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2 ギリシア世界
エーゲ文明 戻る
オリエントに 強力な国家が栄えていたころ、エーゲ海を舞台にオリエントとギリシアの中間的な性格をもった青銅器文明がおこった。クレタ文明とミケーネ文明である。これらの文明の存在は、19世紀のおわり、ドイツ人シュリーマン(1822〜1890年)の発掘ではじめてわかった。1870年以来、小アジアのヒスサリックの丘を発掘し、トロイアの城址を発見した。ミケーネ文明の存在を確認して、世界を驚かせた(「古代への情熱」)。彼はホメロスの英雄叙事詩「イリアス」と「オデュッセイア」が架空の作り話ではなく、実際に起こったことと信じて、それを証明しようとしたのである。1870年から小アジアのヒスサリックの丘を発掘しトロイアの城址を発見、ミケーネ文明の存在を確認して、世界に衝撃を与えたのである。
その後、シュリーマンはクレタ島にも着目していたが、その発掘をおこなったのはイギリス人のアーサー=エバンズであった。1900年から、クレタ島のクノッソスで、いわゆる迷宮として有名な「ミノス王の宮殿」を発掘したのである。そして、ミケーネ以前の文明の存在をあきらかにしたのである。
クレタ文明・ミケーネ文明 戻る
クレタ島から発掘された粘土板の文字には、絵文字・線文字A・線文字Bの3種類の文字があった。そのうち、線文字Bは後から来たギリシア人のギリシア語をあらわしていることはわかったが、古いほうの絵文字・線文字Aは解読がされていないので、クレタ人がどのような民族系統に属するかはわかっていない。いっぽう、ミケナイ人のほうは、1953年、イギリスのマイケル=ヴェントリスとジョン=チャドウィックが線文字Bの解読に成功し、それがギリシア語を表していることを明らかにした。こうして、ミケナイ文明をつくりあげたのがギリシア人であることは明らかになった。紀元前3000年ごろ、インド=ヨーロッパ語族が中央アジアの原住地から移動をはじめるが、その一派がBC2000年ごろギリシア方面に南下し、ミケナイ文明をつくりあげたのである。
ポリスの成立 戻る
BC1200年ごろ、ドーリア人と呼ばれる新手のギリシア人が北方から侵入がはじまる。そして、BC700年ごろまでギリシアの事情がよくわからない「暗黒時代」に入る。「暗黒時代」という言い方は、この400年間近い時期のことが史料が乏しくてよくわからないことから、こういわれている。この間、ギリシアはおおきく3つの地域にわかれることとなる。
一つは、ドーリア人の征服したギリシア本土の地域、二つは、ドーリア人の征服をまぬかれたアテネなどの地域、三つは、ドーリア人の攻撃を逃れエーゲ海の島々や小アジアの西部などの地域移り住んだアイオリス人やイオニア人(さらにドーリア人の一部も)の地域である。こうして、暗黒時代のギリシア人の居住地域はおおきく3つにわかれ、さらに、そのなかでももっと小さな単位で、ギリシアの都市国家ポリスが現われてくるのである。なかでもアテネは、ドーリア人の侵入を寄せつけず、逃れてきた人々の避難場所となった。アテネがドーリア人の侵入を防ぐことができたのは、岩山である天然の要塞アクロポリスのおかげである。続々と難民がアテネ周辺のアッチカ地方に流れ込んできた。
ポリスはたんに都市の所在地というだけでなく、周辺の農村一帯も含まれている。城塞の内外に住む人々はそこを中心に取引や製造、祭礼、公共問題の討論や決議をおこなった。
植民活動 戻る
ギリシアの自然条件には、山がちで土地が狭い、つまり耕地の狭さ・食料の不足という問題がつきまとう。ギリシア本土で養える人口は200〜300万人とも言われる。人口が増えるとこの問題はさらに深刻となる。利用できる土地はすべて利用されている状態であるから、食糧難は深刻な問題であった。この問題の解決法としておこなわれたのが、遠い国外へ植民団を組織して定着させるという方法である。これは、ギリシアの食糧・土地不足を解決するとともに、ギリシア人の商工業・貿易活動をも発達させることになった。こうして、平民のなかでも商工業者の成長が見られようになる。BC800年ごろから始まった植民活動は、その後約200年間にわたってさかんに続けられたのである。これらの植民都市として、ニカイア(現ニース)・ヘラクレス=モノイコス(現モナコ)・マッシリア(現マルセイユ)・ネアポリス(現ナポリ)・ビザンティオン(現イスタンブル)などがあげられる。
紀元前600年頃、小アジアのアイオリスにあるイオニア都市フォカイアが、植民市マッサリア(現マルセイユ)を建設した。マッサリァは、前545年ごろペルシアがフォカイァを占領すると、そこから逃れてきた人々を受け入れ、これら移住者の力によって強化されていく。マッサリアは現在のスペイン、フランス、北イタリアの地中海沿岸に多くの植民市を建設する。モノイコス〔現モナコ)などである。マッサリアによる銀、鉄、錫取引は、西はスペイン内陸部まで、北はローヌ川上流のガリアとライン流域まで、東はイタリア、イオニア、ギリシア本土、エーゲ海諸島にまで達している。その国制についてはアリストテレスが「政治学」でふれており、600人の終身会員からなる会議があり、大きな権限をもつ15人の委員会が実務を担当したとある。
王政から民主政へ 戻る
ポリスの多くははじめ、王政または、少数の貴族が多数の平民を支配する貴族政の形をとっていた。そして、王は権力の座を追われ貴族が統治するようになる。貴族は暗黒時代に土地を手に入れて財産を築いてきた戦士たちの一族である。はじめ、貴族に属したのは地主だけだったが、やがて富裕な商人や製造業者も加わった。
平民のなかで商工業者の成長が見られると、中流以上の商工業者は重装歩兵として戦いに参加するようになる。また、兵器の供給も多くなりその値段も下がると、農民と商工業者など多くの平民で構成される重装歩兵の密集隊が、従来の貴族の騎兵に代わり、次第にポリスの軍事力の中心となってくるのである。ここに、力をたくわえて発言力を増した平民と従来のポリスの政治を独占した貴族の争いが発生し、貴族政から民主政への約1世紀わたる過渡期に入るのである。平民が参政権を要求して貴族に抵抗しときには勝利するときもあるが、それが長続きするものでもなかったので、内紛は絶え間なく続いた。
立法者の活動
やがて、平民の要求が入れられて前7世紀ごろ成文法が実現した。紀元前621年ドラコンという人物がアテネで公布した成文法は厳しいことで有名であった。たとえば、キャベツを盗んでも死刑が適用されるというようなものであった。しかし、正当防衛による殺人という考え方が取り入れられていたり、計画的な殺人と過失致死との間にも一線がひかれるなどしていた。成文法の制定によって法が平民にも公開されることになり、それまでのように貴族の勝手な解釈による裁判はできなくなる。それに応じて、平民の地位も向上した。しかし、成文法が今までの慣習法の内容と変わらないので、貴族の政治独占に大きな脅威を与えるものではなかった。
調停者
前6世紀のはじめには、平民と貴族の抗争は頂点に達し、アテネは崩壊の危機に瀕していた。財産政治。市民の土地財産の大きさによって、各自の参政権の枠を決定するものと負債の帳消し。貴族体制が大きく変わるものではなかったが、貴族であることを政治参加の不可欠の条件とすることを否定したのである。中流以上の平民は、政治参加の可能性を得たのである。平民の地位を実質的に向上させたことは、立法者よりももっと積極的な意味をもった。
僭主政
貴族と平民の争いで混乱していたとき、突然、有能な人物によって政権がのっとられ、貴族政が廃止されて一人支配が樹立されるという事態が起きた。これが僭主とよばれる人である。紀元前561年から527年にかけてアテネに有能な僭主ペイシストラトスがあわれた。彼は貴族出身であったが、土地法を寛大にすることを約束して人気を獲得し、これを実現して下層農民の経済的地位向上に努力した。亡命したり、死んだりした貴族の土地を没収して、その一部を下層農民に分配した。また、街を美化するため建築・土木事業を活発におこない、中小商工業者に仕事を与えた。詩や芸術や演劇活動を振興し、学者たちに依頼して委員会をつくり、「イリアス」と「オデュッセイア」の決定版をつくらせたりしている。ペイシストラトスのねらいは、これらの農民や商工業者に経済的満足を与えて、自分の支持をささえるるためであった。
しかし、僭主はあくまで独裁政であり、政治参加の要求を持つ中流以上の平民を満足させることは不可能であった。しかし、僭主は貴族に打撃を与え、下層平民の経済的地位を向上させることに貢献した。ペイシストラトスの死後、その地位は二人の息子ヒッピアスとヒッパルコスによって継がれたが、二人には才能と手腕が不足していた。紀元前514年にヒッパリコスが殺され、紀元前510年兄ヒッピアスが追放された。
民主政
前507年、貴族出身のすぐれた改革家クレイステネスは、アテネの法律を改正した。新法では、成人した全市民は自動的に民会の一員となり、国政について発言することを認められた。市民は法のまえには皆平等であるとしたのである。そして、市民は多数の区(デモス)と呼ばれる自治体をつくり、人々を各区に所属させて登録させた。これは、血縁的な貴族の地盤を崩すことを意図していた。そして、家柄による貴賎の差をなくそうとした。また、僭主政を倒したクレイステネスは、僭主が再びでるのを恐れ、オストラシズムをつくった。陶器のかけらに僭主になる危険のある人物の名を書いて投票し、その数が6000票になると、10年間国外に追放するという制度である。このような情勢を憂慮したスパルタは、紀元前506年にアテネのあるアッティカ地方に侵入したが、アテネの人々によって撃退されてしまった。こうしてアテネは、全ギリシアのなかでももっとも活気にあふれ影響力を持つ強国への道を歩みだした。
スパルタ 戻る
紀元前7世紀から6世紀にかけて、多くのポリスはこのような過渡的な時代をへていた。そして、このような過渡的な状態から脱して民主政を実現していったポリスと、あくまでも貴族政を維持していったポリスがあった。この二つのポリスがアテネとスパルタであった。
スパルタは、紀元前7世紀にリュディア人がギリシアに貨幣制度をもたらし経済の仕組みが変わったときも、それにしたがわず今までの取り扱いの面倒な鉄の棒を使って交換をおこなった。また、一定の限度をこえる商業を認めず、へロットと呼ばれる農業奴隷に耕作させる農業社会を維持した。
このように、スパルタが昔からのやり方に固執したのは、スパルタ市民の数に比べ奴隷や従属民の人口のほうがはるかに多かったからである。スパルタはドーリア人のポリスで、先住民を征服して国をつくった。征服され奴隷にされた先住民の数は、スパルタ市民の20倍もあったといわれる。そこで、いつ反乱がおこるかわからない状態であったので、スパルタの男子はすべて兵士になり、幼児から厳格な軍事訓練がおこなわれ昔からの厳しい軍隊的規律を維持することによって自分たちの国政を維持したのである。
こうしてスパルタは、その強力な軍事力をもってペロポネソス半島の諸都市に勢力を広げていったのである。 立派に育ちそうにない生まれたばかりの子供を山に捨てたり、兄弟が妻を共有して一世帯で暮らすこともおこなわれたらしい。
子供のときから親元を離れ合宿生活を送り、20歳で市民になっても30歳までは兵営世活を続けた。30歳になって家庭をもっても、夕食は毎日テントのもとで共同の食事をし、王も市民もおなじ質素な献立であったという。 スパルタ人はラケダイモンというポリスのなかの少数の市民であった。その下には、多数の自由人だが参政権のないペリオイコイ ─ 身分的には自由で土地を所有できたが、参政権はなく、従軍や納税の義務を負った人々で、山岳地帯や海岸に住んだ(周囲の民) ─ や、さらに下にはへロットとよばれた農奴的な農民があった ─ スパルタ人の生活はヘロットの生産物をとりあげることで成り立っていた。スパルタ人は少数グループの貴族といえるが、完全市民の彼らのでは名門や平民といった区別はなかった。そして、形式的には昔からの二王家による王政を堅持していた。 (広大な地域に散在する大地主中心の農村社会で構成されていたテッサリアも、前5世紀まで王の世襲がつづいた。)
ペルシア戦争 戻る
ペルシアはオリエントを統一した世界帝国。その領土の西の端にイオニアのギリシア人植民市があった。ペルシアは新しい征服地に自治権を与えなかった。各地にサトラップとよばれるペルシア人の地方長官を置き、その下に僭主をおいた。イオニア人には納税と兵役の義務を課した。紀元前500年、そのイオニアがペルシアに反抗したことがもとでペルシア戦争がおきるのである。 紀元前499年、イオニアの反乱がおき、アテネとエレトリアが援軍を送った。
紀元前492年、ダリウス1世はギリシア攻撃の火ぶたをきった。マケドニアからアトス岬を回航するとき船団が難破し、やむを得ず帰国した。しかし、ダリウス1世は、降伏を勧告する使者をギリシアへおくった。アテネとスパルタは拒否。
紀元前490年、ダリウス1世は再び兵を起こす。大船団は、まずマラトン湾ノ入りアテネへ進攻するため陸軍部隊を上陸させた。先導をしたのはかつてアテネを追われたヒッピアスであった。アテネの将軍ミルティアデスはペルシアの攻撃を待たずマラトン平野に迎え撃った。重装歩兵の密集隊形による突撃が功を奏し、アテネ192人、ペルシア6400の死傷者という(ヘロドトス)大勝利であった。
マラソンの起源として有名なのが、この「マラトンの戦い」である。ペルシャ軍が、アテネの北東約四十キロにあるマラトンに上陸した。ただちに出動したアテネ軍と対侍するかたちとなった。そのころ、アテネ市内には、強大なペルシャ帝国と同盟を結ぶほうが有利と考え、ペルシャ軍に内応する者が出るおそれがあった。
アテネは、将軍ミルティアデスの建議に従い、ペルシア軍との交戦を始めた。激戦のすえアテネ軍は勝利する。この勝利の報をもたらすため伝令となったエウクレス(フェイディビデスともいう)はひたすら走りつづけ、群衆に「われら勝てり」と告げて絶命した。彼が急いだのには理由がある。アテネではこのとき、抗戦派と降伏派とが争い、一触即発の大変な危機にあった。命をかけて伝えた「われら勝てり」の勝利の一報がなければ、収拾のつかない大混乱も予想されたのである(『世界大百科事典27』平凡社、参照)。その意味で、彼の情報には万鈎の価値があった。
いかに迅速・正確な情報が大切か。その教訓を与えてくれるエピソードである。この故事に基づいて、アテネで開かれた第一回近代オリンピック(一八九六年)では、マラトンの古戦場からアテネ市までの約四十キロの競走を行った。これが現在のマラソンの由来である。
ペルシアの陸軍は騎兵と弓手からなり、ギリシアの重装歩兵とは根本的に違っていた。重装歩兵の密集戦法は敵の降り注ぐ矢に耐え、集団を崩さずに突撃するという戦法で、突撃の好機をとらえ全軍を統率する名将を必要とする。マラトンの戦いでのミルティアデスやアテネの北のプラタイアの陸戦でのスパルタのパウサニアスなどがそれである。 それから10年間、ギリシアには短い平和が訪れる。
紀元前485年、クセルクセスがダリウスのあとをつぐ。クセルクセスの作戦は父ダリウスをしのいで周到なものであった。第一回の遠征で船団が難破したアトス岬に運河を開き、長さ2kmのヘレスポントス海峡に小船をつなぎ二本の船橋をかけた。 前481年冬、クセルクセスが長年の準備ののち来年にはいよいよ攻めてくるとわかったとき、コリント地峡にあつまってギリシア防衛の誓約をしたポリスは、スパルタ・アテネ・コリント以下31にすぎなかった。
ペルシア軍がギリシア軍と遭遇するのがテルモピュレーの戦いであった。テルモピュレーは山と海にはさまれた幅15mの隘路であった。スパルタ王レオニダスはギリシア連合軍をひきいて北上し、この隘路を守った。いよいよ戦闘開始、天然の要害とギリシア軍の奮闘でなかなか勝敗が決しない。しかし、内通者がいてギリシア軍は腹背から敵の攻撃をうけることになった。そこで、レオニダスは主力を後退させて、300人のスパルタ軍だけでここを死守しようとした。「剣あるものは剣で、剣の折れたものは素手でと歯で最後まで戦った。」(ヘロドトス)そして、敵の大軍をうけて、王レオニダス以下死闘の末に全滅した。 こうして、テルモピュレーをやぶったペルシア軍はギリシアに侵入し、アテネも占領、破壊された。
サラミスの海戦の勝利 戻る
アテネの名将テミストクレスは、ペルシア艦隊を南のサラミス水道におびき出し、決戦を挑んだ。ペルシア艦隊の軍船は数が多く巨大でギリシアの軍船を圧倒していたが、サラミスの狭い水域ではかえって動きがとれず、ギリシア艦隊に完敗した。サラミスで敗戦を見届けたクセルクセスは残存部隊を率いて帰国してしまった。この海戦でギリシアの軍船にのって、その主力となったのは多数の下層市民であった。海戦の勝利は、この下層市民の政治的発言力を強めることになった。
テミストクレス、陶片追放 戻る
サラミス海戦の功労者テミストクレスは紀元前474年頃、陶片投票によって、国外追放となった。有力な家の後ろ盾をもたず、個人の力で頭角を現したテミストクレスは、スパルタをめぐる政策で、親スパルタ主義をとるキモンらと対立があった
追放後、彼はアルゴスに住んでペロポネソスの各地で反スパルタ運動を展開するが、スパルタはアテネに訴え、アテネも彼を捕らえようとする。そこで彼は北西ギリシアのモロッソスに逃れ、その王の好意で小アジア(アナトリア)のイオニアに逃れ、さらに仇敵のペルシアを頼る。ペルシアの王のもとで才知を発揮して厚遇され、最後はマグネシアの領主となって病没したとされる。以上を伝えるツキディデスの記述は有名である。
アテネの民主政治は、ソロンの改革・ペイシストラトスの僭主政治・クレイステネスの改革をへて発展してきたが、ペルシア戦争のあと、民主政治が確立することになる。アテネの下層市民にまで民主政治を及ぼしたのがペリクレスであった。
ペリクレス 戻る
ギリシアの歴史家ツキディデスはペリクレスの演説を次のようにつたえる。
「アテネ市がその市民によって愛されるのはなぜか。それはこの都市が『すべての人を法の前に平等たらしめようと望んでいる』からである。それは『この都市がすべての人に自由を与え、すべての人に名誉の道を開くからである。それはこの都市が、公共の幸福を秩序とし、市民の信頼の上に政府の権威の基礎をおき、弱きものを守り、すべての人が芸術や演劇や祭典によって心の糧を得ることができるようにするからである。そして、『このゆえにこそ、勇士は祖国を守って英雄として死んだのであり、生き残っているものは喜んで犠牲をしのび、この都市に身をささげようとしているのである』と。
ペリクレスには、次のようなエピソードがある。ある日、ペリクレスは、公会堂で火急な事務の処理に没頭していた。そのとき、一人のならず者から一日中、悪口をいいたてられた。しかし、彼は“私には成すべき仕事がある”と、見向きもしないで、黙々と仕事を続けた。そして、仕事を終え、夕方には家路についたが、その男は依然としてペリクレスにつきまとい、道々悪口雑言を浴びせかけた。だが、ペリクレスは、相手にもせずに、悠然と歩いていく。彼がわが家に着いたとき、日も暮れ暗くなっていた。そこで、使いの者に灯りをもたせ、その男が無事帰宅できるよう送らせたという(『プルターク英雄伝』鶴見祐輔訳、潮文庫を参照)。
つまりペリクレスには、人の悪口しか言えないような卑しい人間など、はじめから眼中になかった。ゆえにいちいち反論も、言いわけもしない。ただあわれに思うだけのことであった。しかし、ペリクレスは、いざという時には、獅子のごとき雄弁家として、民衆に自分の信条を堂々と、また誠実に訴え、そして行動した。
ペロポンネソス戦争 戻る
ペルシアは依然としてギリシアにとっては脅威であったため、各ポリスは同盟を結んで対抗しようとした。そして、アテネの提唱によって紀元前477年、アテネを盟主としてペルシアの来寇に備える都市同意が結ばれる。これがデロス同盟である。加盟したポリスは200を数えた。加盟したポリスには軍船や資金を提供する義務があり、その資金がデロス島のアポロン神殿に保管され、この島で会議が開かれたので、この名がある。のち、ここの金庫がアテネに移され、アテネの文化保護のために流用されて、アテネの貢納のような性格を持つようになったため不満が高まったが、アテネはこれを武力で抑えた。このような露骨なアテネのやり方に不満を高めていたのがスパルタであった。
スパルタの同盟都市コリントがアテネと利害が対立したことから、コリントの要請でスパルタが動き、ここにアテネとスパルタが戦うペロポンネソス戦争がはじまった。
勝利はスパルタに帰したが、権威的なスパルタのやり方では、民主政治に慣れしたしんだ人々を統治することはできなかった。支配地でのやり方は、冷酷非情で無能きわまるものであった。また、スパルタの指揮官は戦争は得意であったが、占領地の指揮官という地位や役得による利益に目がくらみ堕落するものが多かった。 そして、紀元前371年、レウクトラの戦いで、エパミノンダス指揮のテーベ軍に敗れ、スパルタの覇権は終わった。
ペロポンネソス戦争によって疲弊したギリシアのポリスは、北方のマケドニアによって征服され、コリント同盟(紀元前338年)によりマケドニアの支配をうけることになった。そして、同盟会議はペルシアに対して報復する戦争を決議した。フィリッポス2世のあとをついだアレクサンドロスは、紀元前334年春ダーダネルス海峡をわたり、ペルシア遠征を開始した。
ソクラテス
紀元前三九九年、ソクラテスは告訴される。その罪状の大要は、国家の認める神々を認めず、青年に害毒を与えているというものであった。訴えたのは、メレトスという無名の男であったが、その黒幕は、政治家のアニュトスという人物であったといわれている。
また、ソクラテスが訴えられた背景として、ソフィスト(詭弁家)たちの存在も見逃せない。ソフィストとは、当時流行の、論争を事とする似非学者である。彼らは賢者であるかのように振る舞い、どんなことでも論争のネタにし、自分が優位に立つための弁論術を若者に教え、金を取っていたのである。ソフィストにとっては、何が真実であるかも、そして、何が人間の人生や幸福にとって大事かも関係なかった。ともかく、博学を装い、白も黒と言いくるめて、相手を打ち負かし、自分の主張が正しいと信じ込ませることが狙いとなっていた。彼らは、多くの若者たちの人気を集める一方で、伝統を重んじる市民たちからは危険視されていた。
ソクラテスは、ソフィストたちが、人生の本質については、実は全く無知であることを見破っていた。彼はいつも瓢々としていた。小柄だが、たくましい体躯で、獅子鼻をした、服装には無頓着な彼がアゴラに姿を現すと、真理を探究しようとする青年たちは、彼を慕い、教えを求めた。また、ソフィストも彼を打ち負かそうと、議論をふっかけてきたが、ソクラテスの“真理の言葉”“正義の言論”に、詭弁が太刀打ちできるわけがなかった。詐術を暴かれたソフィストたちは、ソクラテスを妬み、憎んだにちがいない。ところが、そのソクラテスは、あまりにも抜きんでた言論の力ゆえか、青年への感化力のゆえか、一般市民からは、かえって“ソフィストの代表”のように誤解されていたのである。このように、ソクラテスの真実の姿が歪められたなかで、彼を排斥する世論がつくられていった。そして、民主主義のアテネにあって、一見、民主的な手続きのもとに、彼は死刑を宣告されることになるのである。ここに“アテネの民主主義がソクラテスを殺した”といわれるゆえんがある。
アテネの民主主義 ― 。それは、ギリシャの七賢人の一人といわれ、詩人として知られるソロンや、部族制度の改革を行った政治家クレイステネスによって、紀元前六世紀に基礎がつくられている。やがて、前五世紀の半ば、民主派の指導者ペリクレスの時代に黄金期を迎えた。ペリクレスは、それまで貴族の権威の牙城であった、古代アテネの評議会の一つであるアレオパゴス会議の権限を奪い、弱体化させた。そして、「少数者の独占を排し多数者の公平を守る」(トゥーキュデイデース著『戦史』久保正彰訳、岩波文庫)という理念から、先人の改革を踏まえ、市民権をもつ男子なら、ほとんどすべての官職に就けるようにするなど、民主化を徹底させた。しかし、強力な指導力を発揮していたペリクレスが前四二九年に死去すると、たちまち、民主政治の腐敗が始まっていった。
政治家として、取り立てて優れた能力をもたない彼の後継者たちは、「民衆の幸福」や「正義の実現」という理想を忘れ、自分の野心のために民衆を利用していくようになる。アテネの政治家たちは、民衆に取り入り、人気を得ることに汲々としていた。そのなかで、「デマ」の語源ともなったデマゴゴス(民衆扇動家)が台頭していくのである。
大衆の喜びそうなスキャンダル(醜聞)を捏造し、流すことによって、秀でた人物、崇高なる者、正義の人、真実の人を汚辱にまみれさせ、“悪人”の烙印を押して葬り去る ― それが彼らの常套手段であった。真実はどうあれ、追い落とそうとする人物の悪しき強烈なイメージを、民衆に植えつけることができればよいのである。人の足を引っ張ったり、蹴落としたりすることが、彼らの狙いであった。
こうした扇動家がはびこっていったのは、既にアテネが“嫉妬社会”の様相を深めていたからにほかならない。その象徴的な事例として「陶片追放」(オストラキスモス)がある。
これは、本来、僭主(不法な独裁者)の出現を防ぐ目的で設けられたもので、市民の秘密投票により、「僭主の野心あり」と見なされれば、危険人物として十年間、追放するという制度である。 “陶器の破片”に名前を書いて投票したことから、「陶片追放」といわれた。
しかし、この民主政治を守るはずの制度も、いつか本末転倒し、優れた力ある人物を陥れるために悪用されていったのである。
たとえば、正義感にあふれる行動によって、人びとから「正義の人」と賞讃されたアリステイデスという人物は、まさにその名声のゆえに妬まれ、陶片追放にあっている。プルタークは、『英雄伝』に、こんな逸話を記している。
― 文字を知らない男が、アリステイデス本人に陶片を渡して言った。
「これに名前を書いてくれないか」
「誰の名前かね」
「アリステイデス」
「なんだって?彼は、あなたに何か悪い事をしたのかい」
「いや、第一、私は、あの人を知らないんだ。だけど、どこへ行っても、『正義の人』『正義の人』と聞くので、いやになってしまうんだよ」
悲劇作家のエウリピデスは「嫉妬心は、目立つものを目がけてとびかかるのが常だ」(ギリシア悲劇全集12〈エウリーピデース断片〉)久保田忠利他訳、岩波書唐)と言ったが、まさに、その通りの、嫉妬による排斥であった。
紀元前四〇四年、アテネは、都市国家の一方の雄スパルタと、二十七年にわたってギリシャの覇権を争ったペロポネソス戦争で敗北し、無条件降伏した。アテネの市民が低次元の“足の引っ張り合い”に明け暮れていたことが、その本当の敗因であるといわれている。“嫉妬社会”は、結局、衰退の坂を転げ落ちていったのである。この戦時中と戦争直後の二度、アテネの民主制は倒壊する。
戦後は「三十人僭主」と呼ばれるグループが“恐怖政治”を敷いたが、これも短期間に瓦解し、民主派は政権を取り戻す。しかし、その基盤はいまだ不安定であったことから、彼らは反対勢力を一掃しようとした。
「三十人僭主」のなかには、ソクラテスの弟子と目されていた人物が入っていたことなどから、民主派の指導者の一人であったアニュトスは、ソクラテスもアテネの民主主義を破壊する危険な存在と見ていた。しかし、ソクラテスは、「三十人僭主」の暴政に反対し、その命令に従わなかったために、命を狙われたことさえあったのである。だが、そんな事実は無視された。アニュトスは、智者の誉れ高いソクラテスを処刑すれば、見せしめとして、反対派を追い払う絶大な効果があると考えたようだ。そして、遂に、ソクラテスは、国家の認める神を敬わず、青年を腐敗させたとして、無実の罪で告訴されるのである。アテネの「良心」が、偉大なる「精神の柱」が倒れようとしていたのだ。しかし、市民の多くは、むしろ、それを喜んでいた。ソクラテスは、彼がまさに正真正銘の「正義の人」であったがゆえに、嫉妬され、デマが流され続けた。そのために、いつしか、市民の間に、社会に害をなす人物であるかのようなイメーシが定着してしまっていたからである。
たとえば、当時の有名な作家アリストファネスは、ソクラテスが告訴される二十四年前に、彼を主人公にした喜劇「雲」を発表し、もの笑いのタネにした。
そこに描かれたソクラテスは、「われわれのところでは、神さまなんてものは通用しないのだ」(「雲」田中美知太郎訳、『世界古典文学全集12アリストパネス』所収、筑摩書房)とうそぶく邪教徒であり、若者をたぶらかすソフィストの親分に仕立て上げられていた。もとより、彼の実像とは正反対の、似ても似つかぬ捏造された人物像であったが、大衆は、それを信じてしまった。
ソクラテスは、こうした悪のイメージに塗り固められたなかで、一人、真実の叫びをあげたのである。ソクラテスの裁判の模様は、全貌をつぶさに見ていた弟子のプラトンが、「ソクラテスの弁明」に詳しく書いている。ソクラテスは、法廷に立ち、五百人(五百一人説もある)の陪審員と聴衆を前に、堂々と所信を述べていった。彼には、許しを請うような卑屈な態度は微塵もなかった。裁く側が反対に裁かれているような、激烈な「弁明」であった。
― 人は自分自身について、魂について、何を知っているというのか。その無知を知り、謙虚に真理を求める人が賢者である。それなのに、人びとは、賢ならずして賢者を気取り、無知に気づいてもいない。彼は叫ぶ。「偉大な国都の人でありながら、ただ金銭をできるだけ多く自分のものにしたいというようなことにばかり気をつかっていて、恥ずかしくはないのか。評判や地位のことは気にしても思慮や真実のことは気にかけず、魂をできるだけすぐれたものにするということに気もつかわず心配もしていないとは」(「ソクラテスの弁明」『世界の名著6プラトンー』所収、田中美知太郎訳、中央公論社)
さらに、ソクラテスは、もしもアテネの人びとが自分を殺すなら、それは殺された自分の損害であるより、むしろ、彼ら自身の大きな損害になるだろうと断言したのである。不屈なる信念の弁論であった。それは、心ある陪審員たちの胸を激しく揺さぶった。しかし、それでも彼が有罪か無罪かを決める陪審員の投票の結果では、およそ二百八十票対二百二十票で有罪となったといわれる。あと三十人余りが無罪の票を投じていれば、判決はひつくり返っていたのだ。
続いて刑罰を決める番である。当時の慣習では、訴えられた人も自分で適当と思える刑罰を申し出ることができた。ここで彼が有罪を認め、反省の態度をもって死刑以外の刑を求めれば、当然、命は助かったであろう。ところが、彼は「自分にふさわしきものは、『迎賓館』での食事である」と主張したのだ。
“最高の国賓的扱いで自分を遇せよ”というのである。そこには、正義によって立つ、アテネの「精神の柱」「魂の王者」としての自負があった。しかし、その毅然たる姿は、陪審員への傲慢な挑戦とも受け取られたのであろう。刑を決める二度目の投票では、圧倒的多数で「死刑」が確定してしまった。ソクラテスは、不正に屈して魂を堕落させるより、死を選んだのだ。彼は自分の命をかけて、人びとに崇高な“人間の道”を教えようとしていたにちがいない。獄中にあっても、ソクラテスは堂々としていた。死の二日前、友人のクリトンは獄中のソクラテスのもとを訪ね、死刑の執行が近いことを伝え、彼に脱獄を勧めた。ところが、ソクラテスは「不正に報いるに不正をもってすべきではない」と、脱獄を拒否し、従容として死を受け入れている。
不正を受ける者と、不正を働く者と、どちらが幸福か。「善き人には、生きているときも、死んでからも、悪しきことは一つもない」(田中美知太郎訳、中央公論社、前掲書)との信念に生きる彼には、恐れるものなど、何もなかった。
しかも、死刑の当日、ソクラテスの最後の対話は、「魂の不死」をめぐる語らいであった。そこで、彼は、哲学とは「死の練習」であると語り、思慮や正義、勇気、自由、真実によって自らの魂を仕上げていきなさい、と友人に勧めたのである。
ソクラテスが、刑吏から毒杯を受け取って飲み干すと、付き添っていた友人たちは、いたたまれなくなって号泣し始めた。「おいおい、君たち、こんなことのないように妻たちを帰したのに。“死は静説のうちにこそ”というじゃないか。どうか、静かにしてくれたまえ」
ソクラテスは、こう言って友人をなだめ、やがて、死の床に横たわった。荘厳な最期であった。 (「新人間革命」第6巻より)
プラトン
ソクラテスの裁判は、プラトンが二十八歳の時であった。彼は二十歳から、足かけ九年にわたってソクラテスに仕え、師とともに青春を歩んできた。そのソクラテスに対する、理不尽な裁判を見ていたプラトンは激怒する。ある記録によれば、彼は法廷で発言を求めるが、裁判官に制止されたという。敬愛する師が殺されたプラトンの衝撃は限りなく大きく、心労はあまりにも激しかった。そのため、病に倒れもした。しかし、彼は憤怒の涙を拭って立ち上がった。絶対に師の正義を証明しなければならない。師が願ったように、正義に適った国家にしなければならない ― それが、彼の生涯をかけた決心であった。
プラトンは、八十歳で死ぬまでの約五十年間、師のソクラテスの真実を明らかにするために、『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』をはじめ、膨大な著作を書き残していった。それは、哲学と言論の大闘争であった。また、学園アカデメイアを創立して、教育、人材の育成にも励んだ。プラトンが生涯を捧げたテーマ ― それは、どうすれば、この世に「正義」を実現できるのかという根本的な問題であった。その探求の結論が、「哲人政治」の理想であった。
プラトンは、大著『国家』のなかで、いわゆる“哲人王の統治”こそが、国家と人類に幸福をもたらす「最小限の変革」であると主張したのである。
彼は、政治制度の在り方を分類して、第一を哲人王による王制とし、以下、名誉制、寡頭制、民主制、僭主制の五つを挙げている。民主制は、四番目の低い評価である。
民主制は人類の偉大なる知恵であり、発明である。しかし、それも、民主制を担い立つ人間自身のエゴイズムを制御し、自律する術を知らなければ、本来の民主とは全く異質な“衆愚”に陥りかねないことへの鋭い批判の矢を、プラトンは放ったのである。
彼は言う。 ― 民主制の国では、自由を最高の善とし、誇らしげに、こう主張する。「自由こそその国のもつ最も美しいものであり、それゆえに、本性において自由である人間が住むに値するのはこの国だけである」(「国家」『世界古典文学全集15プラトンK』所収、田中美知太郎・藤沢令夫他訳、筑摩書房)と。
ところが、その民主制は、自由のあくなき追求のあまり、欲望の大群を生み出し、いつしか「青年の魂の城砦」は、この欲望に占領れてしまう。やがて青年たちは、自由の意味をはき違え、「慎しみをお人好しと名づけ」「思慮を女々しさと呼んで」「ほどのよさやしまりのある金の使い方を、やぼったいとか自由人らしくないとか理由をつけて」軽蔑し、それらの美徳を追放してしまう。また、反対に、「傲慢を育ちの良さと呼び、無秩序を自由と呼び、浪費を気まえの良さと呼び、無恥を男らしさと呼び」、多くの悪徳が人びとに賞讃され、はびこるようになっていくというのである。
こうした野放図な自由による混乱は、やがて手のつけられないものになり、事態収拾のために、民衆は強い指導者を待望するようになる。そして、その強い指導者は、抵抗しがたい権力の魔性によって、最も悪い「僭主」へと変化していくというのである。プラトンは指摘する。「過度の自由は、私人においても、国家においても、ただ過度の隷属へと変化する以外にはない」(田中美知太郎・藤沢令夫他訳、前掲書)
つまり、民主制のもとで、際限のない自由を手にすることによって、かえって、人間の魂は腐敗、堕落していく。そして、人びとが最も美しいと思う、この民主制のなかから、独裁者(僭主)の支配が生まれ、自由なき隷属が始まるというのである。
そこには、“自由の背理”が、また“自由の病理”が浮き彫りにされているとはいえないだろうか。プラトンは、アテネの民主主義の功罪を底の底まで見つめていた。人間の魂が正しく健康でなければ、いかなる制度も正しく機能しない。水は低きにる。人間もまた、内なる鍛錬、人格の陶冶がなければ、欲望の重力の赴くままに堕落を免れないのである。
ゆえに、プラトンは、引き続いて「魂の健康」「魂における調和」を考察し、“自己の内なる国制”に目を向けるように促す。“外なる国制”を正義に適った最良のものにしていこうとするならば、必然的に“内なる国制”の整備を必要とするのである。つまり、「魂の健康」を育む哲学こそが、民主制を支える柱なのである。プラトンは「哲学者たちが国々において王となって統治するか、あるいは現在王と呼ばれ権力者と呼ばれている人々が、真実にかつ充分に哲学するのでないかぎり」、「国々にとって不幸のやむときはないし、また人類にとっても同様だ」(田中美知太郎・藤沢令夫他訳、前掲書)と述べている。
オリンピア競技 戻る
紀元前776年、一時中断されていたオリンピアでの競技会が、この年、エリスのイフィトス王によって、再開された。紀元後の旅行家パウサニアスによると、オリンピアで競技が催されたのはそれよりもはるか昔のことだという。彼は競技種目の歴史も伝えている。最初のうちは徒競走だけだったものが、やがて長距離レース、5種競技(徒競走、走り幅跳びr槍投げ、円盤投げ、レスリング)、レスリング、ボクシング、パンクラティオン(かむことと眼などに手を入れること以外なんでも許される格闘技)、戦車競走、騎馬競走が認められ、さらに少年の部も設けられる。競技参加者は、はじめエリス周辺のポリスに限られていたが、やがてスパルタが加わり、前6世紀になると各植民市が積極的に参加するようになる。この時期になると、真の意味で全ギリシア人の民族的祭典となり、ギリシア人の民族意識を高揚させるまたとない機会となる。
しかし、オリンピア競技開催にあたって最大の問題は、オリンピアに向かう人々の交通の安全をどう確保するかにあった。エリスは「オリンピックの休戦」と訳されるエケケイリアを公示したとされる。それがどの程度守られたかは不明だが、ペロポネソス戦争中も中止されることなくオリンピアの競技が開催されたことは確かである。前776年から4年ごとのオリンピア競技会の記録が連続的に残されていることから、この年がオリンピックの起源とされる。
ヘシオドス 戻る
紀元前700年頃、叙事詩人ヘシオドスが「神統記」ど仕事と日々」の2作品を著した。前8世紀なかばから前7世紀前半の人と推測され、ホメロスと並び称される存在である詩人ヘシオドスは、詩のなかで自分のことについて触れている。それによれば、彼は専門の職業的詩人ではなく、中部ギリシアのボイオティアの寒村アスクラで農業を生業としていた。30歳くらいのとき、詩の女神ムーサ(ミューズ)が自分に語りかけるという体験をし、それ以来真実をうたう詩人として目覚めることとなった、という。「神統記」は天地の創造、神々の誕生を系統的にうたって、艘昧になっていたらしい神についての知識を確立しようとしたものであり、「仕事と日々」は弟ペルセスに教え諭すかたちで、農夫として日々どう生きるべきかを説いている。
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