3 インドの古典文明
インドの地勢 戻る
紀元前4世紀のインドの人口は約1億であったといわれている。かつて中央アジアから進入したアーリア人の子孫や、それにつづいて多くの侵入者があった。彼らはすべて、すべてを包み込むインドの一部となっていった。
インド亜大陸の地理は、北にそびえるヒマラヤ山脈とヒンドゥークシ山脈によって、ユーラシア大陸から切り離されている。幅240キロメートル、高さ7500メートルの大きな壁であった。しかし、人間は2本の足がある限り、自然の障壁を乗り越えて自分の思うところに移動してきた。インドを隔てる自然の障壁も、そこを通り抜けるのは、人間にとってそんなに難しいことではなかった。雪解け水が川をつくり、その川が自然の通路をつくっていた。また、カイバル峠などの山間の峠道を通り、インドの歴史上、さまざまな部族が中央アジアから侵入してきたのである。
侵入者はヒンドゥークシ山脈やヒマラヤ山脈の尾根や渓谷を通り、山間の通路を通り、55キロメートルのカイバル峠など曲がりくねった山峡を抜けて、パンジャーブ地方の丘陵地帯に入るのである。
そこから、南東に向かえば、ガンジス川流域の肥沃なヒンドゥスターン平原にはいる。そして、そのまま進めば、ベンガル湾に到達する。一方、南西にインダス川にそって進めばシンド地方に到達する。ここは、タール砂漠によってインドの中央部からは隔絶し、さらに海と山脈と砂漠に囲まれていた。また、ヒンドゥスターン平原からチャンパル川に沿って南に進めば、潅木が点在するだけの荒涼たる不毛の草原 ─ デカン高原にいたる。ここからガーツ山脈をこえると、細長くつづく沿岸平野に入る。ここへは、進入することも困難である。ジャングルの鬱蒼としたナルマダー川と切り立ったヴィンディヤ山脈が、ヒンドゥスターン平原とデカン高原を切り離している。
デカン高原の南は、海岸に向かって緩やかに傾斜がつづき、海岸平野になっている。ここには、肌色が黒いドラヴィダ系の人々が住んでいる。彼らは、インドにもっとも早く移住してきた人々で、今でもこのドラヴィダ人の肉体的な特徴が強い地域である。
紀元前1500年頃、中央アジアから新たな侵入がはじまった。肌が白く、背が高い遊牧民であった。彼らは、自らをアーリア人(高貴な者)とよんだ。
インダス文明 ─ インド文化の源流 戻る
紀元前2500年頃から1500年頃までの間、約1000年間にわたって繁栄したあと姿を消してしまった。 1922年、現在のパキスタンで石製の印章が見つかった。この文明の最大の都市は、インダス川の本流に沿ったモヘンジョダロとそこから北東600キロメートルにあるインダス川の支流に沿ったハラッパーである。また、キャンベイ湾に面したロタールには、レンガで築かれた全長200メートルの波止場が築かれており、そこでは水門を調節して潮の高低にかかわらず水位を調節して、船に荷が積めるようになっていた。 モヘンジョダロとハラッパーの二大都市は、どちらも周囲が約4.8キロメートルの矩形をしていて、5階建てのビルに匹敵する高さの城塞があった。このなかには、大きな穀物倉庫、儀式用の大広間、宗教儀式に関係していたと考えられる大浴場があった。また、市街地が碁盤の目のように走り、大小の道路が東西南北に走っていた。道路の両側にはレンガ造りの住宅や商店が並んでいた。通りに面する側の壁には窓がなく、後ろの路地から出入りするようになっていた。また、下水設備もつくられ、屋内の便所と浴室の排水は下水路と排水溝をとおって、大通りの地下を走る下水管に流されていた。そして、ところどころには、検査しやすいようにマンホールが設けられていた。インダス文明の技術水準の高さを示している。
商業で使われた実用品と考えられる滑石製の印章 ─ 一辺が2.5センチほどの正方形で、綿や穀物を詰めた袋を区別するのに使われたと考えられている。モヘンジョダロだけでも1000個以上の印章が発掘され、遠くメソポタミア文明の諸都市からも出土している。 1000年にわたる農業・牧畜が土地を疲弊させ文明を支えることができなくなったのかもしれない。また、モヘンジョダロに残る大洪水のあとから、何回もの洪水によって、どこかの土地に移住したのかもしれない。
アーリア人の侵入 戻る
インダス文明の消滅の原因については定かではないが、北部のインダス文明への最後の一撃は、前2000年期の半ばごろ、中央アジアからインドの北西部へなだれ込んだ、背が高く、肌色の白い遊牧民である。彼らは、この地方を荒らしまわって、この地の文明に終止符を打ったのである。 侵入者たちは自らをアーリア人(高貴な者という意味)とよんだ。前2000年ごろ中央アジアの草原地帯から移動をはじめたインド=ヨーロッパ語族。その一部は小アジアとペルシアに定着し、一部はバルカン半島へ移動してギリシア人の祖先となり、そしてそのなかでも主要な民族であったアーリア人は、数百年かけてインドに達したであった。アーリア人は、インド北西部をぬけてパンジャーブ地方に入り、攻撃には馬にひかせた軽快な二輪馬車にのって襲いかかった。
ヴェーダ 戻る
アーリア人は都市も彫像も石の印章や土器・レンガや墓地もつくらなかった。考古学者が発掘して解明しようとしても、対象になるものがないのである。しかし、当時のアーリア人の歴史と社会に関する唯一の資料は、彼らの進行と祭儀に関する詳細な記録(宗教文献)であった。この記録は複雑な詩の形をとり、口から口へと伝えられ、1,000年の間にしだいに形作られていった。4書からなるこの記録はヴェーダとよばれ、この時代をヴェーダ時代という。
4書のヴェーダのうち最も重要なものはリグ=ヴェーダで、約1,000の賛歌からなっている。祭式や呪法に用いる詞、儀式の訓式、自然をうたった詩、そしてサイコロ運が悪いことを嘆くような世俗的な歌など、さまざまな詩歌が集められている。
他の3書は、ヤジュール=ヴェーダ、サーマ=ヴェーダ、アタルヴァ=ヴェーダといい、リグ=ヴェーダよりも専門的で、祭式の実務についての指示、祭官たちのうたう詠歌などがあつめられている。 また、ヴェーダ時代には、ヴェーダに関する注釈書、そしてその注釈書についての注釈書がしだいに形を整えていく。ブラーフマナという注釈書は、祭儀上の特殊な技術について微に入り細に入り述べている。
哲学的理論を集大成したウパニシャッド(奥儀書)は、祭儀の実務よりはその奥儀に関して述べている。つまり、宇宙とその中での人間の地位に関する思弁的解釈を述べている。
これらの聖典を通して、アーリア人の宗教や社会について多くのことを知ることができるのである。
ヴェーダが描き出しているアーリア人は、非常にプライドが高く、他の民族を自分たちより劣るものとみなし、ゆるぎない自信を持っていた。インド各地に住む非アーリア系の民族に対しては、軽蔑と嘲笑の念を持っていた。 パンジャーブ地方に定住して農業の技術を身につけたアーリア人は、しばらくすると、さらにインドの内部へ移動を開始した。かれらは南東に進み、ガンジス川流域のヒンドゥスターン平原の中央部に征服を進めた。そしてやがて、デカン高原にも入り始めた。
アーリア人は土着の諸民族との戦いを繰り返しながら征服を進めた。ヴェーダには、パニ族やダーサ族がでてくる。ダーサ族は「言葉の汚い、鼻べちゃの人々」と描写されている。 アーリア人は、新しい土地や新しい民族と接触し、その生活を次第に変化させていった。各地を転々としていた諸部族は、小さな王国をつくって定住生活に入った。かつて、貴族のなかから互選されていた部族の長は、世襲の王へと変わっていった。そして、征服民と非征服民が混じりあった複雑な階級構造が形成されていった。
バラモン教 戻る
バラモン(司祭)たちは、リグ=ヴェーダにみられる簡単な儀式をもとに、複雑きわまる祭儀を作り上げていった。そして、もし、祭儀がまちがいなく執り行われなければ、重大な災難が降りかかると強調した。祭壇のレンガがほんの少しはみ出ているだけでも、また生け贄えとしてささげられた山羊が少しでも間違った場所におかれたとしても、リタとよばれる宇宙の秩序が崩れ去って、この世に大混乱が起きるというのである。
この祭儀を規定どおり正確におこなわなければならないという考え方は、バラモン(司祭)の地位を高めた。なぜなら、複雑きわまりない儀式を間違わずにおこなうことができるのは、その知識を独占した司祭たちだけであったからである。リタという宇宙の秩序は、祭儀がささげられる神々よりも、祭儀を正確におこなえるかどうかにかかっていたからである。
神はリタを守るにすぎない。実際に影響を与えるのは祭儀なのである。そして、その祭儀を正確におこなえるのは、司祭だけなのである。だから、彼らは宇宙の中で最も重要な存在ということになる。
死と再生の循環 ― 輪廻
来世は、その人がこの世で善い生活を送ったか、悪い生活を送ったかに左右される。来世における地位が上がるか下がるか、幸福になるか不幸になるかは、現世の行いによって決まるのである。カルマ(業)という、ヒンドゥー教の概念が次第に形作られていった。
いつの時代においても、とくに牛は尊重された。インダス川流域に住んだ人たちは、雄牛の姿を精巧に刻んだ、数百の印章を残しているし、遊牧生活を営んだアーリア人は、所有する牛の数で財産をはかり、牛を貨幣がわりに使った。また、ヒンドゥー教徒は今も牛を殺すことを禁じている。
ウパニシャッド 戻る
リグ=ヴェーダは前2000期に成立している。様々な神に捧げられた賛歌、戦いの神、火の神をはじめ、空、太陽、月、川、嵐、動物、木、その他のアミニズム的精霊にいたるまでの神々に捧げられた賛歌を集めているのは、さきほども述べたとおりである。リグ=ヴェーダがつくられてから、インドの哲学者たちは、その注釈書を作りはじめた。そこから生まれた重要な作品が、哲学的思考を集大成したウパニシャッドとよばれるものである。人間と宇宙の本質、そして、両者の関係を哲学的に深く追求している。
「我々はどこで生まれ、どこで生き、どこに行くのであろうか」とウパニシャッドは問いかける。すべての神、すべての人間、宇宙の数多くの物事のすべては、一つの本質が発現したものである。ブラフマン(梵)とよばれるその本質は、それから発現したあらゆるもののなかに宿る、という考え方が展開する。ウパニシャッドでは、そのブラフマンを次のような言葉でしか描写していない。
「万物の中にひそみ、万物に偏満し、万物の中の我であり、すべての所作を見守り、万物に宿り、一切を見て、一切を知る・・・・唯一の支配者であり・・・一個の状態を多数にする」。
すべての事物は、宇宙に偏満する唯一の本質が単に形を変えて現れたものにすぎない、という考え方である。このような考え方によって、宇宙全体は、各個人の「我」(アートマン)と関係づけられる。アートマンもそれは存在しているが、実際には捕らえることはできない。ウパニシャッドの説明によれば、この境地に達するには、何回も生まれ変わらなければならないという。宇宙の本質との合一を究極の目標とするこの考え方(輪廻、カルマ、ダルマ)はインドの宗教の基礎を形成している。
前6世紀の半ばになると、司祭以外の人々も哲学的な探求を始めるようになった。バラモンの宗教的・知的支配に戦いを挑んだものも多い。ある者は快楽主義に転じて世俗の快楽を重視し、ある者は苦行と瞑想の生活の中で人生の意味を追求した。彼等は家族を捨て、友を残し、財産をすべてなげうって、静かな森の中にこもり、もっぱら黙想の世界に没入した。
世の中から離れた生活を送る彼らの目的は、情欲を絶って心の中の安らぎを探し求めること。焼けつくような太陽の下で燃え立つ火の近くに座ったり、釘の上を歩いたり、腕が萎縮するまで片手を頭の上にあげていたりするなど、自己に絶大な苦行を課した。何時間も静座するという方法で、注意力のすべてを心の中だけに向けて、人間と宇宙の神秘を解こうと試みたりした。
ここで人生の意味についての新しい解釈を得た彼らは、住処の森をあとにし各地を行脚し、耳を傾けようとする人に向かって教えを説いた。しかし、大部分の信仰は短期間だけ栄えて消えていった。数百、あるいは数千の新興宗教のうち、生き残ったの二つだけであった。この二つ(ジャイナ教と仏教)は、バラモンの伝統を変えたばかりか、独自の重要な宗教として今日にいたっている。
ジャイナ教 ─ バルダマーナ 戻る
父はインドの王侯でネパールの南に住むジュナートリカ族の強力な首長。30歳で両親が死ぬと、彼は財産をすべてすてて各地を托鉢して歩く生活に入る。最初から彼は極端な苦行をした。修行・瞑想などに12年間捧げたのち、ついにすべての苦行者の目標、生と死の意味についての瞬間的な知覚、つまり悟りの境地に到達する。彼のもとにはまたたくまに信者が集まり、彼のことをマハーヴィーラ(大勇)とかジナ(勝者)とよんだ。彼が創始した宗教・ジャイナ教(勝者の宗教)の名は、この後者に由来。
霊魂の浄化
魂をきよめることは、なまやさしい仕事ではない。生きていくこと自体が、汚れを生み出す。盗みとか嘘の行為を戒める。それはすでに霊魂をおおっている不浄を増すから。彼がとくに戒めたのは、いかなる生命をも殺すこと。殺生の禁戒。
昆虫を踏み殺すのを恐れてホウキで道を掃きながら歩いたり、空気中にただよう微細な生物を吸い込むことを恐れて、鼻と口をマスクでおおったりしたという事実。今日でも正統派のジャイナ教徒は、肉食を避け、暗がりでは虫に害を加えるかもしれないというので、昼間しか食事をとらない。彼は72歳のとき、断食して自らの命を絶ったという。救いを求めるための手段として苦行を行うことは、それ以前からインドの伝統となっていたものである。
ゴータマ=シッダールタ 戻る
マハーヴィラよりもはるかに非凡な精神力をもつ人物が、ジャイナ教とほぼ時を同じくして現れる。ゴータマ=シッダールタ、ブッダ(仏陀)、釈迦である。
ゴータマが宗教の道に入るようになるきっかけを伝えるのに、四門仏游の伝説がある。
誕生の5日後ある占い師が幼子をみて、この子は家にあれば「転輪聖王」つまり全世界の支配者になるであろうし、この世の悲惨を見て出家すれば全世界の救世主となるであろうと予言した。父は当然この二つのうちの後者をさけるため、王子には人間の悲惨さをみせないようにしようと決意し、命をくだして王室の庭園から病人と貧乏人を追い立てた。
ある日思いもよらぬことがおこり、馬車に乗って園を出たとき、腰のまがったよぼよぼの老人に出会った。彼は御者に“この生き物は何か“と尋ねた。その老人から、人はすべて老いるということを知る。それからほどなく、再び馬車で園内を出た彼は、ただれて醜くなり、おこりにかかってふるえている男を見た。この出会いで、人は病に苦しむということを知る。第3門において、彼は死人を見て、人は死ぬという事実を教えられる。第4門で彼が出会ったのは、黄色い粗衣のほかに何もつけず、食物を乞う鉢をもっただけのまちがいなく満足している乞食をみる。最後の出会いによって、それが自分の進む道であると理解した。
はじめに、ウパニシャッドの奥義を伝授している学識豊かな導師の門をたたく。しかし、その教えは彼を満足させない。彼は導師のもとを去る。次に、苦行生活を通じて真理を得ようと務める。一日わずか一粒の豆しか口にせず、やがて非常にやせ、腹の上に手をおくと背骨にふれることができるほどになったという。こうして修行をはじめて6年経ったある日のこと、彼はついに倒れた。たまたま通りかかった娘が彼に粥を食べさせてくれたので、命を取りとめた。苦行 ― 厳格きわまりない自我の否定は、彼が求めている道でないと知ったゴータマは、今度こそというので、ベナレスの近くにある町ガヤーの郊外の菩提樹の下にじっと座り立ち上がるまいと決意した。木の下にあること49日、彼はブッダ(正覚者)となった。その後さらに49日間、彼は木の下で自分の解いた謎について熟慮を重ね、自分が知ったことを人々に教えようと、聖都ベナレスに向かった。
ここでの説法の中で、ブッダは「四諦八正道」の真理を悟る。 四諦の第一は、生はドゥッカ(苦と訳される)であるという真理である。生は正しい位置から離れた状態。四諦の第二は、苦の原因はタンハであるという真理。タンハは個人的な目的を果たすための強い欲望を意味する。我欲。四諦の第三は、その自己のための欲望は克服しなければならぬ(滅)であり、第四の真理は、克服するための方法は「八正道」であるというものである。
マウリヤ朝の統一 戻る
紀元前320年ごろ、チャンドラグプタ=マウリヤという若いインドの武将が帝国の建設に取り組む。ガンジス川中流域のマガダ国。インドの北西部のパンジャーブ地方やインダス川流域は、ペルシア人やギリシア人がそこを相次いで支配していた。
マガダ国
ガンジス川を利用しての商業の発達。肥沃な平野。有利な条件のもと、しだいに拡大する。前6世紀に国王となったビンビサーラと彼の後継者によって、マガダ国はガンジス川流域随一の強大な国家となる。
チャンドラグプタの素性についてはあまりわかっていないが、彼が有能な軍事指導者として頭角をあらわし、マガダ王国の正統王朝に対して、それを打倒したことは間違いない事実である。そして、ひとたび権力を握るや、インダス川流域までの北西インドに目を向けた。
西方の地域は、インド北東部とはきわめて異なる歴史を持つ。前531年ペルシア帝国創始者キュロス大王は、軍を率いてヒンドゥークシ山脈をこえインドに侵入した。 前518年までに彼の後継者ダリウス1世は、インダス川流域とパンジャーブ地方を征服した。こうして、インド北西部はペルシア帝国の属州、いわゆる20番目の州となる。その後ほぼ200年間の間、ペルシアはこの地方一帯に圧制をしく。ギリシアの歴史家ヘロドトスによれば、前479年にギリシアを攻撃したとき、その麾下にインド人の部隊がいたという。
この地におけるペルシアの支配に終止符をうったのは、アレクサンダー大王。彼の軍はインド北西部に侵入して、ペルシア軍とインドの原住民の軍を破り、次々と植民地を建設していった。2年とたたぬうちに、アレクサンダーはインドを立ち去る。
アレクサンダーが撤退すると、インド北西部のマケドニアの基地や守備隊はすぐに弱体化していった。ここに権力の空白状態がつくられた。そして、それを埋めることを考えたのがチャンドラグプタ=マウリヤであった。彼がマガダ王となったのは、アレキサンダーの撤退後2年後であるが、その地位につくや時をうつさず、北西部に軍を進めた。
そして、チャンドラグプタはパンジャーブ地方とインダス川流域の支配者となった。前305年、彼は、アレクサンダーの後継者でインドの属領を回復しようとしたセレウコス=ニーカトールと会戦してこれを撃破した(伝説によると、セレウコスは和平を結ぶにあたって自分の娘をチャンドラグプタに妃として与え、これに対し、インドの支配者は打ち負かした相手に500頭の象を贈ったという。
彼は、インド北東部、今のパトナに首都パータリプトラを建設し、そこからインダス・ガンジス両川に沿った平野と北西部の高地を含む帝国を支配した。
チャンドラグプタの孫、マウリヤ朝3代目の王アショーカは、マウリヤ帝国の絶頂期を築き上げる。
ギリシアの外交官メガステネスが残した見聞録が利用され、この時期のできごとは比較的正確にわかっている。メガステネスは、セレウコス=ニーカトールの使節として数年間チャンドラグプタの宮廷に出入した人物である。チャンドラグプタの宰相カウティリアの「アルタ=シャーストラ(実利論)」とよばれる国政の指針を内容とした書物もある。中でもいちばん重要なのが、石柱や岩壁に刻まれたアショーカ王の詔勅文である。これは当時の記録というだけでなく、当時最高の倫理法典になっている。
アショーカ王 戻る
インド史上はじめて「善と徳と非暴力」を政治の要に据える人物。歴史学者A・L・バシャムは「インド史上における最高の、もっとも高貴な支配者、いや世界でも指折りの偉大な王」であった。
この高貴さと偉大さとを一番よく証明しているのは、アショーカ詔勅として刻まれた王自身の有名な言葉。岩壁・洞窟・特別にたてられた石柱などに刻まれた約30の刻文が発見。「法」による支配。アショーカがいっている「法」はブッダの教え。意味の広い「法」という言葉を使う。パータリプトラにおいて仏教学者の結集(会議)が開かれ、経典の編纂がおこなわれる。王が残した記録によると、エジプト・マケドニア・近東などの王のもとに使節を送り、仏教に帰依するように呼びかけた。アショーカの子(一説によると弟)は、セイロン王を改宗させるのに成功している。そこから仏教は東南アジア各地に広がった。
国内においては仏教の理想を実行し、民衆の日常生活の向上に力を注いだ。
前232年の王位の死の後、50年もたたないうちにマウリヤ朝は崩壊した。
インドの指導者ネルーは、この古代の先人に対して繰り返し繰り返し賛辞を捧げている。政治犯として獄につながれていところ、ネルーは自分の娘にあてた手紙の中で、「アショーカの記憶はアジアに生きている。彼の詔勅は、今なお私たちに向かって語りかけている。私たちは、まだそこから多くのことを学ぶことができるのだ」と述べている。
クシャーナ朝 戻る
マウリヤ朝のあとの数百年間は分裂状態が続く。ペルシア・アフガニスタン・中央アジアから侵入の波が続く。
第一の侵入民族は、前2世紀に入ったギリシア人。彼らはヒンドゥークシ山脈の北、アレクサンダー大王の麾下の将軍たちが王国を建てていた中央アジアの一角、バクトリアから侵入。
つづいて同じく中央アジアのオクサス川流域からサカ族(スキタイ人) また、イラン高原からはパルティア人。さらにその後、モンゴル高原の匈奴に故国を追われバクトリアに逃げた中央アジアの遊牧民・月氏の子孫にあたるクシャーナ人が侵入してきた。
侵入してきた諸民族は、インド南西部に一度も来ることはなかった。南インドは、北部の動乱時代を通じて、まさに離れ小島のような存在。アショーカ王の時代にもインド最南端の地域では、チョーラ・パーンディヤ・チェーラの三つの王国が完全に独立を保っていた。これらの王国はそれ以後の時代でも独立を保っている。この地域に住んだ人々は、人種的には特異なグループに属し、アーリア人ではなく先史時代に定着したドラヴィダ人の血を引いていた。
北部においては、中央アジアから諸民族が連続して侵入してきた。しかし、広大な永続性のある帝国を建設するのに成功したのはクシャーナ人だけであった。彼らは前1世紀にヒンドゥークシ山脈を越えた後、パンジャーブ地方を占領し、その領土を広げてインド北西部の大部分を勢力下におさめて、この地域をほぼ200年間にわたって支配した。
カニシカ王 戻る
仏教における大きな変化は、クシャーナ朝最高の王カニシカ王の治世の時におこる。王はみずから仏教を大いに奨励し、その教えを中央アジアに伝え、さらにそこから東アジアに広めるのに力をかしている。
大乗仏教の成立。インドの彫刻家たちがはじめてブッダを像に刻む。
前3世紀クシャーナ朝の崩壊により、仏教は王国の強力な支持を失う。一方バラモンの教えは、それまでつねにインドの大多数の人々の生活に浸透し、インドの社会組織に対する支配力を保持しつづけてきた。上流階級の人々が仏教徒になったのちにおいても、この事情には変わりがなかった。ここのインドにおける仏教が衰退してゆくとともに、バラモンは再起して、その力を盛り返した。
グプタ朝 戻る
クシャーナ朝の崩壊で、インド北西部は前4世紀にチャンドラグプタ=マウリヤが台頭した直前と似かよった権力の真空状態を生じる。新しい帝国が発展したのは北東部のマガダ国であったし、そのうえ、初代の王の名前がなんとチャンドラグプタ1世であった。
チャンドラグプタ1世は335年に没するまで、北インドの広大な地域を支配下におき、根拠地のマガダから、ほぼ現在のアッラーハーバードにまで勢力をのばした。
チャンドラグプタ1世の孫・3代目のチャンドラグプタ2世のとき、帝国は最大版図に達する。ベンガルからアラビア海にいたる北インドを完全に掌握。一方で熱烈な芸術の保護者として、インドに最高に平和な時代をもたらした英主として、グプタ朝最大の栄主の名を持って知られる。彼の治世において、数世紀にわたって彫刻・絵画・文学・科学技術の発達は頂点に達した。
このグプタ朝のインドについて、現存する最良の見聞記をあらわすのが法顕という名の中国僧であった。「仏国記」。チャンドラグプタ2世の401年から410年にかけて、仏教の僧院から僧院へと全国をまたにかけて旅行。彼の目的は正しい仏典を探すことであった。世俗生活については最小限にしか記述されていないが、その少しの記述でも、グプタ朝歴代の君主がインドに空前絶後の平和と繁栄をもたらしていることがわかる。他国から来た自分が、帝国の端から端までをまったく安全に通行証をもたずに旅行することができた。それが、その何よりの証拠であると述べている。
ナーランダーの大学には8の学部と3の図書館があり、アジア各地から学生をあつめていた。天文学者は、地球が丸く自転していることを知っていた。数学、なかでも代数学はずば抜けていて、負数・2次方程式・2の平方根などを使って、ゼロの概念やアラビア数字の体系をうみだした。アラビア数字は数世紀後にアラビアの数学者を通じてインドからヨーロッパへと伝えられた。
ヴァルダナ朝 戻る
グプタ朝滅亡後の北インドは諸勢力が割拠し、カナウジのマウカリ朝、ベンガル王国、アッサムの勢力が争っていた。606年、ハルシャの兄が殺されたため、16歳のハルシャ・ヴァルダナが若くして王位に就いた。王となったハルシャは北インドの全域を支配する。北インドの安定は王の即位後30年続く。647年の王の死後は北インドの統一は、急速に崩壊する。ハルシャは、シーラーディティヤ(戒日王)と称し、その王国はヴァルダナ朝とよばれた。
【インドの風土と民族】
A 風土
山脈に囲まれた季節風
(モンスーン) 地帯
( )峠
― インドと中央アジアを結ぶ通路
B 民族
北インド
― アーリア人(インド=ヨーロッパ語族)の侵入
インダス川・ガンジス川流域が中心
南インド
― (1 )系の民族(インドの先住民族?)
海を利用し、ローマ・東南アジア・中国と交流
【インダス文明】
※ 前2300〜前1800年ごろ、ドラヴィダ系の民族?
A 遺跡
(
2 )(下流、シンド地方)
(
3 )(上流、パンジャーブ地方)
B 特色
1 青銅器文明
2 都市計画
― 排水設備(上下水道)、大浴場、焼き煉瓦住宅
3 (
4 )文字(インダス文字) ― 印章に刻まれる、未解読
C 衰退
前1800年頃より、洪水や気候の変化など?
(アーリア人の侵入説、森林伐採による環境破壊説も)
【アーリア人の侵入】
A アーリア人
のインド侵入
1 インド=ヨーロッパ系、中央アジアで半農半牧の生活
2 前1500年頃までに(
5 )地方に定住
3 初期の社会
部族を単位に村落を形成 ― 族長=ラージャ
4 自然神の崇拝
@ (6 ) ― 神々に対する賛歌・儀礼(→ のちのバラモン教の聖典)
(
7 )(前1200〜前1000年 - 当時のアーリア人の文化と生活を伝える)が最古
サーマ=ヴェーダ(詠歌集)、ヤジュル=ヴェーダ(祭式の語録集)、
アタルヴァ=ヴェーダ(呪文集)
B カースト制度とバラモン教
1 (
8 )川流域へ進出(前1000年頃)
鉄の農具・武器を使用
→ 農業生産力の向上 → 都市、小王国の形成
→ 前7世紀頃、16王国
2 四種姓(
9 )の成立
(
10 ) ― 司祭者(宗教儀式をおこなう)
(
11 ) ― 武士・貴族
(
12 ) ― 庶民
(
13 ) ― 隷属民(被征服民)
※ カースト制度 ― ヴァルナとジャーティの結びついたもの
職業の世襲・カースト間の婚姻禁止など
インド社会の近代化阻害、現在にいたる
3 バラモン教
― ヴェーダを根本聖典とする
バラモンが祭儀を司る
祭式を重視する形式主義
→ 社会の発展を阻害
【新宗教の成立】
A 新宗教成立の背景
1 祭式万能のバラモン教への反省と批判
2 社会の変化
クシャトリア・ヴァイシャの勢力が増大
(←国家の統合・商工業の発達)
→ バラモン支配への不満
B (
14 )(奥義書、ヴェーダの奥義を記す) ― 世界最古の哲学思想
1 梵我一如
ブラフマン(梵)とアートマン(我)の一致で、輪廻からの解脱
C ジャイナ教
1 (
15 )(尊称マハーヴィ−ラ)がひらく(前500年頃)
2 特色
@ バラモンの権威を否定
A 肉体的苦行と(16 )主義
3 (
17 )(特に商人)が支持
D 仏教
1 シャカ族の王子(
18 )(釈迦牟尼)がひらく
2 特色
@ 無常観
A (19 )(正しい道)の実践により四苦(生老病死)からの解脱
B 人間の平等、カースト制度否定
3 (
20 )が支持
E 二大叙事詩 「
21 」「22 」の原形
クシャトリアを主人公
→ 社会的地位向上を反映
【古代統一国家の成立】
A 統一への過程
1 16王国の分立(前6世紀頃)
― 北インドを中心に対立・抗争
→ コーサラ国(ガンジス中流域) と(23 )(下流域) が有力
→ マガダ国がガンジス川流域を支配(前5世紀)
2 (
24 )大王が西北インド侵入(前4世紀後半)
→ 統一の機運
B マウリヤ朝
(前317ごろ〜前180年ごろ) ― インド初の統一王朝
1 都:(
26 )(現在のパトナ)
(
25 )がマガダ国ナンダ朝を滅ぼし建国(前4C末)
セレウコス朝シリア王(
27 )を撃退
→ アフガニスタンを領有
2 (
28 )王 ― 前3世紀、最盛期
@ 南インドを除くインドの大部分を統一
A 仏教信仰 ― ダルマ=法にもとづく政治
(
30 )・石柱碑の勅令
B 第3回(31 )(シャカの教説の編集、パーリ語)
仏塔
(ストゥーパ。サーンチーの仏塔が有名) の建立
C スリランカ(32 )島(スリランカ) への布教(マヒンダを派遣)
3 王の死後、衰退
→ 滅亡(前180ごろ)
【クシャーナ朝と仏教の革新】
A 西北インドへの異民族の侵入
(
33 )王国(前3世紀、ギリシア人)、遊牧イラン人のサカ族、月氏のクシャ
ーナ族がパンジャーブ地方
に侵入
B クシャーナ朝(1〜3世紀) 都:(
36 )(現在のペシャワール)
1 月氏(
35 )(前140ごろ〜1世紀、アム川北岸)からイラン系クシャーナ族が独立 → 西北インド侵入
2 (
37 )王の最盛期(2世紀)
@ 中央アジア〜ガンジス川中流域を支配
A 東西交通路の要地 → 貿易路独占によって繁栄
中国(後漢)とイラン(パルティア)・インドを結ぶ
B 仏教保護 ― 第4回(38 )結集
3 (
39 )仏教の確立
@ (43 )(竜樹)が理論を確立
A (42 )信仰を中心に万人救済を目的
B 北方へ伝播(北伝仏教)
中央アジア
→ 中国(1世紀) → 日本(6世紀)
※ 旧来の仏教を(40 )仏教(個人の救済を目的、上座部、南伝仏
教)とよぶ
4 (
44 )美術の成立 ― 最初の仏教美術
@ ギリシア彫刻の影響 → 仏像をつくる
A 大乗仏教とともに、中国・朝鮮・日本へ伝わる
C 南インド
1 (
46 )朝(アーンドラ朝、前1世紀〜3世紀)
ドラヴィダ系、ローマや東南アジアとの季節風貿易で繁栄
2 チョーラ朝(前3〜13世紀)、パーンディヤ朝(前3〜14世紀)
タミル語文学の発達
【ヒンドゥー国家と古典文化】
A グプタ朝(
49 〜 6世紀) 都:(50 )(華氏城)
1 チャンドラグプタ1世の建国
クシャーナ朝衰退後の北インドを統一
2 (
51 )(中国名:超日王)の最盛期
東晋の僧(
52 )が来る ― 旅行記:「53 」
3 ヒンドゥー教
(インド人の宗教の意味)の成立
(
54 )教と民間信仰の融合、仏教の影響
特定の教義・開祖・聖典なし
シヴァ神
(破壊神) 、ヴィシュヌ神(維持神) など
(
55 )法典の完成 ― インド人の生活指導書
4 仏教
― 民間の信仰は衰える
@ 教義の研究 ― (56 )僧院(5世紀成立、12世紀崩壊)が中心
A (57 )様式 ― 純インド的仏教美術(ガンダーラ様式を脱却)
(
58 )石窟寺院(仏教美術中心)
エローラ石窟寺院
(ヒンドゥー美術も含む)など
※ 中国の敦煌・雲崗の石窟寺院や法隆寺金堂壁画に影響
B インド古典文化の黄金時代
1 サンスクリット(梵語)文学
詩人カーリダーサ
(インドのシェークスピア) ― 「59 」
二大叙事詩が完成
― 「マハーバーラタ」、「ラーマーヤナ」
2 数学(インド数字、十進法、(
60 )の観念 → イスラム世界へ
C ヴァルダナ朝
― 古代インド最後の統一国家
1 グプタ朝の衰退
中央アジアの遊牧民(
61 )の侵入(5C末〜6C初)
2 ヴァルダナ朝 都:カナウジ
@ (62 )(中国名:戒日王、7世紀前半)
唐、ササン朝と交流
→ 唐(中国)の使節、王玄策が来る
仏教を保護
唐僧(
63 )の旅行(ナーランダ僧院で仏教研究)
旅行記:「
64 」
A 7世紀後半、唐僧(65 )が海路インドに往復
3 8世紀以降、イスラム教徒のインド侵入
lang=EN-US style='font-size:
11.0pt'>☆ 重要語句
ドラヴィダ人 アーリア人 インダス文明 モヘンジョ=ダロ ハラッパ
ヴェーダ リグ=ヴェーダ カースト制度 バラモン クシャトリア ヴァイャシ
シュードラ バラモン教 ウパニシャッド 仏教 ジャイナ教
ガウタマ=シッダールタ マハーバーラタ ラーマーヤナ マガダ国
マウルヤ朝 ヴァルダマーナ チャンドラグプタ アショーカ王 クシャーナ朝
セイロン島布教 仏典結集 大乗仏教 小乗仏教 カニシカ王 ナーガルジュナ
ガンダーラ美術 グプタ朝 サータヴァーハナ朝 ヒンドゥー教
チャンドラグプタ2世 法顕 マヌ法典 ナーランダ僧院 グプタ美術
アジャンタ石窟寺院 サンスクリット文学 シャクンタラー ヴァルダナ朝
カーリダーサ ハルシャ=ヴァルダナ 玄奘
lang=EN-US style='font-size:
11.0pt'>☆ 重要年代
アーリア人のインド侵入 アーリア人のガンジス川流域への進出
アショーカ王時代の世紀 カニシカ王時代の世紀
チャンドラグプタ2世時代の世紀 ハルシャ=ヴァルダナ時代の世紀
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