩れ去っていった。そうしたなか、どうして、この「大ピラミッド」は五千年の風雪にもびくともせず、そびえているのか。
奴隷制でピラミッドは出来ない。ピラミッドの永遠性の秘密
かつては、ピラミッドというと、一人の王の絶対権力に、人民が奴隷のごとく使われ、涙と犠牲の上に築かれたというイメージが強かった。ギリシャの歴史家・ヘロドトス(紀元前五世紀。著書『歴史』でピラミッド建設に触れている)に由来するこうした説は、今では否定されている。人々が「権力への恐怖」のために、いやいや取り組んだものが、かくも精巧に出来上がるだろうか。ほんの少しの計算の狂い、ほんの少しの施工の狂いも、長い年月と非常な重量によって、いつしか大きく広がり、致命的なひずみとなろう。五千年ももつはずがないと。
フランス考古学(エジプト学)のルクラン教授によると、「大ピラミッド」を造ったのは奴隷ではなく、自由な農民たちと、選ばれた技術者であった。「彼らには王の栄光を永遠ならしめるとの『使命感』がありました。またピラミッドによって、人類の永遠性を後世に伝えられるとの『確信』がありました。だから、あの奇跡が実現できたのです。私はそう見ています」と。
「大ピラミッド」を造ったクフ王は、農民によるピラミッド建設の工事期間を、六月からの三、四カ月間に決めた。〈当時の国民のほとんどが自由農民であった。奴隷制度の確立は後世のことである〉ナイル川は毎年、氾濫し、この間は農作業ができない。農民たちは、この“余暇”を利用して、ピラミッドの建設に参加したのである。したがって、本業には支障がなかった。
更に、農民たちにとって、この期間、工事に参加することは、失業対策にもなった。衣食住も保障される。技術も身につけられる。そのうえ、作業の時期には、川が増水していたから、石も運びやすかった。この間、農民は、各部族の代表が参加して作業した。この栄光の建設に参加した者は、部族のヒーロー(英雄)となった。農作業の時期には、石を切り出して磨き上げるまでの作業を石工たちが行い、翌年の工事期に備えた。石切り場の跡からは、石工たちの「労働歌」や「信仰の歌」、自分たちの「隊」の名を刻んだ文字も発見されている。そのなかには、「精力隊」「持久隊」「健全隊」といった文字もあり、それぞれの自負心と競争心がうかがえる。それらの名は不朽である。
ルクラン教授は、「大ピラミッド」の永遠性について、「非常なる熱意と完全なる計算。そして、長い時間をかけて、一生懸命、心を込めて造ったことです。信仰と正直さをもった心が、それをなしとげたのです」と結論された。情熱と理性、忍耐と誠実「大ピラミッド」は、その名も「情熱のピラミッド」と呼ばれる。
なお当時、地球上にはまだ現在のような「民族国家」はなかった。主に、部族ごとの小さな共同体の集まりであった。この「ピラミッド建造」という大事業が、初めて「民族国家」を造った。ばらばらの部族が、一つの目的に向かって団結した。ある学者は、ここにこそ「ピラミッドの真のねらい」があったとさえ論じている。(ドイツのエジプト学者、K・メンデルスゾーン博士の説)〈他の観点からも、「王の墓」とする説には、現在、さまざまな疑問が投げかけられている〉
古王国の末期は群雄割拠の分裂時代となる。第11王朝がエジプトを統一して中王国の時代になるが、封建的な割拠の体制はつづく。第12王朝から再びエジプトは混乱する。馬と戦車をもったアジアの混成民族のヒクソスの進入にみまわれ(前1730年ごろ)、約150年間下エジプトのアヴァリスを根拠地としてエジプト人を支配した。
ヒクソスに対する反撃は上エジプトのテーベからおこる。前1570年ごろ、テーベ侯アフメスは、ヒクソスの根拠地アヴァリスを占領した。第18王朝のはじまりである。新王国時代のトトメス3世は、シリアからユーフラテス川まで進出する。
アメンホテプ4世(在1369〜1353年ごろ)は、テーベの北500kmのところに新しい都を建設し、アケタテンとなづけた。現在のテル=エル=アマルナである。ここで写実的な新しい作風のアマルナ芸術が生まれる。
アメンホテプ4世(イクナトン)の宗教革命は、伝統に忠実な古代エジプト史のなかで異彩を放っている。彼は「人類最初の唯一神教者」とされる。それまでの多神教を排して、「アトン」という太陽神に統一しようとしたのである。究極のものは“ひとつのはずだ” ― 人類の宗教・精神史上、大きな意味をもった改革であった。その背景には、聖職者・神官たちの莫大な富と権威、専横があった。これ以上、放置はできない ― 。
「余は宣言する。血と殺人を認めるような神は存在しないと」「死によって平等となる前に、この世で平等な人間となるよう努めよ。余は神官の学校を閉鎖する。なぜか。彼らは一度たりとも、信仰の奉仕を行ったことがないからだ」
しかし聖職者たち反動勢力が盛り返していく。王の死後、九歳で即位したのが彼の婿養子ツタンカーメン王である。
ツタンカーメン王は当初ツタンカートン(アトンの生ける姿)と名のっていましたが、反動の力に負けて、(もとのアメン信仰に帰り)ツタンカーメン(アメンの生ける姿)と王名を変え、テーベに戻りました。
テーベの西に新王国ファラオの墓があつまる「王陵の谷」がある。1922年ここでほとんど手つかずの状態でカーターによって発見されたのがツタンカーメン王の墓である。ところが発見後5ヶ月して発掘事業にお金を出していたカーナボン卿が急死する。さらに6ヵ月後に、カーナボンの弟と看護婦が亡くなり、つづいて関係者が原因不明の病気や事故で亡くなった。こんなことがあってツタンカーメンは世界に知られている。
そして、エジプトは、前525年ペルシア王カンビセスによって征服され、ペルシアの属州となるのである。
エジプトの文化 戻る
太陽暦
エジプトの暦は1年365日とする太陽暦。4年に1度閏年を置かなかったので、暦は自然の運行と少しずつずれていった。
象形文字
エジプト人の死に対する考え方は、死後の生活を地上での生活のもっともよい時期の再現と考える。お金持ちは、永遠の時間を過ごすために墓や供え物を準備した。ファラオや貴族は、墓の用意ができるまでに何年も何十年もかけるのである。
エジプトではピラミッドや神殿の内部に小さい絵が掘られていた。おそらく文字であろうと思われていたが、誰も読むことはできなかった。ナポレオンは1799年エジプトへ遠征する。そのとき、175人の学者と芸術家を連れて行き、エジプトの研究を行わせている。1799年の夏、ロゼッタの町の近くで溝を掘っていたフランス兵か労働者が1枚の玄武岩の石版を掘り出した。これがロゼッタストーンである。石版の銘文の写しはヨーロッパに送られ、学者たちがその解読に挑戦した。
ここにシャンポリオンという少年がいた。11歳のとき、フーリエと出会う。フーリエはナポレオンとエジプトにいった学者で、シャンポリオン少年の学校を訪問してこの少年のすばらしい知力に深く心を打たれた。シャンポリオン少年は、パピルスに書かれた神聖文字をみて、これを読める人はいるのかとフーリエに尋ねた。フーリエは頭を横にふった、「いいや」と。言い伝えによれば、シャンポリオンは「それでは、僕がやる」といったという。1809年グルノーブル大学の歴史学の教授となっていた18歳のシャンポリオンは、エジプトの神聖文字についての最初の論文を発表した。そして、1824年、エジプト神聖文字の解読に成功するのである。こうして、古代エジプト人が残した記録が読めるようになったのである。
アッシリア 戻る
残虐さで有名なアッシリアは、ハンムラビ王の時代にはバビロン第1王朝の支配をうける。その後、ミタンニの支配をうける。ミタンニがヒッタイトとの抗争で衰えるとアッシリアは独立した。そして、前11世紀以後、アッシリアの発展の時代に入る。アッシリアの最初の全盛をもたらすのがティグラトピレセル1世で、残忍で好戦的なやり方で征服を進めた。しかしその後、西のアラム人に圧迫され、東からはザグロス山脈の山岳民族に攻撃され、領土は縮小していった。アラム人は、バビロニアを襲い、アラム人の一派のカルドゥ族はペルシア湾の海岸地域に住みついた。カルディアという名称はこの部族からきている。紀元前10世紀になるとアッシリアが再び強大な軍事力をもって発展しはじめる。アッシュールナシルパル2世の時代、馬に引かせた戦車隊・騎兵隊・弓隊・槍隊などにわかれて周囲に領土拡げていく。「余は、市の門に面して柱をたて、そして主だった人々の皮をはぎ、その皮を柱にまきつけた。ある者は柱に塗りこめ、あるものは杭にさして柱のうえにつきたてた。・・・・そして役人どもの手足を切り落とした。」「そのうちの多くの捕虜を焼き殺し、・・・・ある者は手と指を切り落とし、ある者は鼻と耳をそぎ落とし、・・・・多くの者の目をえぐりだし、・・・・・若者と娘たちを火の中に投げ込んだ。」
しかしその後約75年わたる衰退の時代をむかえるが、再び紀元前8世紀の後半には、一大勢力となった。そして、ティグラトピレセル3世のもとで隆盛をむかえる。そして、世界史上最初の世界帝国を建設する。反乱の恐れのある地の住民すべてを遠隔に地に強制的に移し、かわりに征服地の住民をもってきた。紀元前721年、サルゴン王は都を現在のコルサバードに移し、その子センナブリケは首都ニネヴェを建設、その子エサルハッドンはエジプトを征服し、またその子アッシュールバニパルは広大な世界帝国を建設した。しかし、征服はたいへん広い地域にわたったので、国境地帯を同時に守ったり、各地の反乱を平定するのは困難であった。残酷なアッシリアに対する憎しみは帝国全体に満ち溢れていた。紀元前640年ごろ、アッシュールバニパルはエラム人(ペルシア湾岸にあり、首都スサ)を攻撃しこれを征服した。彼は、この地を荒れ野としたことを誇りに思い、捕虜にした人々や家畜、エラム王の屍もアッシリアに持ち帰った。また、アッシリアとメディアとの戦いもしだいに激しさを増す。メディア人は騎馬で戦い、アッシリア人は彼らから騎馬戦術を学んだといわれる。このときまでは、戦車が主な武器であったが、それ以後は馬を手に入れる目的でメディアに対する遠征をおこなった。
こうした戦争状態が続く中で、アッシリアの勢力は人的な資源を減らしてしまって次第に衰えていく。こうしたなか、新バビロニアはメディアと反アッシリア同盟を結びバビロニアの年代記は、紀元前614年にメディアがアッシリアの首都アッシュールの攻撃にでたと書いている。「バビロニアに軍勢は、・・・・戦闘開始に間に合わなかった」、援軍もなしでキュアサクレス(メディア王)の戦士たちは、「町を奪取し、町の壁は破られ、住民はみな恐ろしい大虐殺の犠牲となった」。その2年後に、メディアと新バビロニアの連合軍は、アッシリアの首都ニネヴェを攻撃した。3度にわたる激しい戦いの後、ニネヴェは陥落した。こうして、最初の世界帝国アッシリアは崩壊した。
新バビロニアとメディアは互いの連合のつながりを深めるため、メディア王女が新バビロニア王のネブカドネザルと結婚した。ネブカドネザルが有名な「空中庭園」をつくったのは、妻のメディアの自然に対する郷愁を和らげるためといわれる。
四国対立時代 戻る
メディア王キュアサクレスは西に進んでアナトリア地方(現在のトルコ)を攻撃した。ここにはリディア人がおり、6回にわたる激しい戦闘がおこなわれた。このとき、ギリシアの歴史家ヘロドトスは、「昼が突然夜となった」と書いている。日食が起こったのである。この予期しない出来事に両軍とも戦意を失い、和解したと書いている。 メディアとリディアは全長1120kmのハリュス川を国境とした。その後の30年間は、古代オリエントでは珍しい平穏な時代であった。
ペルシア帝国 戻る
ペルシア人はイラン人の一部であり、この民族は、ロシア南部の平原地帯に住んでいた遊牧諸民族の総称で、アーリア人といわれる集団に属していた。紀元前2000年から紀元前1800年ごろにかけて、アーリア人は移動を開始した。あるものはインドに入り、イランを通ってメソポタミアやシリアにまでいたったものもある。紀元前1400年ごろ、ペルシア人を含んだアーリア人の集団はイランに侵入し、次第に西方へ移動していった。イラン高原は、周囲に3600mをこえる険しい山々がそびえ、夏は暑く冬は厳しく、自然に恵まれないところであった。この移動にはメディア人も含まれ、メディア人はイランの北西のエグバタナ(今日のハマダン)の肥沃な平原を手におさめた。
紀元前575年ごろ、メディアに従属していたペルシアの一国王カンビュセスの妃がキュロスという男児を出産。これがペルシア帝国の初代の支配者となるキュロス王である。あるとき、一人の人が天候の悪いペルシス地方から領内のもっと天候のよい土地へ移るように進言した。キュロスは、「柔らかい土地からは、柔らかい人間しか生まれない」と言って、この地にとどまると言ったという。キュロスはやがて、メディアを破り、反対に支配し(紀元前550年ごろ)、リディアに迫った。
リディアはそのころ、クロイソス王が統治していた。ヘロドトスの記述によれば、クロイソスはキュロスに対抗する見通しについて神託を求めようとしたが、どこの神託が信用できるかをきめるため、6ヶ所以上の神託所に使いを派遣し、使いが首都のサルデスを出てからちょうど100日目に、クロイソスが何をしているかを尋ねるように言った。クロイソスは青銅の大鍋で、子羊と亀の肉をいっしょに煮ていた。それを見事に言い当てたのは、デルフィの神託であった。しかし、その神託もかなわず、クロイソスはキュロスに敗れてしまうのである。
クロイソスはかってギリシアのソロンと会見したことがあった。そのときのエピソードをヘロドトスは伝える。
ソロンは権勢を誇る王の宮殿に招かれた。王は絢欄たる王宮の莫大な富をソロンに自慢する。ありとあらゆる財宝を見せつけた後、王は質問した。「ソロンよ。あなたは、有名な哲学者であり、世界を旅して見識も豊かと聞いている。そこで聞きたい。今までに会ったなかで、一番、幸福な人はだれか?」。
王は、ソロンに、巨大な権力と富を持った自分ほど幸福な人間はいないと言わせたかったのである。しかし、ソロンの答えは、王の期待を裏切った。彼は、アテネの一人の市民の名前をあげた。その市民は決して特別な人間ではなかった。実直そのものの人柄。善良な子どもに恵まれた。生きるに困らない程度の財産。名もない。地位もない。だが、この市民には勇気があった。愛するアテネを守るために敢然と戦い、そして死んでいった。その生涯には人々から深い感謝が捧げられていた。賢人ソロンは、この「勇敢な市民」こそ「第一の幸福者」である、と王に告げたのである。
王は不服であった。「では第二の幸福者はだれか?」とさらに尋ねた。王は、次こそ自分の名があげられると期待した。しかし、ソロンが名前をあげたのは、仲が良く、親孝行な兄弟であった。この兄弟は、母親を優しくいたわり、最高に喜ばせた。そして人々の祝福に包まれ、穏やかに死んでいった市民であった。ソロンは、この兄弟を「第二の幸福者である」と判定する。王は怒った。どうして私ではないのか。権力者の自分をさしおいて、ごく平凡な市民が幸福とは、よくない、と。
ソロンは静かに語った。「ギリシャの民衆の知恵は教えています。人の幸・不幸は、時とともに変化していく。ゆえに目先だけではわからない。長い目で見なければわからない、と。ちょうど、スポーツの競技をしている途中では、だれが勝利者か決められないようなものです」。
王と賢人ソロンとの対話は、それで終わった。王は納得せず、不機嫌なままであった。ところが、それから数年後 ─。王はキュロス王に敗れる。捕虜となって処刑される身となってしまった。火あぶりにされる寸前、王の胸中に蘇ったのは、かつてのソロンの幸福論であった。「幸・不幸は、一生の結末まで見なければわからない」と。ソロンが植えた「智慧の種」が、死を前にして芽をふいた。
王は自分の傲りを悔いながら、「ソロン!」と大声で三たび、叫んだ。すると、この叫びを聞いた敵の王が処刑をとりやめ、「ソロンとは、いかなる人物か?」と尋ねた。そして王からソロンとの対話の様子を聞き、感嘆して王の命を助けてあげた。こうして賢人ソロンの英知は、一人の王の命を救い、もう一人の王まで教訓したのであった。〈ソロンの話はヘロドトスの「歴史」および「プルターク英雄伝」から
キュロス、ユダヤ人をバビロン捕囚から解放
新バビロニア帝国のネブカドネザル2世は、前597年と前587年の2度にわたってエルサレムを陥落させ、ユダヤ人を自国の首都バビロンに強制移住させていた(バビロン捕囚)。
小アジア(アナトリア)の征服を終えたキュロス2世は、バビロンへ無血入城をはたした。紀元前538年、キュロス2世が勅令を発し、ユダヤ人のエルサレムヘの帰還と神殿再建を許した。彼は、征服した諸民族の文化的、宗教的伝統を尊重し、また一定の自治権を与えるなど寛容な政策をとり、人心を掌握した。だが、エルサレムへ帰還したユダヤ人の神殿再建は困難をきわめ、完成するのはダレイオス1世の治世、前515年のことになる。
かつての4大強国中三つを領土に加え、地中海ペルシア湾から中央アジア、北西インドに及ぶペルシア帝国を一代で築きあげた大王キュロスは、残るエジプトの征服を夢みながら、前529年、アラル海の南でスキタイ人と戦って死んだ。
ペルシア帝国のオリエント統一
紀元前525年、カンビュセス2世率いるペルシア軍が、エジプトのプサンメティコス3世率いる軍隊を、エジプト国境付近、ナイル・デルタのペルシウムで打ち破った。さらにペルシア軍はメンフィスを征服し、プサンメティコス3世を捕らえた。これによりエジプト第26王朝は滅び、カンビュセス2世はエジプト第27王朝の開祖として即位し、以後エジプトはペルシア帝国の一州となる。ここにアケメネス朝ペルシア帝国によるオリエント統一が達成されたのである。
彼は、エジプトの風俗や宗教の自由を認め、はじめのうちは寛容な政策を行った。カンビュセスはエジプト征服だけではあきたらず、さらに三つの遠征を企てる。だが、第一のカルタゴ遠征は、ペルシア海軍の主力を担うフェニキア人の拒絶にあい、実現しない。エチオピア遠征は、携帯した食糧が尽き、兵士たちのあいだでたがいに人肉を相食む惨事を招き、これも失敗する。最後のシバ・オアシス・アンモン人の地域への遠征は、派遣した5万人の精鋭部隊がリビア砂漠を横断中、猛烈な砂嵐に巻き込まれ、忽然と姿を消したのである。これらに追い討ちをかけるように故国での内乱の情報が入り、彼は急いで帰国の途に就くが、精神に異常をきたし、前522年、シリアで自殺してはてる。
しかし、ペルシア帝国は次王ダレイオス1世の時代に最盛期を迎え、ペルシア王によるエジプト第27王朝は前404年まで続くことになる。
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