西ヨーロッパ中央集権国家の成立

 

           5 西ヨーロッパ中央集権国家の成立 
 
 教会勢力の衰微  アナーニ事件  教皇のバビロン捕囚  宗教改革の先駆
 イギリスの近代王政  フランス  百年戦争  封建制・荘園制の崩壊   
 ドイツとイタリア    
   
   
 教会勢力の衰微   戻る  
 13世紀のはじめは教皇権の最盛期とされるが、13世紀末にはすでにその衰退を示す動きがあらわれている。教皇権はフランス王権の伸長という、新しい壁にぶつかった。
   
 アナーニ事件   戻る  
 領内の聖職に対する課税 ─ それまで、教会の収入は課税されない。1301年フランス国王フィリップ4世は、以前教皇特使であったある高位の聖職者を反逆罪で投獄した。教皇ボニファティウス8世は、この聖職者の釈放を命じるとともに、フィリップに与えた聖職者に対する課税についての譲歩も撤回した。ボニファティウス8世はいう、「教皇に服従することは、どんな人間にとっても必要欠くべからざることである」
 1302年フィリップ4世はフランス人の貴族・聖職者・市民の会議を召集し、全会一致の支持を取り付けた。これが三部会の始まりである。そして、家臣のギョーム=ド=ノガレに教皇をフランスへ連行する権限を与えてイタリアに差し向けた。86才のボニファティウスはローマの暑さを避け、アペニン山麓の生まれ故郷アナーニで夏を過ごしていた。ノガレの指揮する一隊は寝室に押入った。ボニファティウスは、数日間捕らわれの身となった。そして、アナーニの民衆が立ち上がってボニファティウスを救い出したが、茫然自失の状態の彼は数週間のうちに死んでしまった。その後、ベネディクトゥス11世、ついでクレメンス5世が教皇位についた。
 2世紀前の「カノッサの屈辱」が教皇の権力の絶頂を示したとすれば、アナーニはそのどん底を示すものであった。
 中世の教皇権の隆盛は、教皇の破門が政治的効果を発揮した点にある。しかし、王権によって中央集権化がすすめられると、破門といえども国王の政治的生命を絶つことはできなかった。
 
 教皇のバビロン捕囚   戻る
 1305年、枢機卿たちは新教皇にフランス人ボルドー大司教のクレメンス5世を選出した。しかし、クレメンスはフランス王に忠実な人で、ローマへはいかない。1309年、教皇庁を南フランスのアヴィニョンに移した。教皇になるものは代々フランス人で、教皇権はフランス王権に屈服した。1309年から7代68年間にわたる。これを、古代のユダヤ人がバビロンに長く幽囚されたことにちなんで、教会史上「教皇のバビロン捕囚」とよんでいる。
 1378年、教皇グレゴリウス11世(在1370〜78)が、教皇庁をローマへ帰還させた。しかし、同年教会は深刻な事態におちいった。
 
 教会大分裂(シスマ)   戻る
 ローマ帰還後、グレゴリウス11世のあとはイタリア人のウルバヌス6世(在1378〜89)。ところが枢機卿の過半数を占めるフランス人は、フランス王シャルル5世の支援のもとに、対立教皇クレメンス7世(在1378〜94)を選出。クレメンスはアビニョンに居を定める。こうして教会は、ローマ派とアビニョン派の二人の教皇が並び立った。この後、分裂状態は約半世紀つづく。
 1409年、はじめての公会議がピサで開かれる。アレクサンデル5世(在1409〜10)を教皇に選ぶ。グレゴリウス12世とベネディクトゥス13世の廃位を決定した。しかし。二人は退位勧告を拒否したため、ピサ公会議は「のろわれた鼎立」をうみだした。
 三人の教皇が並び立つシスマを最終的に終わらせたのは、1414年のコンスタンツ公会議。コンスタンツは南ドイツの都市。皇帝ジギスムントの提唱により、教皇ヨハネス23世が招集。並立する三教皇を全部廃位し、新しくマルティネス5世を選ぶ。こうして教会は40年ぶりに統一を回復した。
 シスマは教皇への信頼を揺るがせ、教皇の権威は全く地に落ちた。
 
 宗教改革の先駆   戻る
 ジョン=ウィクリフ(オクスフォード大学の神学教授、聖書中心主義)
 各人の救いは、その人自身の信仰に基づくものだと主張。宗教的な信念や実践の問題で、教会が個人を指導する必要はない。直接、聖書に問えばよい。人々が聖書を読めるようにするため、英訳の聖書を作り上げた。教会は世俗的な富を捨てて、もう一度使徒時代の清貧という考え方を奉ぜよ、と主張した。信仰のよりどころとして、聖書を重視したのである。ボヘミアでは、プラハのヒエロニムスとヤン=フスという二人の学者がウィクリフの信条をとりあげて、それを中央ヨーロッパに広めた。
 
 フス戦争
 フスはプラハ大学の総長で、ウィクリフの説に共鳴し、その宗教運動はボヘミアの民族運動とむすびついて激しくなった。
 1346年ドイツ皇帝のルクセンブルク家のカール4世はボヘミア王となり、1348年プラハ大学を設立。教会や大学の指導的地位はドイツ人によって占められ、チェック人の下級聖職者は屈従を余儀なくされる。チェック人の不満の広がり。
 1414年、コンスタンツ宗教会議は異端撲滅をかかげて、まっさきにフスを召還する。フスは、チェック人の改革の考えを宗教会議で述べ、これを認めさせるべきであるという立場を選び、プラハをたちコンスタンツにむかう。彼はプラハ出発にあたり、愛弟子に遺書を残して、死の知らせを聞いたならば開ける様に言ったといわれる。フスは火刑に処せられる。
 ボヘミアの王位を皇帝ジギスムントがつぐことになり、ここにボヘミアのフス派と武力衝突が起こる。フス戦争の始まりである。彼らはドイツ諸侯軍と戦い、国外にうってでて、ドイツ・ハンガリー・ポーランドにも進撃した。フス戦争は、チェック人がおこなった最大の民族的抵抗であった。
 
 イギリスの近代王政   戻る
 1066年、ノルマンディーウィリアム(ウィリアム1世)がアングロ=サクソン人を征服。アングロ=サクソンの領主に忠誠の誓いを要求し、拒否するものは財産を没収した。自分と一緒にわたってきたノルマンの騎士たちには、大所領を与えると反乱の温床となるので、小さな分散した所領を与えた。家臣と高位の聖職者をメンバーとするクーリア=レギス(国王の諮問会)を設置。
 どれくらいの税を徴収することができるかを正確に知るために、すべての州に委員を派遣して土地を評価し、自由人と奴隷、牧場と農地、牛と豚、鋤と水車小屋の数を調べさせた。これを1086年、「ドームズデー=ブック」としてまとめた。これが課税の基礎となるものであった。また、フランスの策謀からノルマンディーを守りぬいた。
 
 ヘンリー1世(ウィリアムの末子)
 国王の諮問会は、二つの機能 ─ 司法と財政の機能を発展させる。ヘンリー1世が男子の跡継ぎを残さなかったので、アンジュー伯プランタジネットに嫁いだマチルダの息子ヘンリー2世が即位。
 
 ヘンリー2世(ウイリアム征服王の曾孫)
 ヨーロッパ大陸にフランス国王以上の領土を持つ。父からアンジューとメーヌ伯の領地を、そしてアキテーヌのエレオノールと結婚してポアトゥー・ギエンヌ・ガスコーニュを獲得、そしてノルマンディー公でもあった。1154年、21才でイギリス王位についた。
 「クラレンドン憲法」 ─ 一般の人ならば罰金を課せられたり、投獄されたり、死刑に処せられたりするような犯罪であっても、聖職者の場合は処罰されないことが多かった。それを、聖職者は王国の諸慣習に従わねばならないとした。また、聖職者が国王の裁判を飛び越えて教皇に直接訴えることを禁止した。
 カンタベリー大司教ベケットの殺害。
 
 ジョン(ヘンリー2世の子) 失地王のあだ名。
 フランスにあった広大な領地を、フランス王フィリップ2世がポアトゥーとギエンヌ以外をすべて没収した。ジョンはフランスの旧領を回復しようとしたが、1214年ブーヴィーヌの戦いでさんざんな敗北を喫した。国内では憤激した貴族や聖職者たちが彼の帰国を待ち受けていた。数名の貴族が部下をひきつれ武装して、ロンドン郊外テムズ河畔ラミニードでジョン王と会見。数日間の口論のあと、ジョン王はとうとう譲歩して「マグナ=カルタ」に調印。マグナ=カルタは、羊皮紙の巻物にフランス語で書かれる。内容は主に貴族のための権利を保証したものであった。
 また、教皇インノケンティウス3世と衝突し破門されたりした。
 
 ヘンリー3世
 ウェールズとフランスに対する軍資金調達のため、何回となく課税をおこなう。
 シモン=ド=モンフォールは国王を攻撃するにあたって、同じ貴族だけからでなくその他の人々の援助も得たいと考え、1265年各州から2人づつの騎士と各町から2人づつの自治都市民を召集して会議を開いた。
 
 13世紀末、ヘンリー3世の子・エドワード1世が王位についた頃、
 議会(パーラメント) ─ フランス語のパレス(話す)という語に由来。模範議会の成立。
 
 フランス   戻る
 11世紀終わり、ウィリアム征服王がイングランドで国民国家を建設していたころ、フランス王フィリップ1世は支配していた領土はパリからオルレアンにいたるイル=ド=フランスとよばれる細長い地域だけであった。
 13世紀初め、フィリップ2世(オーギュスト・尊厳王)は、結婚・征服・没収などの方法でシェルブールからピレネー山脈にまで支配地を拡大した。
 ルイ9世(聖王ルイ)は病人や盲人、更正した売春婦のための施設をつくる。キリストが磔になった十字架の怪しげな聖遺物を納める「聖なる礼拝堂」を建てたりするかと思えば、聖職者を民事裁判に服させたりした。
 フィリップ4世は三部会を召集して、ボニファティウス8世と争ったことは先に述べた。
 
 百年戦争   戻る
 この戦争の直接の原因は、フランス王位の相続争い。フィリップ4世の末子が死んだとき、カペー家の直系は絶えた。王位はその従兄弟のバロア朝のフィリップ6世(フィリップ4世の弟の子)に移った。イギリスのエドワード3世は母がフィリップ4世の娘であったことから、フランス王位を要求してフランスに攻め入った。
 これに加えて、両国の経済上の利害。フランドル地方は、イギリスから羊毛を輸入し、これを織物に生産してイギリスに輸出。両者は経済上密接な関係にあった。ところが、フランスの王権が伸びて、両者の結びつきを切ろうとしたので、イギリスは自国の経済的利益を守るため、これに対抗した。
 イギリスは中世以来、フランスに広大な領土をもち、これら領土に関して、イギリス王はフランス王の封建臣下という関係。とくに、ギエンヌ地方(イギリス領)をめぐる争いが百年戦争の一因。
 戦闘は最初つねにイギリス側が勝利。当時フランスは有力諸侯が対立し、ブルゴーニュ派とアルマニャック派の争いなどで国内が混乱。
 
 クレーシーの戦い(1346年)
 パリの北。フランス軍の数はイギリス軍をはるかにしのぐ。イギリス軍は長弓という新兵器を用意していた。騎士の両翼には長弓を手にした弓隊が並んだ。イギリス軍の長弓は1mほどの矢を約200m飛ばすことができ、フランス軍のジェノヴァの傭兵隊の弩が1分間に1回射ったのに対し、1分間に5〜6回射ることができた。有効射程は、短弓が50m、弩が200m先の町を突き通せる、長弓は同じくらい飛んで5倍早く操作できた。イギリス軍はフランスの騎兵隊に矢を浴びせかけた。
 
 ポアティエの戦い(1356年)
 クレーシーの戦いと同じように、完全な敗北を喫した。エドワード3世の太子・エドワード黒太子(いつも黒い甲冑を着用したことから「黒太子」として知られた)は、フィリップ4世の長子であるフランス王ジャン2世を捕虜にしてロンドンに連れ帰った。
 
 戦局の転換
 ブルターニュの将軍・べルトラン=デューゲクランは、カレー・ボルドー・バイヨンヌを除くフランスにあったイギリス領土からイギリス軍を追っ払った。
 
 1415年、ヘンリー5世は再び戦闘を開始。アザンクールの戦いでフランス軍を破った。フランス王シャルル6世は王位継承権を否認し、自分の娘をヘンリーと結婚させてヘンリーを自分の後継者とした。シャルルとヘンリーはこの契約から2年足らずで亡くなり、ヘンリーの幼児・ヘンリー6世は両国の王として歓呼のうちに迎えられた。王の叔父ベッドフォード公は、中部フランスから南への重要な関門で、なおイギリスに抵抗をつづけるオルレアンを包囲した。
 農民の娘、ジャンヌ=ダルクは、祖国を救うようにとすすめる諸聖人声を聞いたと思い込み、ロレーヌの生まれ故郷をあとにして、シャルル6世の廃嫡された王子・シャルルに神が伝えた自分の使命を語った。ジャンヌは男の甲冑を身に着け、白馬にうちまたがり、兵士や包囲されたオルレアンの人々を奮い立たせた。包囲はとかれ、イギリス軍はまもなく敗走した。
 1429年7月、ランスでシャルル太子がシャルル7世として王冠を戴いたとき。ジャンヌは傍らに立っていた。数ヵ月後、ブルゴーニュ派は彼女を捕らえて、イギリス軍に売り渡した。教会は彼女に異端の罪を被せ、1431年ルーアンの市場で火あぶりの刑に処せられた。彼女が王位を確保してやった当のシャルル6世は、彼女を救う努力を何一つしなかった。
 約25年たってから教会は異端の判決を撤回し、1920年、彼女は聖人の列に加えられた。
 ジャンヌの助力で即位したシャルル7世は、イギリス軍をフランスから追い、カレーだけがイギリスに残された。
 
 イギリスは百年戦争の結果、大陸から総退却となるが、しかし、そのためかえって島国としての発展が、大陸との摩擦なしに進む。また、百年戦争の後、ランカスター家とヨーク家の間にバラ戦争がおこる。この戦争は、有力諸侯の争いで、諸侯は互いに殺しあって、没落していった。この戦いの後はじまるチューダー朝(1485〜1603年)は、王権のもっとも強大な時期である。
 
 フランスは、百年戦争の結果イギリスを国内から一掃し、国内の統一を進めることができた。チャールズ7世の後を継いだルイ11世(1461〜85)は、後のフランス絶対主義の基礎を築いた。彼は封建諸侯を抑え、ブルゴーニュ公国をフランスに合併、アンジュー伯領も支配下に入れるなど、王権の拡大が著しい。
 
 イベリア半島では、11世紀ごろから、北部に後退していたキリスト教徒のイスラムに対する反撃戦がはじまる。これを国土回復運動という。イスラム勢力の撃退はしだいに進み、15世紀末にはグラナダが陥落して、イベリア半島は全土がキリスト教世界に入る。
 こうした動きの中心はカスチラ王国、アラゴン王国で、カスチラの女王イサベル(1451〜1504年)とアラゴンの王子フェルジナンド(1452〜1516年)との結婚(1469年)によって、スペインの国家統一の基礎がおかれた。
 
 封建制・荘園制の崩壊   
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 百年戦争の緒戦の敗退がつづくなか、フランスでは農民反乱・ジャックリーの乱(農民のあだ名ジャックから)がおきた。領主が戦争による破壊や略奪から農民を保護することができないのに、地代や賦役を今まで通りかけてきたので、怒った農民たちは団結して領主を襲撃した。しかし、暴動は粉砕されてしまった。
 イギリスでは百年戦争中の1381年、戦争の財源を捻出するため新たな人頭税がかけられた。下層の人々には負担の限度をこえるものであった。農民たちは、兵士出身のワット=タイラーに率いられてロンドンに進軍した。当時14歳であったリチャード2世は、彼らのなかに入っていき、地代の軽減・農奴制の廃止などの要求にすべて応じると約束した。しかし、翌日の第2回の交渉のとき、ワット=タイラーは国王の護衛兵に殺害され、反乱は失敗した。ワット=タイラーの参謀ジョン=ボールの人間平等についての有名な宣言、「我々が領主と呼ぶものは、いったいどんな権利があっ、我々より偉いというのであろうか。もし、我々が同じ親アダムとイヴから生まれてきたのであれば、なぜ、彼らは我々よりも優れているといったり、それを証明したりできるのであろうか」。これは、何回も繰り返しているうちに、簡単な文句となった。「アダムが耕し、イヴが紡いだとき、いったい誰がジェントルマンだったというのか」。
 
 黒死病(ペスト)
 また、中世末の黒死病流行は、農村人口の減少をもたらし、農村人口の減少に苦しんだ領主は農民の負担を軽減することになった。14世紀の混乱は、領主の力を弱め、農民の地位を向上させた。病気にかかったときに、皮膚に黒いしみができたからこのような名前がつけられた。発病して1〜3日で死んだ。そのとき。血をはき錯乱状態になり発疹ができて、おできや腫れ物が卵のようにふくれあがった。アジアから鼠を介して、イタリア船によって運ばれたといわれる。1348年、フィレンツェが病気に襲われ、その年の内にイタリアとフランス全土に広がり、1349年にはイギリス、1359年にはドイツとスカンディナヴィア半島に拡大した。ペストによる犠牲者は、ヨーロッパの全人口の4分の1から3分の1の間にのぼったといわれる。  
 日本の場合、死亡率の高い急性伝染病の恐怖がそれほどでもない。短期間の大量死亡となると、幕末のコレラの大流行ぐらい。ヨーロッパは対照的。ペストが6世紀から1000年以上にわたって、いくつもの休止期間をおいて流行をくりかえす。ペスト後退の兆しが見えたのは18世紀にはいってから。その中でもヨーロッパ史に決定的な影響を与えたのが14世紀の大流行。死ぬまえに、皮膚が黒色・紫色などのチアノーゼ症状をしめすことから黒死病の名称。原因もわからず、多くの人が次々にやられるから、ペストに対する恐怖はたいへんなものであった。流行がおさまると労働力は極端に不足。生き残った農民は、昔のように条件の悪い領主のもとでがまんする必要はなくなる。農民の地位向上。  
 しかし、14世紀は労働力の移動や流出を禁止する動きも強い。イギリスでは領主階級が議会や政府を通じて圧迫を加えた。こうして対立が深刻化して起こったのが前述の農民一揆である。
 
 王権の伸長は、14・15世紀のもっとも重要な政治現象。イギリスとフランスは、典型的な事例。しかし、それは両国に限られた現象ではない。スペインは1492年統一を完成。デンマーク・スウェーデン・ノルウェーの北欧3国は1397年、連合王国を形成。ついで16世紀のはじめに、スウェーデンがそれから独立している。それらは、いずれも王権の伸長を背景におこなわれた。わずかな例外としては、多くの領邦国家や都市国家に分裂したドイツとイタリア。しかし、ドイツでも領邦国家内で集権体制がつくられつつあった。
 
 ドイツとイタリア   
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 ドイツの国王は同時に神聖ローマ皇帝であるから、イタリアの支配権もにぎった。イタリアでの問題は、ドイツに近くイタリアでも富裕なロンバルディア諸都市を支配することであった。皇帝に対抗する教皇にとっても、ロンバルディアの支配は重要であった。その結果、ロンバルディアの諸都市は教皇アレクサンドル3世のもとに都市同盟を結んで皇帝に反抗した。これが、皇帝のイタリア支配を妨げた。
 皇帝フリードリヒ2世はイタリア生まれで、ドイツ本国に関心がうすく、教皇との闘争で諸侯にもろもろの特権を譲ったので、彼の治世は領邦成立の第一歩とされている。シュタウフェン朝のフリードリヒ2世は、20年にわたったドイツの内乱をおさめるが、ドイツにとって不幸なことは、彼が支配の関心をドイツ統治にむけなかったこと。自分はシチリア経営のためドイツを離れてしまう。このとき、ドイツの諸侯は、領内の裁判権・関税徴収県権・貨幣鋳造権などの特権を認められ、諸侯たちは「領邦主権」確立へのみちを歩むのである。
 1250年、フリードリヒ2世の死とともに、ドイツはまた混乱に突入。1257年、イギリス王ヘンリー3世の弟リチャードとカスチリア王アルフォンソ10世が国王に選ばれるが、それを背後であやつっていたのは、イギリスとフランスであり、しかも二人はドイツに姿をみせたことはほとんどなく、事実上、ドイツには国王の存在しない状態が1273年までつづく、いわゆる「大空位時代」である。
 中世末期のイタリアは、北部に都市国家(べネティア・ミラノ・フィレンツェ)、中部に教皇領が分立し、抗争をくりかえした。南イタリアでは、アンジュー家のナポリ王国とアラゴン家のシチリア王国とが並立・抗争する。しかも、フランス・スペイン・オーストリアなどの外国勢力の干渉をうけた。

 
 官僚・常備軍   
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 この必要にこたえたのは、一つには貨幣経済の発展によって成長してきた商人たち。封建勢力が群立していることは、商業の発展を阻害する。封建領主たちは、貨幣収入を得ようとして関税をもうけたが、それが商業にとって不利なことは当然。それに治安の不安定が加わる。  
 商業は、国内市場の統一と商業活動の安全と保護を求めるが、そのような要求は国家を統一する政治勢力を支持することへ向かう。それを達成する政治勢力は国王しかない。こうして商人たちが国王を支持し、国王が商人の財力を利用するという関係が生じる。
 中世封建社会の中核は騎士で、戦いも彼らの騎馬戦が主体。ところが、その奉仕期間や戦闘地域が封建的契約で限定されていた。軍役奉仕期間(いっぱんに年に40日間)がすぎれば、たとえ戦闘中であっても自分の兵士をまとめて帰っていった。また敵を攻撃するときも、その地域が契約地域外であれば進撃を拒否することもできた。  
 中世も末期になると、国王や有力領主は頼りがいの封建軍隊にかわり、常備軍を設置し始めた。
 
 
 
 
 【教会勢力の衰微】
 A 背景
  十字軍で諸侯や騎士がおとろえ、王権が強大化 → 教皇権の衰退
  
 B 経過
  1 アナ−ニ事件(1303年)  
   @ 聖職者課税をめぐる、教皇(1             )とフランス
    王(2         )の対立
   A フランス王は、(3     )(僧侶・貴族・市民で構成、1302年開催)
     を創設し、各身 分の支持を得て、アナーニ(ローマ郊外) で教皇を捕らえる 
  2 “教皇のバビロン捕囚”(1309〜77年)
   (4         )は教皇庁を南フランスの(5       )に移す
    → 約70年間、フランス王が干渉
  3 (6       )(シスマ・1378〜1417年)
    ローマ、アヴィニョンに教皇が立ち、正当を争う → 教皇権の失墜
  
 C  宗教改革の先駆 − 宗教界の革新運動
  1 イギリスの(7       )(オクスフォード大学神学教授)
   @ 聖書中心主義、聖書を英訳
   A 教皇に対するイギリスの政治・宗教上の独立を主張
  2 ベーメンの(8    )(プラハ大学総長)
   @ ウイクリフに共鳴し、聖書中心主義を主張
   A コンスタンツの公会議で異端として火刑
    → ベーメンでフス派の反乱 − (9    )戦争(1419〜36年)
  
 D (10       )公会議(1414〜18年)
   → 神聖ローマ皇帝ジギスムントが召集
  1 (11      )を解決(1417年) − ローマの教皇を正統とする
  2 (12   )を異端として火刑にする
    
 【封建制・荘園制の崩壊】
 A 地代の変化 
   都市・商業の発達 → 貨幣経済の発達 → 領主は(13   )を要求
  → (14   )(労働地代)の廃止、直営地の解体(農民に貸しだす)
  → 生産物地代、(15   )地代へ
  → 農民に(16   )をたくわえる機会、経済的に向上
  
 B (17    )の流行(14C中頃)
   農村人口は激減 → 労働力確保のため、農民の待遇改善
   → 農民の地位向上 − 農奴から(18     )農民に上昇
  
 C 困窮した領主の封建反動 → 農民の反抗
  1 (19       )の乱 − フランスの農民一揆
  2 (20         )の一揆 −  イギリス
  
 D 諸侯・騎士の没落
  1 戦術の変化(火砲の使用→重装騎兵の役割低下)
  2 国王は市民階級と協力して諸侯をおさえ、中央集権をはかる
  3 諸侯や騎士は国王の廷臣となり、農民から地代をとりたてるだけの地主化
  
 【イギリスとフランス】
 A イギリス
  1 ノルマン王朝(1066〜1154年)は、征服王朝として王権が強い 
   → フランスに広大な領土をもつ
  2 (21         )朝(1154〜1399年、仏王の臣下)
   フランスのプランタジネット家のアンジュー伯が、イギリス王(22       )として即位
  → フランスの西半分も領有し、勢力が大きい
  3 (23    )王の失政
   @ 仏王(24        )と争い、ギエンヌ以外のフランスの領土を
    失う 
   A 教皇(25            )に破門され、屈伏
   B 大憲章(マグナ=カルタ) 
    (26    )年、王の失政に貴族が反抗し、承認させる
     新課税は高位聖職者・大貴族の承認が必要。教会や都市の特権を尊重
     意義 − 王の圧政に対する自由の主張のはじめ
  4 イギリスの議会制のはじまり
   @ (27      )(ジョンの子) の失政
    → (28             )(貴族の指導者)が挙兵し、国王を破る
    → 高位聖職者・大貴族の集会に、州や都市の代表が参加し、身分制議会
     (1265年)
   A (29   )議会(1295年) 、国王(30        )が召集 
   B 14世紀中頃、国王(31        )のとき、上下の二院制
    → 法律の制定・新税の徴収には下院の承認が必要
  
 B フランス
  1 カペー朝(987〜1328年) の中央主権化
    → はじめ王権が弱く、諸侯の勢力が強い
    → 12世紀末より、国王による集権化が進む
   @ (32        )(第3回十字軍に参加) − 英王ジョンと争い領土拡大
   A ルイ9世(第6・7回十字軍) − (33       )派(カタリ派系異端) を根絶
                → 南フランスに王権がのびる
   B (34        )は教皇ボニファティウス8世と争う
    → 1302年、(34    )をひらき、教皇を圧迫。教皇庁を(35 
            )に移す(→P141)
     
 【百年戦争とばら戦争】
 A 百年戦争(1339〜1453年)
  1 原因
   @ (36      )地方(毛織物業地帯 ← イギリスが羊毛を輸出)
    とギエンヌ地方(イギリス領、葡萄酒の産地)の争奪
   A カペー朝が断絶し、(37     )朝成立
    → 英王エドワード3世(母がカペー家出身)が王位継承権を主張
  
  2 百年戦争の経過
   @ はじめ、イギリスが優勢 
    黒太子(38      )(黒い鎧をつける) の長弓隊の活躍で、フランス騎士軍
   を破る
   A フランスは国内の分裂、黒死病の流行、ジャックリーの乱などで、シャ
    ルル7世のとき崩壊寸前
   B (39         )(救国の少女) の活躍
   (40      )(英軍が包囲) の包囲を破り、シャルル7世をたすける
 → 戦局は逆転。シャルル7世が常備軍を編成し、戦力を高める(大商人ジャック・クールが支援)
 → フランスは全国土からイギリス軍を追う(1453年-ビザンツ帝国滅亡の年 。
     フランスにおけるイギリス領は、カレーだけ)
  3 結果
   長期の戦争でフランスの諸侯・騎士が没落
   → シャルル8世は諸侯をおさえ、中央集権化をすすめる  
 
 B ばら戦争(1455〜1485年)
  1 イギリスでは百年戦争ののち、王位を争う内乱
   → (41       )家(赤ばらの紋章)と(42    )家(白ばらの紋章)の対立
   → 諸侯・騎士は両派にわかれて戦い、自滅 → 王権が伸長
  2 (43       )が(44      )朝をひらく(1485年)
   (45    )を設置(特別裁判所)  − 絶対王政の基礎を確立  
   
 【スペインとポルトガル】
 A 国土回復運動(レコンキスタ)
  1 12世紀、イベリア半島の北半分を確保
   (46       )・(47     )・ポルトガルが強大
  2 (48       )王女イサベルと(49     )王子フェルナンド
   の結婚 → スペイン王国の成立(1479年)
   スペインはナスル朝のイスラム教徒最後の根拠地(50     )占領(
   51     年 - アメリカ新大陸発見の年)
  3 ポルトガル王国 
   @ 12世紀、(52       )から独立
   A 15世紀後半、国王(53       )の活躍
    諸侯をおさえ、国内を統一。インド航路発見を援助  
   
 【ドイツとイタリア】
 A ドイツ(神聖ローマ帝国)の分裂
  1 大諸侯の力が強く、皇帝は(54     )政策に力をそそぐ 
   → 皇帝による国内の統一は成立しない
  2 (55    )時代(1256〜73年)
   シュタウフェン朝断絶後、事実上皇帝が不在(→ハプスブルク家のルドルフ1世の皇帝選出により終結)
  3 (56     )(黄金文書)発布、57    年(大空位時代開始の百年後)
   皇帝(58      )が皇帝選出権を7選定侯に認める
  4 15世紀以降、(59       )家(オーストリア王家)が帝位を世襲
  → 国内は諸侯・自由都市など約300の地方主権(60   )が分立
  
 B ドイツ人の東方植民 
  @ 12世紀以降、有力貴族を中心にエルベ川以東のスラブ人やマジャール人の地域に植民、進出
  A (61         )辺境伯領(12C成立) や(62       )領
    (13C) が成立 → プロイセンの起源
   → 15世紀以降、西ヨーロッパと異なり、領主権と農奴制が強化される  
 
 C スイスの独立
  オーストリアの(63       )家の支配から独立(14C末)
  → 1648年(64         )条約で独立を国際的に承認  
 
 D イタリアの情勢 − 多数の国・諸侯・都市が分立
  1 教皇領、ナポリ王国、ヴェネツィア共和国、フィレンツェ共和国、ミラノ
   公国などが分立
  2 ドイツ・フランスなど外国の干渉
  3 国内の党争 
   (65   )党(ゲルフ)と(66   )党(ギベリン)の党争  
 
 E 北ヨーロッパの情勢
  北欧3国(ノルマン人のデンマーク・ノルウェー・スウェーデン)は、デンマーク女王マルグレーテのもとで、
 (67     )同盟(1397〜1523年)をむす ぶ → 同君連合王国
   → 1523年、スウェーデンが分離・独立するまでつづく  
 
 
   
 ☆ 重要語句
 アナーニ事件 教皇のバビロン捕囚 ボニファティウス8世 教会大分裂 
 コンスタンツの公会議 ウイクリフ フス 生産物地代 貨幣地代 
 黒死病の流行 ワット=タイラーの一揆 ノルマン王朝 プランタジネット王朝
 大憲章 ウイリアム1世 ジョン王 模範議会 身分制議会 三部会 
 ヘンリ3世 シモン=ド=モンフォール エドワード1世 エドワード3世 
 フィリップ2世 ルイ9世 フィリップ4世 百年戦争 ヴァロワ朝
 ジャンヌ=ダルク フランドル地方 ばら戦争 テューダー朝 星室庁
 国土回復運動 ヘンリ7世 スペイン王国 カスティリャ王国 アラゴン王国 
 ポルトガル王国 大空位時代 選帝侯 金印勅書 イサベル女王 フェルナンド
 カール4世 グラナダ ハプスブルク家 スイスの独立 ゲルフ ギベリン 
  
 ☆ 重要年代
 コンスタンツの公会議 ワット=タイラーの一揆 大憲章の発布
 イギリス議会の起源(シモン=ド=モンフォールの議会) 三部会召集
 百年戦争

 


 

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