2 イラン文明
パルティアとササン朝 ササン朝ペルシア
シャープール1世の戦勝記念碑
ホスロー1世の時代 マニ教
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アケメネス朝の伝統を継承したのが、紀元前2世紀にペルシアの支配権を獲得したパルティア人と、その400年後にパルティアを打倒してアケメネス朝に匹敵する帝国を築き上げたササン朝であった。
パルティア人はゾロアスター教を温存し、ササン朝はこれを国教とした。また、どちらの王も、ペルシア王室の血筋であると主張し、アケメネス朝の称号である「王の中の王」を名乗ることによって、支配を正当化した。
パルティ人は、半遊牧民の血を引くイラン民族の子孫であって、紀元前3世紀の中ごろイランの北東部にあるアケメネス朝時代の一属州であったパルティア地方に王国を建設した。そして、パルティア人は、東はオクソス川から西はユーフラテス川に達する帝国を建設した。このユーフラテス川で、パルティアの軍勢は進攻してくるローマ軍と戦ったのである。
パルティアは内部抗争とローマ軍団との抗争で弱体化し、224年ササン朝によって滅亡する。
ササン朝は、イスラム勢力の台頭によって崩壊する642年までの間、かってのアケメネス朝のキュロスやダレイオス1世が征服した西アジアを再度統合し、ローマ帝国やキリスト教のビザンツ帝国の勢力と戦い、さらにパルティア人によってはじめられた、イラン伝統文化の復興を推し進めた。
ササン朝は、聖なる火を振興するゾロアスター教を国教として人々の士気を高揚し、彼らの「王のなかの王」はペルシア帝国の守護神アフラマズダから権力の象徴として王冠を授与されたのだと主張していた。しかし、アケメネス朝が他の宗教に寛容であったのに対し、熱狂的なゾロアスター教の
布教者であったササン朝はこの預言者の説く信仰を強制した。
ササン朝ペルシア 戻る
ペルセポリスの付近のアヒナータ神殿の司をしていた、ササンの一族がおこした国である。
定住民の南部イラン族が遊牧民の北部イラン族(パルティア)にとってかわる。ササンの孫のアルダシールのとき、パルティア王国を滅ぼし、「諸王の王」(シャーハシャー)と号した。そして、クテシフォンに都を定めた。
アルダシールの子がシャープール1世(在241〜272年)は、「イランと非イランの諸王の王」という称号を用いた。中央アジアのクシャーナ朝やローマ帝国と抗争した。
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シャープール1世の後ろに立ち、右手を捕まえられている人物が、ローマ皇帝ヴァレリアヌスである。ペルシア側の言い伝えによると、この二人の皇帝は一騎打ちをしたとのことである。
ホスロー1世の時代(531〜57年) 戻る
ビザンツ帝国の使節が首都クテシフォンを訪れたとき、王宮前の広場が不規則な形をしているのを見ていぶかしく思い、理由を尋ねた。すると、ここにはもと一人の老婆が住んでいたが、ホスロー1世が高額の金を与えるといっても立ち退きに応じない。王の権力をもってすれば、強制的に立ち退かせることもできたであろう。しかし、ホスローはそのまま老婆を住まわせた。そのために王宮の前は不規則なのだという説明をした。使節は、「この不規則さは、同類の整いよりも美しい」と感激したという。(一人の老婆の家を取り上げなかったホスロー)
インドの王がホスローのもとに使節を送り、数々の贈り物をしたが、そのなかにチェスがあった。そして、これでもって、その使者と勝負をしてもらいたい。それができなければ、今後はペルシアの方からインドに貢物をおくれという。
さすがにホスローもこれには困り、7日間の猶予を求めたが、誰一人チェスのさし方さえしらない。たまたま、ブズルクミクルが王の窮状を見るにしのびず、一昼夜の間指し方を研究し、そしてもののみごとにインド王の使節を打ち負かした。これ以来、ペルシアにチェスが流行し、それがアラビア人の間を経て、ついにヨーロッパ諸国に伝わったとされる。ブズルミクルは逆に双六を考案し、ホスローはこれを使節に持たせてインド王のもとにやり、チェスに困らされた仕返しをしたと、フィルドゥーシーは、その詩篇のなかでうたいあげている。これも、中国をへて日本に伝わった。
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そのころバビロニアには、キリスト教徒やユダヤ教徒だけでなく、仏教徒やバラモン教徒などもいた。マニ自身もインドにいき、2年間くらい滞在している。
1世は、マニを保護し布教を許した。シャープールの死後、ゾロアスター教に心酔していた弟が即位すると、拷問を加えて殺してしまったという。
マニ教は東は中国から、西は大西洋岸まで広まったたが、いたるところで厳しい迫害をうけ、13世紀頃には衰えてしまった。
【パルティアとササン朝】
A 自然と民族
1 三つの地域 − 平野・砂漠・高原
2 イラン人 − 農耕民(ササン朝)と遊牧民(パルティア) とがある
B イラン地域の変遷
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《古代オリエント〜ヘレニズム時代》 教科書P26・P35参考
○ リディア(前9世紀〜前550、インド・ヨーロッパ語族系- イラン系の最初の国家)
→ (14 )朝ペルシア(前550〜前330- 全オリエント支配)
→ アレクサンドロス大王の征服 → 大王の死
→ (15 )朝がアジア領支配(前4C〜前1C- ギリシア系住民の移住がすすむ)
前3世紀なかば、中央アジアで(16 )の建国(ギリシア系、ア
ム川流域) 。ついで、カスピ海東南でパルティア(遊牧イラン人)の建国
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C パルティア(前248?〜226年)(17 )(建国者アルサケスの名に由来)
※ 都(18 )
1 最盛期(前2世紀中頃)
東方では(19 )・大月氏・クシャーナ朝と国境を接する
2 東西貿易を独占して繁栄(漢の絹・西方のガラス)
3 セレウコス朝を倒したローマと争い衰退(前1世紀なかば)
→ 農耕イラン人のササン朝により滅亡(226年)
E ササン朝ペルシア(226〜651年) 都(20 )
※ (21 )朝の古都ペルセポリス付近におこる
1 (22 )(2代皇帝、3C) → 世界帝国の建設を意図
@ ロ−マ軍を圧倒(皇帝ヴァレリアヌスを捕虜)
A 東方では(23 )朝を滅し、インダス川まで領土拡大
→ 5世紀後半、(24 )(中央アジアの遊牧民) の侵入で動揺
2 (25 )(6世紀中ごろ) − 最盛期
@ 突厥(トルコ系遊牧民→P86) と結んで(26 )(5〜6世紀、白匈奴) を滅ぼす
A ビザンツ(東ローマ)帝国(ユスティニアヌス帝のとき)と抗争 → 黒海沿岸へ進出
3 滅亡(651年)
7世紀なかば、(27 )の戦いでアラブ人(イスラム教徒)に敗
北し(642年)、事実上崩壊する(→P108)
【イラン文明】
A パルティアの文化
前半はヘレニズムの影響を強くうける → 後半はイラン伝統文化が復活のきざし
B ササン朝の文化
1 特色
@ イラン人の伝統文化の復興
A ヘレニズム・メソポタミア・インドの諸文明をとりいれ国際色豊かな文化
2 宗教
@ (28 )教を国教、経典(29 )を編集
→ 唐代の中国に伝わりD教という
A (30 )教 − 始祖マニ、諸宗教(ゾロアスター教・仏教・キリスト教)を融合
→ 国内では弾圧 → 北アフリカ・ウイグル人(中央アジア) ・唐代の中国へ
B (31 )派キリスト教(→エフェソスの公会議で異端、P47)
→ 唐代の中国へ伝わり(32 )という
3 建築・美術・工芸の発達 − 精巧な銀器・ガラス器・毛織物・彩釉陶器
→ イスラム時代に受けつがれる
※ 東西交通の中継地→(33 )(ドイツのリヒトホ-エンが命名)を経て東西に伝播
1 西方 − ビザンツ(東ローマ)帝国をへて地中海域へ
3 東方 − 中国の南北朝・隋・(34 )時代の中国をへて飛鳥・奈良時
代の日本へ
→ (35 )の獅子狩文錦、正倉院の漆胡瓶・白瑠璃碗など
☆ 重要語句
メソアメリカ文明 マヤ文明 アステカ文明 アンデス文明 インカ帝国
コルテス ピサロ バクトリア パルティア(安息) ササン朝ペルシア
エフタル シャープール1世 ホスロー1世 ニハーヴァンドの戦い
ゾロアスター教 アヴェスタ マニ教 ササン朝美術
☆ 重要年代
ホスロー1世時代の世紀 ニハーヴァンドの戦い(642) ササン朝の滅亡
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