3 ヘレニズム世界
アレクサンドロスの東方遠征
帝国の分裂
フィリッポス2世暗殺、アレクサンドロスが後継 戻る
紀元前336年、フィリッポス2世は、娘クレオパトラの結婚式の祝宴中に、若い貴族パウサニアスに殺された。パウサニアスは、将軍アッタロスに受けた辱めを王に訴えたものの顧みられなかったことを恨んだといわれる。アレクサンドロスが20歳で後を継ぐ。アレクサンドロスは、ギリシア各地の不穏な動きをただちに抑え、コリントス同盟会議を招集して父の遺志を継ぎ、東征を行って世界帝国を建設することになる。
アレクサンドロス大王の大志は、全世界を一つの連邦にすること。血気盛ん、即断即決、大きな危険を冒すこともしばしば。それを切り抜けさせるすさまじい気迫。
アレクサンドロスの愛読書は「イリアス」、みずからアキレスの再来をもって任じた。体格、力量、勇気、不撓不屈、強固な意志、まさしく英雄的な人物であった。少年時代、アレクサンドロスはアリストテレスに師事した。アレクサンドロスは、エジプトで「人類はひとつである」という啓示を得たといわれる。ギリシャ市民(ヘレネス)以外を、野蛮人(バルバロイ)と見なして差別していた当時においては、抜きん出た発想であった。
以来、アレクサンドロスは「人類を統一する」という、「見果てぬ夢」に生きた。その夢が、彼をインドの果てまで連れていった。
彼は「大地果つる地まで行くつもりだった」と言われる。「地上のすべての民族が皆、同じ一つの民族であることを理解させたい」。この夢に向かって、東西を融合させ、民族間の差別の意識をなくそうとしている。
紀元前325年、インドからの帰路、大王の一行は砂漠(マクラン砂漢、現パキスタン)に迷いこんでしまった。皆、水を求めて苦しんだ。死の行軍です。一兵士が、貴重な水を碗に入れて、大王に捧げた。感謝して受け取った王は、しかし、水がすべての兵士には行き渡らないと見るや、熱砂の上に水を残らず捨ててしまった。「私ひとりが、これを飲んだならば、ほかの者たちは、どんなに、がっかりするだろうか」と彼は言った。この一言に、兵士たちは立ち上がり、「いざ前進を!」と叫び、「この王あるかぎり、疲れも渇きも、ものの数ではない」。彼らは勇気凛々となって、快活に進み始めた。
アレクサンドロスは、部下を大切にした。女性も大切にした。遠征の間には、絶壁もあった。身を焦がす炎暑もあった。 インドへと、ヒンドウークシ山脈を越えたときは、3500メートルを超す雪山に、暖かい地中海育ちの兵士たちは苦しみ抜いた。「ヒンドウークシ」とは「インド人殺し」という意味。かつて、西方へ連れていかれるインド人たちが、疲労のあまり、次々に倒れたところから名づけられたという、大変な難所であった。
兵士たちは、飢え、凍え、疲れていた。雪で目をやられている者もいる。「王(アレクサンドロス)は、行軍の列を見まわり、疲れて倒れている兵士を見ると、元気づけて起こし、やっとついてくる兵士には、自分の体で支えてやって励ました。あるときは先頭に立ち、あるときは列の中ほどにつき、またあるときは列の一番うしろに、というように、彼はさまざまな苦労をしながら、いたるところに駆けつけるのだった」(クイントゥス=クルティウス『アレクサンドロス大王史』)
「王者とは、艱難辛苦を、だれよりも引き受ける者のことである」と、自分の弱さに負け、安逸を貪ることは、「奴隷的である」と彼は言った。
アレクサンドロスは、一人の老人を励まし、助けているうちに、行軍の列から取り残されてしまったこともある。一緒にいるのは、わずかの味方だけ ― 。夜はふけてくる。寒さが身を刺す。敵の火が前方に点々と燃えていた。見つかったら最後だ。 ところが、アレクサンドロスは、ひとり、まっしぐらに、一番近い敵の火のもとへ走った。飛鳥のごときスビードは、彼の得意とするところ。居合わせた二人の敵兵を、あっという間に倒し、篝火の薪を一本、奪って戻ってきた。そして、巨大な火を焚いた。これで敵は、大軍がやってきたと思い、大部分が、あわてて逃げてしまった。彼の剛胆と知恵と早業のエピソード。
アレクサンドロスのギリシャ連合軍は、超大国ペルシャに比べると、物量の面でも、人数のうえでも、はるかに劣っていた。アレクサンドロスは、イッソスの会戦(紀元前333年)で、ペルシャ軍に自ら切り込んで敗走させ、そのあとも和議に応ぜず、相手が総力を挙げて決戦せざるを得ないように仕向けた。そして迎えたガウガメラの会戦(前331年)で、一気にかたをつけてしまった。老大国は再起不能となり、ペルシャ王(ダリウス3世)は「アジアの王」の座を、アレクサンドロスに譲った。
故郷マケドニアの王に即位してまもないころ、まだ政権が不安定と見られて、ギリシャのテーベ等で反乱が起こった。北方で知らせを間くや、彼はバルカン半鳥の山中を全速力で駆け抜け、たちまち、四百キロも離れたテーベ市民の前に現れた。重装備の軍隊が一日に30キロ、たった13日で到着するなどとは、当時の常識では想像もできない。テーベ市民は「にせもののアレクサンドロスにちがいない」と、うわさするほどだった。彼のスピードの前には、相手は十分戦う余裕さえなかった。
東征が始まり、現在のトルコに上陸。ミレトス港にペルシャの艦隊四百隻がくるという情報が入った。アレクサンドロスは大急ぎで、全艦隊をミレトス港に集めた。ペルシャ艦隊が到着したら「万事休す」である。アレクサンドロスの艦隊160隻は走りに走って、ペルシャ艦隊よりも、わずかご一日だけ早くミレトス港に入った。港を完全に封鎖し、遅れて駆け付けたペルシャ艦隊を入れさせない。その間に、アレクサンドロスは、ミレトス城を陸地から占領してしまった。
アレクサンドロスが女性を丁重に扱ったのは有名。イッソスの会戦でペルシャ軍を打ち破ったときのこと、。ペルシャ軍は大軍といっても団結が弱く、いったん崩れ始めたらもろかった。ペルシャ王ダリウス3世は命からがら逃げ出した。王の家族さえ置き去りにされるという、あわただしさだった。アレクサンドロスの軍も、長年ギリシャを苦しめ続けたペルシャヘの報復を、第一の目的に掲げていた。各地の連合軍ではあったが、この一点で結束していたのです。大勝したアレクサンドロスは、戦場に残ったペルシャ王の幕舎を見て、驚いた。おびただしい金銀。日用品まで黄全や宝石に飾られている。豪華な浴槽、ベッド、饗宴のための調度の数々。部屋は香料の香りに満ちていた。そしてペルシャ王の家族(王の老母(シシュガムビス)、王妃(スタテイラ)、二人の娘らがいた。どんな目にあっても不思議ではない。彼女たちは、恐怖と悲嘆のどん底にあった。しかし、アレクサンドロスは高潔であった。ペルシャ王は無事であること、自分は彼女たちに危害を加えるつもりは、まったくないこと、これまで彼女たちが受けていた待遇は少しも変えないことを、ただちに伝えた。囚われの身の屈辱感と、不安を少しでも軽くさせようと、心をくだいた。そして、礼儀を失した言葉や振る舞いを、彼女たちが何ひとつ耳にしたり、目にしたりしないようにした。
王の老母は、アレクサンドロスの心遣いに感謝し、彼を心から敬愛した。のちにアレクサンドロスが病死すると、彼女は悲しみのあまり死んでしまったほどであった。ペルシャ王自身も、家族への手厚い保護を伝え聞いて、「私の王座を継ぐべき人があれば、アレクサンドロスをおいて、ほかにはない」と、感嘆したといわれています。アレクサンドロスは、こうして味方はもちろん、敵の心までつかんた。彼は常に、女性に対しては潔癖であった。部下の、女性への暴行者は極刑に処したという。
アレクサンドロスは、戦利品の黄金などを部下に、気前よく与えてしまった。行く先々で、手に入れた富や財宝を、惜しげもなく臣下に与え、自分は何も取ろうとしなかった。ところが、臣下のほうが彼よりも、身の周りを豊かに飾り、ぜいたくをするようになっていった。アレクサンドロスは怒った。「我らは、これまで勝利につぐ勝利をとげてきた。その『勝利の完成』とは何か。それは我らが、打ち勝ったペルシャの(ぜいたくで堕落した)弱点や弊害に染まらないことなのだ」
勝った相手と同じようになって、どうするのか ― この一言がアレクサンドロスの真骨頂。しかし、富裕になるにつれて、騎慢になり怠惰になるという傾向は止まらなかった。「もう戦いは、よいではないか」。彼らは、ついには「戦い続けるアレクサンドロス」を誹謗し、攻撃するようにもなった。それでもアレクサンドロスは、泰然としていた。 そして、友人、部下のためならば、どんな小さなで出来事に対しても、わざわざ筆を執り、激励や指示の手紙を書いた。その温情は、「驚くべきものであった」といわれる。
父であったマケドニア国王(フィリップニ世)が、こう言った。「息子よ、マケドニアは、お前には小さすぎる。お前にふさわしい大帝国を、さがしに行け!」と。
東征の初期のこと、地中海の商業都市国家ティルスは、沖合の小島に新しい市を築いていた。島までは八百メートル、島の全周4.5キロ。高い城壁をめぐらしている。周りの海の深さは平均3、40メートル。 陸からの攻撃は届かない。海から近づけば、船が狙い撃ちをされてしまう。だれも手が出せない。しかし、アレクサンドロスは、あきらめない。彼は、「島を陸続きにしよう」とした。海中に堤防をつくって、島まで届かせようというのです。だれも、こんなことを思いついた人間はいなかった。ティルスの市民も、あざ笑った。ところがアレクサンドロスが大量の土石を運び、山から木を切り出し、大工事を始めると、あわててしまった。「こいつは本気だ!」。アレクサンドロスは、築いた堤の先端に、相手の城壁よりもさらに高い巨大な櫓を建てた。その上から、矢や石で攻撃したのです。相手も負けてはいない。“燃える船”を堤防に突撃させ、炎上させてしまう手に出た。 アレクサンドロス側は、島に近づくにつれ、海は深くなるし、季節がら、風も激しく吹き付けてくる。せっかく築いた堤防を、もう一度つくりなおすこともあった。それでも攻撃は成功しない。しかし、アレクサンドロスはまだ、あきらめない。今度は、二隻の大型船を連結させた。その上に攻撃塔を固定させて、海からの攻撃を繰り返した。島からは、塔を引き倒すための「カギつきのロープ」が飛んでくる。海にもぐって、錨を切断する敵兵もいた。こうした激闘の末、ついに島の城壁の一角が崩れ、そこから兵士が突入して、勝利をもぎ取った。これで、ほぼ地中梅の東の沿岸は制覇した。
もう一度、ガザの町の激戦があった。ここも商業で栄えた古い町。しかし今度は、「島」ではなく「丘」だった。町は丘の上にあるために、抜群の「地の利」を誇っていた。ガザでの戦いも、アレクサンドロスらしい戦いであった。
「丘があって攻撃ができないだって?それなら、こちらも丘をつくればよいではないか!」。こうして、丘の上の城壁と同じ高さの丘を築いた。相手の丘の斜面に、高い壇を築いた。その上に攻撃の塔を組み立てたのです。同時に、地下道を掘って、敵の城壁を陥落させた。
大王は、あるときは「翼のある兵士たち」を使ったといわれる。人間に翼があったわけではない。インドに近づき、四方を断崖に囲まれた山中の砦を攻めたときのこと〈紀元前327年春。大王29歳の時。中央アジアのソグディアナの砦を攻略〉。「この砦は、翼をもった、空飛ぶ兵士でないかぎり、近寄れないのだ!」
アレクサンドロスの呼びかけに応じて集まった勇者たち三百人が、夜中、ひそかに岩壁によじ登った。手にはテントを張るためのペグ(鉄釘)と麻の縄。墜落する者もいたが、ほとんどは明け方までに山頂に登った。下に砦が見えた。夜が明けると、砦は大騒ぎになった。見上げると山頂に見慣れぬ兵士たちが大勢、旗を振っている。下からはアレクサンドロス軍の声が間こえる。「『翼のある兵士』がやってきたから、もうあきらめろ!」
この心理作戦が成功して、相手は完全に戦意をなくしてしまった。
アレクサンドロスは、あるとき、一人の兵士に声をかけた。その兵士は、はじめ大王の貴重品をラバに満載していた。そのうちにラバが疲れたので、しかたなく自分で背負っていった。しかし過大な荷物に疲れ果て、とうとう投げだそうとした、その瞬間、大王から声がかかった。事情を聞くと、アレクサンドロスは、「歩み通せ。そして、そこに持っている品物を、全部、自分のものにせよ」と励ました(プルタークの『英雄伝』)。もの惜しみしないアレクサンドロスの性格がよく出ている。
インドヘの道。それは過酷な道だった。雪のヒンドウクシュ山脈を越えたあとは、すぐに灼熱の砂漠が続いた。50度から60度という暑さ。内臓まで干上がってしまうような渇き ― 。アレクサンドロスは、「部隊が進む道のわきに立ちつくし、部隊全部が通りすぎるまでは、何も食べず、何も飲まず、武装のまま、わが身を休息させようともしなかつた」(クイントウス=クルティウス『アレクサンドロス大王史』、)
彼は「人類はひとつである」という理想(ホモノィア)を抱いていた。その「理想を実現する」こと、新しき「開かれた世界」をつくろうとした。
プラトンの弟子アリストテレスが、彼の家庭教師だったことは有名。しかし、この理想については、アレクサンドロスは、当時の大学者アリストテレスを大きく超えていた。アリストテレスは、他のギリシャ人と同じく、ギリシア人以外は「生まれながらの」野蛮人であるとしていた。この偏見は、近代の植民地主義にも大きな影を落としている。アリストテレスは、アレクサンドロスに手紙を書き、「ギリシャ人を友人および身内として重んじ、バルバロイ(非ギリシャ人)は動物もしくは植物として取り扱え」と忠告している。
しかし、アレクサンドロスは、そう思わなかった。「人は『生まれ』によって自由人であったり、野蛮人であったりするのではない。人は『教育』によって自由人にも野蛮人にもなるのである」「友とは善人のことだ。敵とは悪人のことだ」、こう信じていた。
彼のこの革新性は、マケドニアという、ギリシャの「辺境」の生まれだったせいもあるでしょう。また“心の師”であったアキレスの時代のおおらかさに学んだのかもしれない。〈アキレスは、トロイ戦争(大王より約九百年前)の英雄。唯一の弱点の踵(かかと)を射られて死んだところから、アキレス腱の名が起こる〉。アキレスが活躍した「ホメロスの世界」には、アリストテレスの時代のような偏狭な民族主義が、まだなかった。ホメロスのトロイの戦争を描いた叙事詩「イリアス」が、アレクサンドロスの“一書”だった。
あるとき、戦利品の中に、目もくらむような宝石箱があった。「この中に、何を入れるのがふさわしいと思うか?」
大王の問いに、側近は思い思いの意見を述べた。アレクサンドロスは、すべて聞いたあとで言った。「私は思う。これに収めるにふさわしいのは、『イリアス』以外にない」。この“一書”に従い、“心の師”(アキレス)に従って行動した。彼が、後世の偏狭さをもたなかった理由の一つが、ここにある。また、エジプトで「人類はひとつ」の啓示を受けたし、実際に広い世界を見て、彼の確信は深まった。
そしてアレクサンドロスの悲劇は、この彼の「大願」を周囲が理解しなかったことです。インドまで到達したとき、「もう、戦いはよいではないですか」と周囲は言い始めた。一方、アレクサンドロスは、「戦いは、いよいよ、これからだ」と思っている。
「今、退いたら、これまでの苦労が、全部、ふいになるのだ」
懸命に説得したが、軍隊は聞き入れない。 3日間、将兵の翻心を待った。そしてついに、彼らの決心が変わらぬと知って、断腸の思いで、帰還する。
インドでの戦いで、愛馬ブケファロスを失った。この名馬はアレクサンドロスが12歳のとき、誰も乗りこなせなかったのを、見事にのりこなし、手に入れたものであった。彼は、この戦場跡に、新しく市を建設し、ブケファラと名づけた。
インドから帰還する途中、バビロンで熱病に倒れ、32歳という、あまりにも短い生涯を閉じた。マラリアだったともいわれている。大王は死の寸前まで、西方への新しい遠征計画に熱中していたという。最後まで「前進!」の意気は衰えなかった。臨終が近づき、後継者について聞かれたとき、「もっとも強い者に」と遺言したという。
帝国の分裂 戻る
大王の死後、基盤が固まっていなかった帝国は崩壊を始め、「後継者戦争」が続いた。〈ほぼ40年にわたる戦乱の結果、エジプトを大王の部将プトレマイオスが抑え、プトレマイオス朝エジプトを開く。その最後を飾ったのが女王クレオパトラ(紀元前30年、アレクサンドリアで自穀)である。これに、セレウコス朝シリア、アンティゴノス朝マケドニアを加えた「へレニズム(ギリシャ風文明)三大王国」ができ、一応の安定をみた〉
将軍たちの争い
紀元前306年から翌年にかけて、エジプトにいたプトレマイオス、バビロンのセレウコス、ヨーロッパのアンティゴノスなどがそれぞれ王を称し、帝国の分裂がはっきりしてくる。 アレクサンドロス大王の死後、広大な帝国領土は、後継武将たちの血で血を洗う後継者争奪戦(ディアドコイ戦争)で分裂。前301年、イプソスの戦いでセレウコス1世はアンティゴノス1世に勝利を収め、小アジアからイランに至る西アジアを領有するが、シリア・パレスティナの領有をめぐって、プトレマイオス朝とシリア戦争をおこなう。セレウコス朝は前64年、プトレマイオス朝は前30年にローマに滅ぼされ、ヘレニズム時代は幕を閉じる。
プトレマイオス朝
アレクサンドロスは広大な征服地に多数のアレクサンドリアという町を建設したが、その代表的なものがナイル川河口につくられたアレクサンドリア市。フェニキアのシドンやティルスにかわって東地中海の中心貿易港として栄える。プトレマイオスはここを首都としてエジプトを支配した。
セレウコス朝
セレウコスははじめバビロンの総督であったが、旧ペルシア帝国の大半を支配するにいたったが、暗殺された。その後、東方ではパルティア・バクトリアが分離する動きをみせはじめる。
イプソスの戦い
紀元前301年8月、フリギァのイプソスでアンティゴノス1世とデメトリオス父子が、セレウコスと決戦した。勝敗を分けたのはセレウコス軍の圧倒的な数の戦象であった。デメトリオスは騎兵の先頭で戦い勝利したが、深追いしすぎて歩兵の援護が遅れた。この間にアンティゴノスはセレウコスの歩兵と象軍に完敗して戦死。アレクサンドロスの帝国の分裂は決定的になった。アンティゴノスは、帝国をそのまま維持しようとこころみた大王の継承者であった。
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