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4 ローマ帝国
「一切の古代史は、いわば一つの湖に注ぐ流れとなってローマ史のなかに注ぎ、近世史の全体は、
ローマ史のなかから再び流れでたということができる。」 (19C、ドイツの歴史家ランケ)
エトルリア人 戻る
紀元前800年ごろ、エトルリア人が、ティベル川北方のイタリア海岸にあらわれる。その後、彼らは内陸地方に移動。おそらく、小アジア方面から来たと推定される。しかし、それ以上のことはわからない。使用した言語が判読できないため。しかし、このエトルリア人が、ローマの発展に大きな役割を演じる。残されたものから見る限り、エトルリア人の文化水準はかなり高い。
紀元前6世紀には、エトルリア人は、イタリアの広大な地域を支配。その勢力は、北はアルプス山ろく地方から、南は現在のサレルノにまで及ぶ。しかし、半島南部及びシチリア島にギリシア人の植民市があったため、そこまでは勢力はのびなかかった。
都市国家ローマ 戻る
ローマが一部族社会から都市国家に発展するのは、この頃で、文化の高いエトルリア人を見習ってのこととも思われる。伝承によると、歴代のローマ王のうちには、エトルリア系の王が3人いたという。前509年、ローマ最後の王タルクィニウス(エトルリア語)・スペルブスが王位を追われ,ローマに共和政が生まれる。
王の権力、大権=インペリウムは、1年を任期とする2人のコンスルがうけつぐ。大権は絶対的なものであったが、お互いに拒否権を持ち、双方の意見が一致しない限り、法を変更することはできなしくみになっていた。
2人のコンスルのほかに、元老院とクリア会、兵員会、といおう二つの民会があった。元老院はいわば、諮問機関の役目をはたす。顔ぶれは、市の長老連つまり貴族たちによって占められていた。
二つの民会の成員は、ローマの完全な市民よりなる。クリア会は氏族制的社会組織を単位とする集会。兵員会は軍隊組織が基本。しかし、二つとも事実上は貴族たちが支配していた。
平民の政治参加 戻る
ローマの共和政の初期の歴史は、政治への参加と社会的平等を求める一般市民の戦いの歴史といえる。
パトリキとよばれた貴族、プレブスといわれた平民の間の身分的差別は著しい。平民と貴族の結婚は禁じられ,平民が重要な役職につく道は閉ざされている。しかし、彼らは軍務に服し、税を納め、貴族と何らかかわりのない、れっきとしたローマ市民だったのである。
だが、特定の宗教儀式は貴族だけしかおこなえなかった。というのは、要職につくためには、必ずこの儀式を行わなければならなかったからである。平民たちはこうして、正解への道を閉ざされ、社会的な栄光も望み得なかったのである。
紀元前5世紀はじめの護民官制度は、平民たちが最初に勝ち得た勝利である。護民官は、全ローマの平民から成る市民総会(平民会)で選出される。任期は1年、与えられた権限は大きい。護民官だけが平民会を召集することができる。彼らは平民の利害を代表し、元老院・兵員会で提案されたいかなる議案、または役人のいかなる行為も、ただひとこと「べトー」(私は拒否する)と叫ぶだけで却下することができた。まt、護民官に乱暴するものは、身分の上下を問わず死刑に処せられた。
護民官制度が固まるにつれ、いろいろの法が定められる。平民と貴族との結婚も許され、コンスルにつく権利も認められる。
紀元前287年には、いかなる法案も、元老院の承認なしに、平民会だけで成立する権利を獲得した。
ローマの対外発展 戻る
国内では、このような軋轢を繰り返しながらも、ローマは着々とイタリア全土に勢力を広げていった。隣国と同盟を結び、さらにその隣国と同盟を結び、こうしてローマは同盟国を増やし、必要に応じて制服もした。ラティウム平原に散在する各都市を手始めに、やがては、さらに遠方のイタリア各部族へ、そしてエトルリア人へと、その政策を及ぼしていった。そして、紀元前4世紀はじめには、ローマは中部イタリアの盟主になった。
前390年には、北方から蛮族のガリア人が侵入。ローマは略奪される。言い伝えによれば、ガリア人は、ローマが金1000ポンドの賠償を支払うまでは、立ち退かなかったという。
しかし、ローマは再び同盟政策をすすめ、南下して、ついにイタリア半島の南端まで達する。ここには、ギリシア人の植民市があった。
ギリシア本土からイタリアにかけつけるのは、勇名をはせたエピルスの王ピュルロスであった。ローマ軍は、最初の会戦で撃破され兵7000人を失う。ピュルロスの損害は4000人。2回目の会戦では、両軍ほぼ同数の戦死者を出す。2回目の会戦では、両軍ほぼ同数の戦死者を出す。勝ったのはやはりピュルロスであったが、彼はこう言った。「もう一度こんな勝ち方をしたら、おわりだ」。以来、徒労が多く、得るところの少ない勝利を「ピュルロスの勝利」という。ピュロスの敗れるときがくる。ローマは決定的な打撃を与え、ピュルロスは逃げもどった。
ここに、ローマは名実ともに、全イタリア半島を支配することになる。
ポエニ戦争 戻る
つづいて、西地中海の覇者カルタゴとの戦いが始まる。ポエニ戦争である。紀元前214年、第1回目のポエニ戦争がはじまる。ポエニは、カルタゴの先住民族フェニキア人のラテン名プニイクスに由来。戦いの原因は、シチリア島のカルタゴ植民市の内政にローマが干渉したこと。カルタゴは海軍国として名をはせる。海戦でローマは苦戦するが、難破したカルタゴの5段櫂つきの軍船を手にいれ、60日間に100隻の同型の軍船を建造する。そして、独自の戦法をあみだす。カルタゴの機動力に対抗するため、コルブスという移動できる一種の桟橋を船にそなえ、敵船に近づいて打ち込む方法を考案する。そして、兵士を敵船になだれこませ白兵戦に持ち込んだ。こうして、シチリア島からカルタゴの勢力を駆逐した。そして、気の遠くなりそうな量の銀を20年間支払うことをカルタゴに課した。
カルタゴの将軍ハミルカル=バルカは3人の子供をつれてスペインにむかう。9歳になる息子ハンニバルに、ローマ打倒のため、自分の生涯を捧げるよう誓いをたてさせる。スペインの南半分を獲得する。ハミルカルが戦死した後、ハンニバルが25歳であとをつぐ。紀元前218年、第2回ポエニ戦争が始まる。カルタゴの名将ハンニバルは、象を加えた軍勢を率いて、アルプスを越えて北方からイタリアに攻め込んだ。思いもかけぬ方向から敵の侵入をうけ、ローマ軍は浮き足立った。ものの見事に裏をかかれて敗走するローマ軍を追って、カルタゴ軍はイタリア半島を席巻した。その歴史的な決戦でのことである(紀元前三一六年のカンネーの戦い)。
ローマの軍勢は八万数千。かたや、カルタゴ軍は五万。圧倒的なローマ軍の優勢であった。
しかも、カルタゴ軍は川を背にした、いわゆる「背水の陣」であつた。
カルタゴ軍の兵士たちは、眼前の平原に群れをなすローマ軍のあまりの多さにたじろいだ。ハンニバル将軍の横にいたギスコーという兵土も思わず、「敵軍の何という多さか!」と口にした。
すると、ハンニバル将軍は悠然と、そのギスコーに語った。
「君は大事なことを見逃しているぞ。あれほど沢山の人がいたって、あの中にはギスコーという人はいないのだ」(長谷川博隆著『ハンニバル』、清水書院)
要するに、“わが陣営には、君という勇者がいるではないか!敵には、君ほどの勇者はいない!だから、何も恐れることはない”というのである。
この将軍の余裕あふれるユーモアの一言に、周囲には明るい笑いがはじけた。
そして、そのさわやかな笑いは、兵士から兵士へと広がっていった。
こうして、将軍の「勝利への強き確信」と「わが戦士たちへの深き信頼」が全軍に伝わった。
そして、皆は心を軽くし、勇気を奮い起こしていったというのである。その後、この戦いは、兵士たちの奮闘とハンニバル将軍の名指揮によって、歴史に残る大勝利を収めた。
それから15年間、カルタゴ軍は指揮官ハンニバルの持ち前の勇気と策略によって、ローマ軍を悩ましつづける。
しかし、ハンニバルのイタリア滞在が長引けば、しだいに疲弊していく。「ひきのばし屋」の異名をとったファビウスという将軍は、ハンニバルとの戦闘を回避した。そして、ローマはスペインへの攻撃を開始した。ローマの名将スキピオは、スペインでのいくつもの戦いで勝利をおさめた。そして、ローマにもどり、アフリカでの戦争を計画し、スキピオはアフリカのカルタゴを攻撃する。2年後、カルタゴは本国にハンニバルを呼び戻した。ハンニバルは平和協定を結ぶ目的でスキピオに会見を求めた。彼らの会見は、歴史家リヴィウスによって描写されている。
第2回ポエニ戦争後、ローマは東方の二大勢力と戦う。一つはマケドニアのフィリップ5世で、ハンニバル側の味方をしていた。2年間にわたる戦いの後、キノケファラエの戦いでマケドニア軍を打ち破った。その後、息子のペルセウスが後をつぐが、紀元前168年ペルセウスもローマに屈した。
おなじ頃ローマは、シリア王国と同盟を結んでいたが、シリア王アンティオコス3世は、ローマがマケドニアのフィリップ5世と争っているすきに、ギリシアに侵入して勢力を伸ばそうとした。しかし、アンティオコスはマグネシアの戦いでローマに敗れ、シリアに逃走した。
カルタゴを破り、マケドニアとシリアを制圧したローマは飛ぶ鳥を落とす勢いであった。
紀元前146年、第3回ポエニ戦争が始まる。今度は条約違反をめぐる紛争で、カルタゴがローマの無理難題に従うことを拒否したことからはじまった。この戦いで、ローマはカルタゴを廃墟にしただけでなく、溝をほり、そこに塩を埋め込んで不毛の土地とし、残ったカルタゴ人は奴隷として売られてしまった。
ローマ社会の変質 戻る
ローマの拡大は、社会にさまざまな変化をもたらした。属州の拡大とともにその利益をうけとることができる人々、元老院身分や騎士身分と、長く故郷を離れて征服戦争に駆り出されたために転落してゆく一般市民とわかれていったことであった。大土地所有の拡大と無産大衆の増加であった。金持ちはますます財産を増やす機会に恵まれるが、一般市民とくに農民の生活は苦しくなる一方であった。
元老院や騎士身分は、その財力にものをいわせ、大土地経営をすすめた。彼らは、征服戦争と属州の支配によってもたらされた財力をイタリアの土地につぎこみ、大量に生み出されていた奴隷を労働力として、大土地所有を進めていった。いっぽう、無産者としてローマに流れ込んでくるのが土地を失った中小の土地所有者であった。これに拍車をかけるのが、属州からの安い穀物の流入であった。
グラックス兄弟の改革 戻る
ローマの官職は原則として開放されていたが、実際に実権を握ったのは相変わらず貴族連中であった。官職は無報酬であったので、なりたくても金持ち以外にはなれなかったからである。政治面では、閥族派と民衆派の二派にわかれ対立していた。
こうした事態が進展する中、改革者として登場するのがティベリウスとガイウスのグラックス兄弟であった。兄弟は、当時の乱世の原因は、土地を失った農民の窮状にあると考えた。かってのローマの繁栄を支えた農民が、いまや耕すべき土地も持たぬ遊民となっていた。
前134年、ティベリウスは、10人の護民官の一人に当選した。翌133年、公有の農地・牧場の利用に関する改革案を提出する。広大な土地が貴族によって占有されていたので、ティベリウスはこれらの土地の一部を一般農民のために開放することを求めた。大地主の多い元老院議員たちは、同僚の護民官を抱き込んでティベリウス案に反対するように工作した。これに対し、ティベリウスは強引に同僚の意見を押さえつけた。怒った元老院議員たちは、民衆をそそのかして暴動を起こさせた。ティベリウスと彼の一派300人は無残にも殺されてしまった。
多数の民衆の支持を得た彼の理想は、弟によって引き継がれる。
前124年、ガイウス=グラックスが護民官に選出される。ガイウスの土地改革案は、兄よりさらに急進的なものであった。また、今までイタリAの諸都市にほとんど与えられなかったローマ市民権を大幅に与えようという提案をはじめ、さまざまな提案をひっさげて、元老院勢力に立ち向かった。
元老院は、また流言飛語を飛ばした。街には暴動が起こり、ガイウスは民衆の敵であるとの声がひろがった。捕らえられる不名誉を嫌ったガイウスは、従者に命じてみずから命を絶った。
こうして、グラックス兄弟の改革は失敗に終わる。
内乱の一世紀 戻る
ヌミディア王ユグルタが元老院を買収する事件が発覚し、巻き上がる非難のなかでガイウス=マリウスがコンスルに選出された。民衆派を支持する騎士マリウスは、紀元前107年から100年にかけて、マリウスは6度もコンスルに選任されている。そして、彼はローマ軍をつくりかえた。それまで、ローマの軍隊は市民から徴集されたもので編成されていたが、マリウスは無産の貧民を兵士として採用し、武器を与えたのである。こうして、軍隊は職業的な兵士の集団となり、自分の指揮官に忠誠を尽くすようになっていく。
マリウスはその後、紀元前97年に一時的に失脚する。そして、約10年間元老院を中心とする一派が政権を握った。紀元前91年民衆派の政治家ドルーススが護民官となる。護民官ドルススは、全イタリアの同盟市にローマ市民権を与えることを提案するが、反対にあってその年に暗殺された。彼の死を機に、紀元前91年にイタリア同盟市の大半が結束して連邦イタリアを組織して、ローマから分離して独立政府をたてた。この争いは、ローマははじめ不利であったが、各都市に市民権を与えることを認めて、ついに反乱を鎮圧した。
いっぽう、閥族派と民衆派の対立は深まる一方で、貴族出身のスラと民衆派の指導者マリウスが対立した。紀元前58年スラはコンスルに就任し、ナポリにあってポントス王ミトラダテスの討伐の準備中、マリウスが軍隊の指揮権をスラから自分に移そうとした。マリウスの動きを察し怒ったスラは、遠征を中止すると軍隊をローマにむけた。ローマの将軍が首都に軍隊を向けたのはローマ史上空前のことであった。マリウスはアフリカに逃亡し、スラは首都にはいった。スラは政敵を殺し、元老院の保守勢力を強化した。そうして事態が一段落すると、スラはふたたび遠征に出発しポントス王ミトラダテスを破り、遠征は成功した。
一方マリウスは、スラが遠征にでかけると再びアフリカからもどって政権をにぎった。そして、スラの一派を次々と殺した。紀元前83年、スラがローマにもどるが、マリウスはすでにこの世にいなかった。スラはマリウスの一派を次々と処刑した。一度に6000人の人が処刑されたこともあった。そして、スラは独裁官として絶対的な権力をふるったが、紀元前79年に引退し、翌年没した。
スラがもっとも信頼した副官ポンペイウスは、カエサルとクラッススにはかり、おたがいに秘密同盟を結んだ。これが第一回三頭政治である。三人はそれぞれ自分の目的を達成した。ポンペイウスは東方での武功が認められ、カエサルはガリアの支配権を手に入れ、クラッススはパルティアとの開戦を認められた。この同盟をささえるため、カエサルは娘ユリアをポンペイウスに嫁がせた。
紀元前53年クラッススが戦死し、これを機にポンペイウスとカエサルの仲は悪くなった。カエサルがガリアの征服をすすめ、その政治的地位を確立していけば、ポンペイウスはローマにあって着々と勢力を固めていった。
賽は投げられた
紀元前49年1月10日、この夜、ガリアおよびイリュリクムの属州総督ユリウス・カエサル(51)は、部下とともにイタリアに侵入した。彼は、部下を先発させたのち、昼間には見世物の席で公衆の面前に姿を見せていたが、ひそかに少数の護衛とともに貸し馬車に乗って出発した。彼は、担当属州とイタリア内地との境界であるルビコン川に到達すると、事の重大さに蹟賭してしばらく選巡していたが、やがて「賽は投げられた」といって、川を越えて内乱の火ぶたを切った。この川はカエサルの軍指揮権の及ぶ最南端であった。カエサルは、8年間にわたるガリア遠征での成功によって大きな勢力をもつようになっていた。また、ポンペイウスに嫁いでいたカエサルの娘が前54年に亡くなり、ポンペイウスとの関係が疎遠になっていた。前53年にクラッススが
戦死すると、元老院の反カエサル派とポンペイウスが協力するようになって、ローマにおけるカエサルの立場はいっそう悪化した。彼は、反対派から告発されるのを防くために、属州にととまったままでコンスル(執政官)選挙に立候補する許可を求めて元老院との交渉をすすめたものの、不首尾に終わった。
この年の初めには、反カエサル派のコンスルのもとで、カエサルに対する攻撃がいっそう激しくなり、1月7日には拒否権を行使しようとしたカエサル派の護民官たちの身辺も危険となり、彼らはローマを脱出してカエサルのもとに逃れてきた。これによってカエサルは武力に訴えることを決心し、ルビコン川を越えてローマヘの南下を開始した。
カエサルの行動は反対派の予測を越えており、ポンペイウスをはじめとする反対派は、まずローマを脱出して南イタリアに逃れ、兵力を集めようとしたが、カエサル軍の進撃が速く、ついに半島東南端のブルンディシウムから対岸のバルカン半島に逃れていくことになる。
ポンペイウスは配下の軍と元老院議員の大半をともなって、ギリシアに退いた。ここで艦隊によってイタリアを包囲し、カエサルに決戦を挑む計画をたてた。しかし、機先を制したカエサルは、スペインでポンペイウス側の軍を破り、ついで紀元前48年ギリシアにわたり、ファルサロスの戦いでポンペイウスを打ち破った。紀元前48年ファルサロスの戦いでカエサルに敗れたポンペイウス(58)は、エジプトに上陸するために乗り移ったはしけの中で暗殺された。この暗殺は、エジプトで態勢を立て直そうとするポンペイウスの命令に従うと必然的にカエサルを敵に回すことになるのを恐れた、エジプト王プトレマイオス13世によるものだった。ポンペイウスの遺体は首を切り取られ、カエサルのもとに送られた。暗殺の報告を受けたカエサルは、かつての盟友ポンペイウスの死をいたんだという。カエサルはポンペイウス暗殺の数日後、アレクサンドリアに到着する。このとき、共同統治者のプトレマイオス13世と不仲になっていた女王クレオパトラ(21)の助力要請を受けて調停を行うが、彼女の魅力にひかれ、のちに子どもまでもうけることになる。カエサルとクレオパトラの親密な関係がおもな原因となって、プトレマイオスB世とカエサルのあいだに戦争(アレクサンドリア戦争)が起こるが、戦いはカエサルが勝利する。
ローマに帰ったカエサルはいまや並ぶもののないローマの実力者となった。しかし、カエサルに対する暗殺計画が進められ、紀元前44年、ついに元老院で襲われ刺殺されてしまった。
第二回三頭政治 戻る
カエサル亡き後のローマは権力争いが再燃した。カエサルの養子でカエサルの妹の孫にあたるオクタヴィアヌス、カエサルの友人で部将のマルクス=アントニウス、それに元老院が三つどもえになって争った。そして、オクタヴィアヌスとアントニウスとカエサルの腹心の副官であったレピドゥスが手を結び、ここに第二回三頭政治がはじまった。3人は帝国を分割して支配下に置き、アントニウスは東方、オクタヴィアヌスは西方、レピドゥスはアフリカを担当し、イタリアは3人が共同で統治することにした。
紀元前36年、オクタヴィアヌスはレピドゥスを追放してアフリカの支配権を握った。そのころ、美しいクレオパトラに夢中になっていたアントニウスは、正妻をしりぞけ彼女を妻に迎えた。離婚した妻はオクタヴィアヌスの姉だったので、二人の間は険悪な常態となった。
紀元前32年、オクタヴィアヌスはアントニウスの遺言なるものを捏造し、元老院で発表した。その内容は、ローマの東方領をすべてクレオパトラに与えるというものであった。
元首政 戻る
アクティウムの海戦で、1世紀に及ぶ内乱は終止符が打たれた。紀元前27年、オクタヴィアヌスは元老院に臨み、共和政の復活を声明した。そして、表向きには謙虚さを装いながら、権限の返還を申し出た。これに対して元老院は彼の申し出を受け入れたが、それと引き換えに、彼を「第一の市民」すなわち、元老院の第一人者(プリンケプス)として認め、多くの要職を与えた。また。オクタヴィアヌスは「アウグストゥス」という称号を元老院から得た。これは「尊厳な人」という意味である。
ローマの歴史家タキトゥスは次のようにいう。「アウグストゥスに反対するものはだれ一人としていなかった。気骨ある人物は戦争で死んでしまったか、追放されてしまっていた。残る高官連中は危険に満ちた過去よりも現在の安穏な生活の方を選んだ」。
アウグストゥスは実情に即することを考えた。属州の統治は乱れ、ローマには国政をつかさどる皇帝が必要だった。しかし、ローマ人が共和政の伝統をすて切れないことも知っていた。そこで、旧制度の組織をそのまま残し、いっぽう政治の実権を自分が握るという形をとったのである。初めコンスルとなり、ついでプロコンスルに、最後には護民官の権限を与えられ、いくつもの権限を一身にあつめた。
紀元前14年、アウグストゥスが亡くなる。彼は生前に養子のティベリウスを後継者と決めていた。ティベリウスの次がカリグラ。カリグラは自分を現人神あるといい、愛馬をコンスルにせよという。彼はこの馬のために大理石の飼育舎をつくった。皇帝の残虐で気まぐれな振る舞いは、狂気の沙汰で、被害はローマ中に及んだ。
皇帝クラウディウスは、4番目の妻小アグリッピナに毒入りきのこ料理によって毒殺される。理由は皇帝の実子ブリタニクスにさきだち、自分の先夫の子ネロを養子として帝位につけようとはかったのである。
皇帝となったネロは、ブリタニクスを毒殺、さらに自分の母も殺そうとはかった。ネロは母親に毒をもったが失敗におわった。ブリタニクスの非業の死を見た彼女が次は自分の番と、万一にそなえ少しずつ毒を飲み身体を慣らしたので毒がきかなかったのである。今度はネロは母親のベッドの上の天井が落ちるように仕掛けた。これにも失敗したネロは、母親は舟遊びにいかせた。舟は転覆しやすいようになっていた。だがこのときも、アグリッピナは海岸に泳ぎ着いて難を逃れた。ついに、ネロは皇帝に反逆したかどで実の母を告発して、部下の兵士に命じて暗殺させたのである。日ごろから芸術家気取りのネロは、人々を集めて自分の歌や竪琴の演奏を聞かせたがった。「ネロが歌っている間は、どんな急用でも退場できなかった。ある婦人は、しかたなく劇場内で赤ん坊を産んだという」とスエトニウスは記している。
64年、ローマに大火がおこった。これをキリスト教徒のせいにして、迫害をおこなった。
ネロの暴君ぶりに、ごうごうたる非難があがった。65年、元老院議員を中心とする陰謀が発覚した。事件に連座して自決を迫られた人の中に哲人セネカの名前が見える。これと前後して、アルメニア、ブリタニア、ユダヤなどの各地に内乱が起きた。68年には、軍隊の中にも反乱の火の手が上がった。ガリア、アフリカ、スペインなどの各地の軍司令官が反乱を起こした。皇帝ネロはついにローマから逃げ出し、元老院はネロを欠席裁判にして死刑を宣告した。ついに観念したネロは自ら命を絶った。ネロの最後の言葉は、「今、世界は偉大な芸術の天才を失う」という。
ネロの死は、無政府状態ともいうべき4皇帝の時代を迎える。ガルバとオトーが皇帝を名乗り、ライン方面の駐屯軍は将軍ヴィテリウスを皇帝におしたててローマを目指して進軍し、クレモナ付近の戦いでオトー軍を破った。しかし、それもつかの間、ヴェスパシアヌス将軍指揮下のドナウ派遣軍団がローマに進軍し、ヴィテリウスは殺された。ヴェスパシアヌス自身は遠く離れた東方で、66年から70年に及ぶユダヤ人の反乱鎮圧にあたっていたが、自分の軍をローマに進め、自分を皇帝にするように元老院に迫ったのである。ネロの死後、ローマの実権を握ったのは軍隊であった。しかし、ヴェスパシアヌスは国法にのっとって登位し、ともかく形の上では国家を再び元老院と市民の手にもどしたのである。
ここにローマは再び平和な時代が訪れた。ヴェスパシアヌスの出身の家名をとってフラヴィウス朝という。ヴェスパシアヌスは、全スペインの都市にラテン市民権を与え、さらに、ローマ軍に服役する全属州民に市民権を与えた。
紀元前79年、長男ティトゥスが跡を継いだ。在位2年。彼の死後、次男ドミティアヌスが29歳で帝位についた。彼は猜疑心が強く、小心な人物であった。ローマには15年わたって恐怖政治がしかれた。ドミティアヌスは政敵と目される人物を狩り出しては処刑した。やがて、彼は自分自身が宮廷内の人によって殺された。元老院は、あらゆる公共の場所からドミティアヌスの名を抹殺し、国葬にすることを拒否した。
五賢帝時代 戻る
いよいよ、元老院が選んだ人物を皇帝に指名する時がきた。ローマ史上初めてのことであった。これは、一世紀末からほぼ百年間、五代の名皇帝による安定した統治が続いた期間。西欧では人類のもっとも幸福な時代≠ニ讃える人もいる。
新しい皇帝の名前は、ネルヴァ。人々の尊敬をあつめた62歳の老法律家であった。ネルヴァの即位により、「五賢帝時代」がはじまる。彼自身の治世の期間は短かったが、その間に皇位継承の合理的な方法を創出した。それはネルヴァが残した大きな遺産であった。彼は皇帝にふさわしい人物を選び出し養子に迎え、帝王学を身につけさせる。この方法は大成功であった。これから、ローマは長い安定期を迎えるのである。歴代の皇帝のなかでもとりわけその偉大さが特筆される賢帝が、あいついで皇帝となった。ローマ帝国が繁栄の頂点に達したのは、この時期である。
トラヤヌス
スペイン生まれの将軍。ローマ帝国の領土を拡大した。ドナウ川をわたり、ダキアを征服し、晩年にはアルメニアやメソポタミアへの遠征をおこなった。ローマ帝国は、空前の繁栄を誇り、属州もローマに劣らぬ繁栄を競った。
ハドリアヌス
スペイン出身の英明の誉たかい将軍。ローマ帝国は大きくなりすぎたと考えたハドリアヌスは、先帝トラヤヌスが手をつけたアルメニアとメソポタミアにおける足場を放棄した。また、北ブリタニアでも一歩後退し、ローマ領のブリタニア南部を北方の外敵から守るために、有名なハドリアヌスの長城を築いた。また、ローマ帝国の領土をくまなく歩き、その足跡は属州の大半に及んだ。また、ローマ法を標準化し、あらゆる法律上の手続きは、属州をふくめ帝国全土に共通となった。
アントニウス=ピウス
マルクス=アウレリウス 161年から180年。
ローマ帝国の最盛期。
彼の有名な「自省録」は、彼が戦いの合い間に寸暇を見つけて書き綴られたものであった。彼は、慈悲と寛容に富んだ、英邁な君主として知られる。ところが、この哲人皇帝の時代、ローマ帝国は、思わぬ混乱に見舞われた。他民族による攻撃。川の氾濫や地震など、さまざまな天災。ペストによる疫病では、人口の四分の一以上もの尊い人命が奪われた。マルクス=アウレリウスの治世の最後の年に、ライン・ドナウ・ユーフラテス川に沿った国境がにわかに騒然とした状態となった。皇帝自ら前線に赴き、陣地から陣地へと動き回って、直接軍隊の指揮にあたることも多かった。
あげくの果てに、信頼していた臣下が裏切り、反乱を起こす。読書や思索にふけることが好きであった、この哲人皇帯は、苦労を一身に背負って、戦いに明け暮れねばならなかった。
何という運命か―。しかし、波乱万丈の人生にあって、彼は毅然と、こう叫ぶ。
「『なんて私は運が悪いんだろう、こんな目にあうとは!』否、その反対だ、むしろ『なんて私は運がいいのだろう。なぜならばこんなことに出会っても、私はなお悲しみもせず、現在におしつぶされもせず、未来を恐れもしていない』である」(神谷美恵子訳『自省録』岩波文庫)
これは不運ではない。幸運なのだ。なぜなら、恐れず、押しつぶされず、打ち勝とうとする「強き自分」があるのだから―と。
「幸福」とは、いずこにあるか?ローマの哲人皇帝として名高いマルクス・アウレリウスは、明快に答えた。「人間の喜びは人間固有の仕事をなすにある」(『自省録』神谷美恵子訳、岩波書店)
「人生は戦いであり、旅のやどりであり、死後の名声は忘却にすぎない。しからば我々を導きうるものはなんであろうか。一つ、ただ一つ、哲学である」(「自省禄」神谷美恵子訳、岩波書店)
おりしも、伝染病ペストが国中に蔓延し始めた。人々は士気をなくし、帝国の経済は危機に瀕した。「ローマの歴史は、いまや黄金の世界から鉄と錆の世界に突き落とされた」とローマの歴史家カッシウス=ディオは書いている。 マルクス=アウレリウスの時代から、西ローマ帝国が滅亡するまでの300年間は、ローマ帝国が衰亡する時代。ローマはじょじょに滅亡への道を歩んだ。
五賢帝以後の皇帝 戻る
コモドゥス
マルクス=アウレリウスの実子。その後数多くあらわれる暴君のさきがけとなった人物。(かっての映画「ローマ帝国の滅亡」でクリストファー=プラマーが演じた。近くではラッセル=クロウ主演の「グラディエーター」にも登場。)カッシウス=ディオ(ローマの歴史家)は「ローマに、いかなる悪疫、罪悪にもまさる災いをもたらした」と評されている。
カラカラ帝
212年、帝国内のすべての自由民に市民権を与える。ローマの徴税簿の人数を増やし、歳入の増加を図ろうとしたといわれる。
軍人皇帝の時代
ローマの軍隊が、かって気ままに祭り上げた皇帝で、自分たちの利益のために推挙したり、暗殺したりしていたのである。
専制君主制 戻る
330年皇帝コンスタンティヌスは、都をローマからコンスタンティノープルに移した。そして、395年には皇帝テオドシウスが、ローマ帝国を東西二つの行政区に分割した。どちらも帝国にてこ入れしようという目的をもっていたが、その逆の結果をまねいてしまうことになる。
ローマ帝国の国境は、およそ1,6000kmにおよんだ。ブリタニア(イギリス)の国境は海岸からかいがんまでつづくハドリアヌスの長城でまもられ、ヨーロッパ大陸の国境は、北海からライン川に沿いドナウ川をつたって東の黒海までつづいた。東では、小アジアからシリア・パレスティナの地中海東岸、そして、エジプトから北アフリカにそって大西洋にまでつづいていた。
ローマ帝国の敵は、ライン川・ドナウ川流域のゲルマン人、アフリカに住むベルベル人、アラブの遊牧民、高度な文明を持ったペルシア人などさまざまな攻撃にさらされていた。そして、最も恐ろしい敵は、ドナウ川の上流からカスピ海に広がる草原地帯に出没していたフン族であった。彼らはアジア系の獰猛な遊牧民で、4世紀後半には西方へ進出して、いくつかのゲルマン部族を攻撃してゲルマン民族移動の原因をつくることになる。
このようななかで、ローマ帝国は国境を守るため莫大な費用を注ぎ込んで、50万以上の軍隊を維持していた。
この時期ローマ帝国は、その東西で様相を異にしていた。ギリシアからエジプトまで東側の地域は、住民の数も多く比較的豊かで、文化はギリシア風で、国際的・都会的な性格をもっていた。いっぽう、ラテン語が通用していた西側地域は、東方よりも貧しく農村的な性格を持ち商業も活発ではなかった。
330年、皇帝コンスタンティヌスは都をローマからコンスタンティノープルへ移した。コンスタンティノープルは、ヨーロッパとアジアを結び、帝国内で最も貴重な東の地域に近いという地理的な位置から、東への皇帝の支配力を強めた。
難攻不落の要衝として、コンスタンティノープルは、その後1000年にわたって続く、絢爛たるビザンツ文明の中心地となる。7世紀にイスラム勢力が勃興してから、1453年にコンスタンティノープルが陥落するまで、ビザンツ帝国は何度もイスラムに対抗して、ヨーロッパへの侵入をくいとめた。
395年、西方の国境が大いに乱れていたので、時の皇帝テオドシウスは、帝国を二人の息子アルカディウスとホノリウスに分割して与えた。ホノリウスは北イタリアにいて西方を統治した。これで二人は、それぞれの国境に軍事的な危機が起こったときは、すばやい処置をとることができるとテオドシウスは考えた。
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円型闘技場
建築に10年かかった。長さ180メートル以上、幅150m。4段になった観覧席には、5万人を収容することができた。
観客は、ゲート番号の札を持って入り、階段をのぼって接自分の席にいくようになっていた。今の球場と同じしくみである。
ローマの建築は、新しい材料のコンクリートを用いて、建築物を高さと広さを格段に大きくすることができた。近代の建築物との違いは、鉄筋で補強していないことぐらいである。そして、壮麗なアーチやドーム(丸天井)がつくられた。
道路
帝国にくまなくいきわたる道路網。ローマの国道をすべてつなぐと地球の赤道を10回まわる長さとなる。また、現在の道路として使われているものもある。最初の国道であるアッピア街道もその一つである。
水道
遠く離れた山の水源から町まで、石のアーチでなだらかな勾配をつけた水路で水を通した。
ローマ法
キケロはある演説で、「市民の法とは一体何か。それは権威に屈せず、力にひるまず、金銭によってそこなわれぬものである」と述べている。
ローマ法の基礎は「十二表法」
そして、527年ごろ、東ローマのユスティニアヌス帝は全法体系の法典編纂を命じた。そして、完成したのが、ローマの法律をすべて要約した「ローマ法大全」である。
カラカラの大浴場
公衆浴場、ビジネスと娯楽の殿堂、社交場、6000人の客を収容できた。1400アールの敷地を持つ。ここで使用される数千リットルの水は、山から水道で運ばれてきた。湯は木材を燃料とする炉で温められてから、浴室の床下にはりめぐらしたスチームパイプにとおされた。
キケロ
共和政の復活をめざす。60編の演説が伝えられている。
保護者と庇護民の関係 戻る
ローマ人はすべて、お互いに一つの関係で結ばれていた。それは、保護者と庇護民の関係である。平民より上の身分の高いローマ人は、低い地位にある何人かの人々に援助を与えることになっていた。
保護者が庇護民に与える援助は、しだいに食べ物や金銭などの物的なものへ変わっていき、失業したひとにとっては、この毎日の施しが唯一の収入となっていることもあった。
奴隷 戻る
奴隷の仕事にはさまざまなものがあった。建設作業や鉱山の採掘に従事する奴隷は悲惨な状態に置かれていた。最小限度の食べ物しか与えられず、病気でたおれるか年をとって働けなくなるまで酷使され、そして、捨てられていったのである。都市の奴隷の生活はこれよりはすこしましであった。
ローマ人はいつも奴隷が反乱をおこす不安におびえていた。前1世紀に、剣闘士スパルタクスが起こした有名な奴隷反乱は、ローマ人の脳裏に深く焼きついた。スパルタクスは、7万におよぶ奴隷軍の指揮をとり、3年間ローマを苦しめた。しかし、結局は内部の分裂から彼の反乱は崩壊してしまったのである。反乱を鎮圧したローマ軍は、反乱の再発を防ぐため、見せしめとして、6000人の奴隷を磔にし、その十字架をローマからカプアへの約200キロメートルの道路に沿って並べたのである。そして、厳しい法律が公布された。奴隷1人が主人を殺したら、その家庭にいる奴隷全員を死刑にしてしまうという内容であった。これ以後、記録に残るような奴隷反乱は起こらなかった。
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