5 キリスト教の成立と発展
イエスの出現 パリサイ派
迫害 キリスト教公認 背教者ユリアヌス
エフェソス公会議
イエスの出現 戻る
アウグストゥス帝の治世にパレスティナに生まれる。パレスティナの北部ガリラヤ出身の大工の子イエス。貧しいもの、悩んだ人、しいたげられた人に、天国は近づいた、君たちは自分の罪を悔い改め、福音を信じよと伝道しはじめる。
ローマの重税に搾取され、つらい労役を強いられていた民衆は、彼の周りにあつまった。病を治したり、パンを与えたりした彼の行いは、民衆を温かくつつんだ。イエスこそ、約束されたメシア(救世主)ではあるまいかと思うようになった。
病人の病気をなおす。「床をとりあげて帰りなさい」。その日は安息日であった。ユダヤ人の律法によれば、安息日に床をあげることは禁じられていた。それは死罪にあたることであった。イエスは、神の子である自分は、安息日の規定よりうえにある、と考える。
しかし、ユダヤの宗教の指導者である大祭司、律法学者、パリサイ派はイエスの名声の高いことをねたんだ。とくに、彼らが宗教儀式や戒律や形式のささいなことまで強いることに対し、真に人を愛すること神を敬うことを怠っているとイエスから指摘されたことを、大いにうらんでいた。そして、イエスを亡き者にしようとというはかりごとをめぐらした。
パリサイ派 戻る
律法の学問を伝え、世俗の渦中にあって律法の行為を守り、極端な宗教生活を実行する。嘘をつかない、隣人を侮辱しない、欺かない、隣人の噂話や中傷を持ちまわらない、馬鹿笑いをしない、隣人の前で裸にならない、等々の倫理的な規則を厳罰をもって課していた。ことに安息日の戒めは特別厳重に守られた。安息日に禁じられている行為の中には、外出のときに香水をつけてはいけない、家畜の出産を助けてはいけない、というものから穴に落ちた人を助けてはいけないというのまであった。
また、民衆も彼の教えの意味が理解できず、ユダヤの昔の王ダビデのようにローマ帝国の圧制から解放してくれるものと期待していたので、前のメシアの期待がはずれ失望してイエスから離れていった。
「キリストはティベリウス帝の時代に、総督ピラトによって磔にされた」と、タキトゥスは述べている。イエスが、パレスティナの地で説教をおこなったのはわずか3年足らずであったが、弟子たちは遠くの都市・属州をさして、ローマの街道をくだっていった。こうして、新しい宗教の種は帝国のすみずみにまで巻かれていった。使徒ペテロも、東方で30年にわたる伝道を終えた後、帝国の首都ローマにのぼり、ここを本拠にした。
迫害 戻る
ネロ帝は64年のローマの大火をキリスト教徒が放火したとして、信者を処刑した。タキトゥスは「処刑はまるでスポーツのようだった。信者は野獣の皮をかぶせられ、猛犬にかみ殺された」と記している。
ヴァレリアヌス帝は、教会関係者の大虐殺をおこなった。
キリスト教公認 戻る
313年2月3日、ローマ帝国の西方皇帝コンスタンティヌス1世は東方皇帝リキニウスの合意を得てミラノ勅令を発した。この勅令は、キリスト教会を公認し、303年のディオクレティアヌス帝がニコメディアで発布したキリスト教徒迫害令を廃止するものであった。コンスタンティヌス1世は、キリスト教会と帝国を緊密に結びつけようする。こののち、教会では神学論争が激しくなってくる。また、キリスト教を公認したコンスタンティヌス帝は、臨終の床で洗礼を受け、最初のキリスト教徒の皇帝といわれている。
背教者ユリアヌス 戻る 362年、ローマ皇帝ユリアヌス(30)は、アンティオキアでキリスト教徒追放令を発し、キリスト教徒を哲学、修辞学などの教師職から追放した。異教を奉ずる教養高き哲学者皇帝のキリスト教徒抑圧策は、迫害ではなく、思想の戦い・論争を前提としていた。ユリアヌスは、コンスタンティヌス1世の甥で、コンスタンティウス2世の即位にさいして、異母兄ガルスを除く、一族全員殺害という惨事のなかで育った。キリスト教的教育を受け、キリスト教徒となりながら、しだいに古典文芸のすばらしさにひきつけられていった。そして、キリスト教を棄教、異教復興を実現しようとする哲人皇帝となる。しかも彼は、すぐれた軍事的才能をもち、副帝時代にはガリアからゲルマン人を追い払い平和をもたらした。行政を刷新するが、翌363年には、シャープール2世のササン朝ペルシアとの戦いのさなかに死亡する。
エフェソス公会議 戻る
431年、東ローマ皇帝テオドシウス2世によりコンスタンティノープル総大司教に任命されていた雄弁家で司祭のネストリウスが、エフェソス公会議で異端とされ国外へ追放された。ネストリウスは、司祭アナスタシウスがマリアを神の母とよぶことに反対する説教をすると、これを全面的に支持した。するとたちまち騒ぎが起こった。もっとも激しく反対したのは、アレクサンドリアの司教キュリロスである。彼は、キリストが神であることを否定することになると考えたようである。双方の争いは、宮廷に働きかける文書を作成するなど、激しくなった。そこで、公会議の開催が予定された。しかし、キュリロスはネストリウス派をだしぬき、ネストリウス派、ローマ教皇の使節も欠席という状態で、エフェソスで公会議を開き、ネストリウスを異端と決定したのである。混乱が続くなか、結局、ネストリウスは罷免され、追放された。
コンスタンティヌス帝の時代以来、キリスト教徒はローマの公認宗教となった。キリスト教徒への最後の大迫害からわずか80年後の385年ごろには、今度は教会が異端者の処罰をはじめていた。そして、聖職者の権力は強大なものとなっていった。
【キリスト教の発展】
A 布教
1 (2 )などの使徒、(3 )の伝道
→ ローマ帝国内にひろまる、主に下層民・奴隷の間に普及
→ しだいに上流社会へ
→ 各地に信者の団体(教会)
2 「新約聖書」の成立(2世紀頃) ― ギリシア語(コイネー)
4つの「福音書」(キリストの言行録)、「使徒行伝」、書簡など
B 迫害
1 ギリシア・ローマの神々を認めず、(4 )を拒否
(5 )帝 ― ローマの大火(64)
(6 )帝(4C初め)の大迫害
2 多くの殉教者をだす → (7 )(地下墓所)でひそかに信仰
→ キリスト教を無視しては、帝国統一が困難
C キリスト教の公認と国教化
1 (11 )勅令、(10 )年
(9 )帝、キリスト教を公認
2 (12 )公会議(325年)
@ コンスタンティヌス帝が招集
(13 )派を正統 → のちの(14 )説
神とキリストと聖霊を同質とする
(15 )派(キリストの神性を否定)を異端
→ 北方の(16 )人のあいだにひろまる
3 「背教者」ユリアヌス帝 (361〜363。ギリシア哲学に親しみ、オリンピアの神々の復活を試みる。)
古典文化と異教の復活をはかる → 失敗
4 キリスト教の国教化
(17 )帝、(18 )年、他の宗教を厳禁
D 教父哲学 → 正統教義の確立
1 聖職者(司教や司祭など)身分が成立、五本山
2 教父
エウスビオス ― 神寵帝理念、「年代記」「教会史」
(19 )(マニ教より回心)
「告白録」・「20 」
E (21 )公会議(431年)
(22 )派を異端
→ ササン朝ペルシアをへて唐代の中国へ(23 とよばれる)
F カルケドン公会議(451年)
単性論を異端とする
☆ 重要語句
ユダヤ教 キリスト教 イエス 救世主(メシア) 使徒 カタコンベ
新約聖書 ミラノ勅令 ニケーア公会議 アタナシウス派 三位一体説
アリウス派 ネストリウス派 ペテロ パウロ 教父 告白録 神の国
アウグスティヌス
☆ 重要年代
キリスト教公認 ニケーア公会議の開催 キリスト教国教
|