
須磨の海釣り
(2005.10.15 録)
一年ぶりに須磨海釣り公園に出かける。やや時季遅れの感あるが「小あじ」のさびき釣りをする。金曜日の午後だったが意外に釣り人は少なかった。大抵は暇つぶしの老人たちである。
久しぶりにこの海釣り公園にきて驚いたのは、最先端の「ロ」の字形に連なるメインの釣り場の先端がすぱっと無くなっていたことである。
どうやら台風の高波で押し流され、基幹の橋脚を残し上部橋梁全体が海中に沈んでしまったのだろうか。この海底には漁礁代わりに神戸市電の古い車両を沈めたと聞くが、それと同じ運命になったのか。
「釣り台補修工事中」の看板があり出入り禁止、絶好の釣り場には陣取りもできない、残念だが止むを得ない。そこで第二釣り台、管理塔の下に坐り、西向けに仕掛けを垂らす。

本日は中潮で満潮は午後5時過ぎ、釣り始めた時刻は2時過ぎ、西に流れる潮はやく、釣糸が横に流されて釣りにならない。そこで重い錘につけかえて2時間あまりねばってみた。結果は狙いの「小あじ」は一尾もあがらなかったが、長さ10センチほどの「イサギ」の子を20尾ほど釣り上げた。
好天で澄みきった青空、微風頬に海の香りもほのかで、爽快な半日の釣り行だった。
来年二月開港する神戸空港の発着試験飛行が先日来続けられており、双発機が時間をおいて上空を通過する。東方海上はるかに見える埋め立ての空港を飛び立って、西に向かい明石海峡大橋の上空を飛ぶ機影を追ったり、波間の沈む釣り糸を見おろしたり、退屈しない釣りでもあった。
この海釣り公園のロケーションはすばらしい。南は全面大阪湾を、西は明石海峡をはさみ淡路島や明石海峡大橋、海峡を過ぎる九州、四国行きの大型フェリーや外国船の群。


目を北側に転ずると、そこにはかの源平合戦でなじみある山が海浜に至り、「古の須磨の関此処なり」である。国道、JR、私鉄の各線が狭い海岸に併行し、往来する電車や自動車は後を絶たず、それらの光景を眺めていると、むかし「船上から源氏の軍勢を一望した平家の公達」の気持ちが察せられる。こうして眺めを楽しみながら釣り糸をたれると、釣果などあまり気にならない。
人出は少なかったが、おりよく居合わせた隣人が同年輩のせいで心安くなり、言葉遣いから同じ神戸住まいと判ったが、話しあううちに遠慮もなくなり、聞けば笑って、
「晩のおかずに形のよい鯵を釣ろう」ときたとのこと、本格的な流し釣りを始め、小一時間経ったころに潮のじあいがよくなり、竿先しなる鯖の入れ食い状態を現出、あっという間に10尾ほど釣り上げた。

針にかかった鯖は海中を右に左に横走りするので、その側で竿をだしている者は、その都度自分の釣り糸がからまないよう竿を上げる。再三にわたる私の仕草に、当の御仁も気兼ねしたのか。
「こんな大きな鯖は5尾もあれば十分や。お宅、よかったら家に持って帰ってや。」
と私のクーラーボックスに釣り上げるごと鯖を放り込むこと都合3尾、とれとれの鮮度のよい鯖を棚ボタで頂戴し恐縮の至り、これで今夜の食事が楽しみとなる。
かれこれ3時間楽しい談笑の後、一期一会の釣り友にふかく礼をいい、家路についた。
・・・ウキともに鯖や走りて腹ひかる・・・
・・・釣り終へて眺むる海や秋没日・・・


零戦のプラモデル
さっそく千数百円払って家に持ち帰り、半日間夢中になって組み立てた。
そして今、半製品の小さな機体を眺め、仕上げの塗装はどんな色にしようかと思案中、なんだか子どものころに返ったようで気分壮快である。
・・・プラモデルこどもに返る秋の昼・・・
零戦のプラモデルはむかし一度組み立てた記憶がある。“TAMIYAの1/48傑作機シリーズNO.16日本海軍零式艦上戦闘機52丙型(A6M5c)”と銘うつ紙箱を開くと、中に小さなプラスチックの素材が小さくおさまっている。
説明書を読むと「この型は戦争中まとまって製作された零戦最後の機種」とある。そうならば、かの「神風特別攻撃隊」出撃の先人達が乗った戦闘機と同じではないか。
(2008.11.20録)
(2008.10.2 録)
(2006.12.14 録)
「萬や」の飯
郷里を離れついつい足も遠のいてはいるが、年末になるとどうも気になる。「ひとつ墓参かね帰省するか」ということになった。
高知市からさらに西に車で五十分、到着した郷里の小高い山上の墓にもうでるとそこら辺り茅々たる有様、生い茂る草をみてわが手に余る気がした。仕方がないがそれでもと泥まみれになって作業すること十数分、草をむしり、花を飾り、水をやり、やっと一息ついた。その後、山を下り時計をみると昼に近い。
数日前のインターネット「満天土佐」や「中土佐日記」で町役場の近くに「萬や」という食事処があるのを知っていたので、昼食をとそのあたりを一周するが、動きながらの車外、情けないことに動態視力ともなわず「萬」の字を「草」と読み違え、ついついその店前を通り過ぎ、それではと通りかかった老婦に訊ねた。
すると彼女は私をしみじみながめ、
「あんた、〇〇さんじゃないの?」と言う。
「そうですが」と答えると、
「ほんと!××の〇〇さんにそっくりやねぇ、お墓参りにおいでちょったのですか、それはそれは」のご挨拶。
年格好から同じ歳くらいだが、何処のどなた様かとんと見当がつかぬ、いたしかたないのでただただ頷いてばかり、ひとしきり田舎話を聞かされたあげくやっと本筋の「萬や」にふれる。なんのことはない、先程通過した「草や」が「萬や」だった。
「萬やはその角を曲がったところです」と教えてくれた彼女のことも少々気にはなるが六十年余も昔の記憶を呼びもどすは難儀、やむなく一礼し別れた。
「草や」ならぬ「萬や」は明るく小ぎれいな食事処だった。店に入ると目の前にどかんと大きな竃がすわっている。明るい窓際に坐ると愛想のいいご婦人が出てきた。きょうの献立をたずねるうち「刺身定食」が食べたくなった。
「今日のお刺身定食はビンチョウまぐろと太刀魚ですがどちらにしましょうか」ときく。
久方の帰省だから“かつおの刺身”か、せめて“たたき”をと所望したが、“大正町市場のとれとれの魚”というわけで、本日の刺身定食はこの2品限りとのこと、そこで生のマグロ刺身にした。
昔土佐山内候に納めたという「仁井田米」、この辺では「匂い米」というが、それらしき「めし」が碗に盛られ出された。“まきでたいた炊きたてのごはん”とはこれかと食してみるとなるほど旨かった。日ごろ真っ白いごはんばかりの家内はどうやら匂いが気になるらしいが、わが身にとっては昔なじみ、懐かしい味と香りを十分に堪能した。
食後スモールコーヒー(100円)を追加すると、可愛らしいデザートつきのセットだった、それが右の写真。
・ ・・釜炊きの新米香る昼餉かな・・・
(2006.11.22 録)
家内の買物待つ間、気晴らしに近くの玩具売場をのぞく。家に幼児がいないので玩具売場を覗くことなぞ稀な日常だが、最近はどんな玩具が流行しているのだろうか、あちらこちら見てまわった。
テレビアニメの人気キャラクターがずらりそろって壮観、それも精巧で自動装備である、色彩もあざやか、かって懐かしき木製玩具など隅に追いやられた格好、ここも時勢の波が押し寄せているのかと感傷しきり。
そうこうしながら巡回していると「懐かしや!」昔なじみの「零戦」のプラモデル一式の紙箱が見つかった。
いちごジャム
・・・いちごジャム香り懐かし春の朝・・・
としよりの冷や水
(2005.7.31録)
やまももの思い出
(2005.7.4 録)

夕刻の散歩道、ときどき一服する公園があり、そこには「やまもも」の木が十数本並んでいる。その木にたくさん実がなり、すでに熟しはじめ、まさに食べごろである。
私が育った田舎では梅雨過ぎから盛夏にかけて、やまもも売りのおばさんが、前後にやまももを入れた大きな籠を天秤棒で背負い売り歩いていた。
潮風があたる山に植えたやまももの実は甘みがあり、そのおばさんの家のやまももはとくに美味しかった。おばさんが家の前で籠を下ろし声をかけると、やまもも好きの父が笑顔をうかべ出てくる。一升枡に山盛り一杯何銭かでやまももを数杯も買い、笊にいれ塩をふりかけ、家族みんなでおやつがわりに食した。
やまももは一粒ごとに吐き出す種が厄介だが、新鮮な赤い実は甘酢っぽい味で、野生の香りもほんのり、食するほどになんともいえない満足感が残る。季節を問わず年中出回るハウス栽培と違い、夏だけの天然果実である。

実はそのやまももが土佐に限られ珍重される果実だとは思いもしなかった。作家の宮尾登美子さんの短編集「楊梅の熟れる頃」に「楊梅−やまもも−は、暖かい潮風の吹く太平洋岸に育つ木ですが、その実を珍重して食べるのは高知県だけではないでしょうか。」と書いているのを読んで知った。
さて、むかしからの親しみで庭に植えた家のやまももは、実もたわわ熟しはじめた公園のやまももとは非対称で、いっこうに実を結ばず、ましてや食を楽しませてくれたことは一度もない。まさに儚い夢だった。やまももを植えるとき「やまももは雄雌があるから一本だけ植えても実はつかないよ」と家内の苦言があったが、それは真実だった。後悔先に立たず。
・・・楊梅のかすかに揺るる梅雨の晴・・・
帆船寄港す
(2007.11.24 録)
神戸港開港百四十年を祝し世界最大級の大型練習帆船「日本丸」(2570トン)と「海王丸」(2556トン)が神戸新港第一突堤に入港した。それぞれ「太平洋の白鳥」「海の貴婦人」といわれる二隻の帆船が同時に入港するのは久しぶりで、23日から3日間「KOBE帆船フェスタ2007」の掉尾を飾るイベントとし神戸港に停泊する。
それを観ようと元町駅で下車、南に下り海岸通をぬけて第一突堤対岸の「メリケン波止場」に行った。
メリケンパークの入り口東側は「神戸港震災メモリアルパーク」だが、そこの震災跡とどめる埠頭ごしに二隻の帆船が停泊しているのが見えてきた。
この日は航海訓練所実習生の「セイルドリル」が行われ、二隻がすべての白帆を一斉に広げ華麗な姿を披露する行事があったのだが、時すでに遅くすでに終わっていた。
しばらくメリケンパークを散策、おりよく開催中のイベントの一環か、特設舞台から女子高校生の合唱が風に乗り聞こえたりしてさながら秋日を思わす感、冬を忘れるうららかな陽気さが公園をおおっていた。
せっかく帆船見物に来たからにはと思い立ち、少し歩かねばならぬが第一突堤に行ってみようという気になって夕刻近いのを気遣いながらも足をのばす。
海上保安庁、神戸水上警察、神戸税関の快速艇が十数隻横づけされた埠頭沿いに数百メートル歩き第一突堤に行くと、遠くからでは味わえぬ帆船の魅力が目前に迫ってきた。
手前には「日本丸」沖方向にむかい「海王丸」。四本マストのみごとな帆船が埠頭に横づけされていた。
なかなかの壮観で、舷側に「神戸開港140年」の幔幕をめぐらし、ときおり作業中の実習生の掛け声が聞こえてきたりして、明日から行われる「船内一般公開」に備えていた。
・・・帆船やマスト八本冬の海・・・
とんかつ蕎麦
(2008.11.14 録)
昔いた職場の先輩はほとんど亡くなった。同輩後輩でさえ歯が抜けるように亡くなり、訃報聞くたび「ああ、彼もか」と想うきょうこの頃である。
そうしたなか、いまも矍鑠たる先輩がひとりいる。その方とは二年ほどいっしょだったが大正生まれ実直な方で、かっての戦争生き残りの元兵士。
彼は絵の素養があるのを聞いてはいたが、たまたま行った「丹生山田の里温泉」の壁に“タタミ”半畳ほどの大きな油絵を制作展示してあるのを発見した。
先輩の油絵
(2008.6.5 録)
画題は「ミナト神戸」ポートアイランドから眺めた港風景の描写で神戸タワーやメリケン波止場を中心に背後に緑の山を配し、丹念に描いている。
どう説明したらよいのか難しいが、線や色彩は版画的、律儀な人柄がにじみ出ているように思われ微笑ましかった。
サインをみて「こんなに大きい絵をよくぞ描いたものだ!」と感服。元気な姿が目に浮かんだ。
・・・新緑やそぞろ山道鳥の声・・・
お隣のワン公
(2008.11.4 録)
ジクソーパズル”アンティークグローブ”なる品が届いた。全960個のこまかいピースをうまく組み立てると直径30.5cmのパズル構成の地球儀ができ上がるという代物である。付属品としご丁寧にも木製台座とオリジナルプレートが添付されている。
子供のころによく「地球儀がほしい」と思ったものだが、未だに手にしたことは一度もなかった。先日ふとダイレクトメールで「3−D球体パズル」という地球儀の写真が目にとまった。内容を読むうちに俄然それがほしくなり注文したものである。
その際家内に、「第一、ボケ防止」「第二、世界地理の掌握」「第三、頭脳と手技の錬磨」と、もっともらしく効能を挙げると、「そういう品ならプレゼントするわ」とおっしゃる。勿怪の幸いとはこのことか。
送られてきた品は美麗な箱に納まっていた。逸る心をおさえ開き、中の説明書は手早く斜め読み、さっそく組立てにと心動く。
ところでこの代物、思うようにはうまくはゆかなかった。なかなかに手間がかかる難事である。なにせ地球上大半は海面である。その部分のパズルひとつひとつを手さぐりで合わせるのだ。経度・緯度、日付変更線、赤道の細かい線の交錯だけが僅かなヒント、ジグソーの形線をあわせるのに、かなりの時間を費さざるを得ない。こんなことでは「一朝一夕には成らず」と腹に決めた。
加えて、今日の世界、そのめまぐるしい変わりよう、老輩の知識ではとても歯がたたぬ。とくにアフリカや中東とくると国名さえ覚束ない。本屋に走り、副教材「高等地図帳」まで買い揃えた。
ただいまは難事中の難、太平洋・大西洋・インド洋など海面部分のジグソーパズルを1ピースごと照し合せては、はめこむ作業に精根を果たしている。
「この調子だと一年はかかるねぇ」と家内は皮肉の微笑。
・・・・蝉の声思案も長しパズル手に・・・・
旬日前お隣の庭に大きな犬が一匹出現した。黒毛の大型犬、イエロー色やチョコレート色など黒い毛色以外の犬もいるがやはり黒い毛色の犬が一番人気のレトリーバー犬である。
承ればお隣の実家が改築工事とかで臨時のお引越しらしい。環境変わり見知らぬ家に滞在ともなれば内心緊張し穏やかならぬは人間と変わらず、庭に接する裏道を散歩する人・犬あればそれに吠え、玄関先人声あればそれに吠え、日ごろの習性か夕刻ともなれば「うぉーん、うぉーん、うー、うー」と散歩か食事の催促喧しい。
あれやこれやで常には平穏な界隈がにわかに騒々しくなり、近所の顰蹙を買っている。ときにはお隣から「しー、しー」と嗜め声が聞こえるが、それも詮ないか。
このワン公の略称は「キッチャン」。どういうわけか引越し当初からわが家にはきわめて物静かな対応、とくに家内に対しては日ごろ親しい知人に接する物腰?である。私に対しても当初一、二度小さく吠えたきり、こちらが応じ「うゎう・うゎう」とオチョクってやるとすっかり気抜けしたのか、以後垣根越しこちらが「キッチャン、キッチャン」と呼びかけても知らぬ顔の半兵衛、砂場に寝そべったまま「わん」とも吠えない。
家内に言わすと「あんたは完全に無視されてるの!」との判定。だが先日目を合わしたら確か尻尾を軽く振ってたように思うが・・。
ところで今朝方、登校中の女子中学生の三人連れが家の前でさかんに吠えられ、あわてて走り去った。害意なき女の子に吠えかかったりする所作、この犬!真意果して那辺にありや?不可解千万だ。
・・・人乞ひて犬吠へにけり秋の暮・・・
神戸市電が走っていたころ、三ノ宮から王子公園、六甲道行の石屋川線電車道に“熊内四丁目”という停留所があってそこから南に道を下ると「む〇〇」という蕎麦屋があった。
店主は六十歳前後の頑固親父で、友に誘われ暖簾くぐったのだが、一見客の私を一瞥、挨拶もなし、ひたすら調理に余念がない。
「さて何を食べようか」思案、きつねうどんを所望した。するとその親父間髪を入れず「うちにはうどんはおまへん!」と素っ気ない応答。「愛想のない親父だなぁ」と感じたが、友の手前、店を出るわけにもゆかず、仕方ないので友と同じ“とんかつ蕎麦”を注文した。ところがその旨いこと抜群、汁も残さず碗を空けた。
それからは連日蕎麦屋通い、”とんかつ蕎麦”ばかり。無駄口叩かぬ親父も店に入ってくる私を見かけると、注文も聞かずさっさと“とんかつ”を揚げ始める始末。そのせいかだんだん下っ腹が太くなったように思う。
その後仕事が大阪に移ってからは馴染みの店通いも絶え、数十年後には阪神淡路大地震でその辺り一帯は壊滅、そのまま消息不明となった。
最近たまたまその辺りを歩いてみたが、店のあった所は大きなマンションが建っており蕎麦屋の暖簾はどこにもなかった。いまも蕎麦屋ではよく“とんかつ蕎麦”を注文するが“む〇〇”のとんかつ蕎麦に敵うものはない。
ところで先年、明石の県道を走行中一軒の蕎麦屋があって、偶然にも屋号が同じく”む〇〇”とあったので寄ってみた。
すると出された“とんかつ蕎麦”が昔の“む〇〇”の味にそっくり、とんかつの大きさ厚さ、刻み葱、白い二八蕎麦まで似ている。汁も同じ感じ。あまりのことに「もしや」と気になって、それとなく調理場をのぞいたが、あの頑固親父ではなかった。歳月の経過思えば無理もない。われも古希を疾うに過ぎた。親父の齢なら優に百歳を越す筈。大地震もあった。生きて会える筈がないと悟った。
それはそれとして、昔同様旨い“とんかつ蕎麦”が食べられたこと。「長生きしてよかった」としみじみ思う。
・・・蕎麦喰ひ命継ぎて去年今年・・・
秋更くる
久しぶり山の端の公園を散策。秋色深まり樹木の葉が色づき美しい。銀杏は早々と落葉しはじめ原っぱいっぱい落葉の絨毯が広がっている。
公園の遊び場では女の子が数人走り回って興じており、近くには犬の散歩帰りかご婦人が二人のんびり世間話の花を咲かせている。傍では大・小の犬同士じゃれあっているのも微笑ましくまことにのんびりした光景である。
公園の銀杏や櫨の葉は赤や黄にと色とりどり秋更くる風景眺めベンチで「ここで一句を」と思案していると、彼方遠くからかすかに爆音が聞こえてきた。その方を見やると飛行機雲が白く一筋、先端に小さく機影が光っている。飛行機雲はだんだんひろがり横一線から雲状にとふんわり変化しゆっくりと流れてゆく。秋空は澄みわたりどこまでも高い。
家を出る際郵便受をのぞくと年賀欠礼の葉書が一通入っていた。もう十一月も半ば、ぽつぽつ訃報もたらされるがその屡なるは寄る年波のせい。気とり直し「帰って賀状の思案でも」と家路につく。
・・・原一面絨毯模様銀杏かな・・・
投げ釣り行
(2009.6.7 録)
当時食い盛りの高校生だった私は放課後ともなると腹ペコ、そこで悪友と相語らい街の食堂に出かけては、そのセットで空腹をいやしたが、そのときコッペパンに塗っていたいちごジャムが初めての体験だった。いまもその味と香りは忘れ難い。
いちごジャムにはもうひとつ懐かしい思い出がある。それはある日の放課後、クラスメイトが料理の実習で作ったいちごジャムをたっぷりぬったパンをそっと手渡してくれたこと。手作りのいちごジャムの甘い味と香り、その好意は嬉しく忘れ難い思い出である。当時束髪だった色白の容姿がいまも目に浮かぶ。「心やさしいお婆さんになっておられるだろうなぁ」と想ったりして・・。

戦前の話、子供の頃紅熟の大きな苺を食べた記憶はない。私が育った田舎ではそんな苺を栽培する農家など一軒もなかった。だから山野の草叢に小さな実をつけた赤い実だけが苺と思っていた。
そんな片田舎、いちごジャムを知ったのはずっとおそく、戦後数年経ったころで当時はまだ米や主食が配給制で自由販売は禁止されていた。
しかし
毎年いまごろ高知から「文旦」を送ってくるが、家内はそれを楽しみにしている。今年は2箱も届いた。文旦好きの家内、さっそく送ってくれた従姉に電話で礼を述べていたが、従姉との会話によると、その文旦は従姉が入院した折同室だった患者さん経営の農園で有機栽培で育てた果実とか、大粒ではないが甘くて美味しいとのこと。わが家で食べるには多すぎるので知人に配り、残りの1箱を毎日1、2個づつ楽しみ食している。
家内と異なり私は文旦を食べること稀だ。本来みかん好きだが、どちらかといえば「ぽんかん」党である。文旦は皮がむきやすく、皮をむくおり中身の汁がこぼれないので、食べ方不器用な私にむいているが、口にして味があっさり過ぎるし、匂いもいまひとつで物足らない。送ってくれる従姉には悪いが、みかんはやはり芳香ただようぽんかんがいい。 しかし家内好物の文旦は毎年送られてくるが、わが好むぽんかんは偶なのは残念。やはり「女は女同士」かと了解している。
文旦の味
話題転じて、かように文旦に縁薄い私だが文旦同様大きく真っ黄色の「夏みかん」には懐かしい思い出がある。それは小学3年生の夏休み、いつも可愛がってくれた7、8歳上の中学生(当時は旧制中学校時代、現在ならば高校生)の草野球仲間に連れられ「塩浜」という人っ気ない砂浜に行楽したとき、浜近くの農園で安く買い求めた大きな夏みかん数十個を車座のまんなかに置いて、皆でかぶりあったことがあった。
そのとき初めて夏みかんを口にしたがその苦さ、その渋さに涙が出た。「なんでこんなみかんを兄さんたちはむしゃむしゃ食べられるのか」なんとも不思議に思えた。それでも無理やり1個なんとか食べ終えたときの安堵感がいまも懐かしく思い出される。
今思えばあの夏みかんは「男たちの青春の味」だったかも。そう思うといまの文旦は「女たちの青春の味」。だから甘いのだとも思う。
さても、家内の大好物が、私の出身地の名産とあれば満更悪い気がしない“結構毛だらけ猫灰だらけ”
・・・文旦をむく妻横目ブログ打つ・・・
(2009.03.16 録)
1970年頃から庶民のゴルフ熱がだんだん高まったが、それまで一般大衆の楽しみといえばもっぱら海や河川の魚釣りだった。身軽で健康的な遊びゆえ全国的に広まったが、その頃は何処に行っても魚種は豊富だし魚影も濃く面白味があった。
当時友人に勧められ投げ釣りを覚えた。日ごろ運動不足気味だったのでその解消にと生来不器用なのを棚に上げ、浜や磯に出かけ魚釣りに興じた。だが釣果はさっぱり、釣った魚も小物か外道ばかり、傍らで家内は「餌のほうが魚より値打ちあるわ」と皮肉り「下手の横好き」と酷評する始末。
その頃のわが家は娘が2人、読書好き中学生の姉と対象的に、外遊びの好きな小学6年生の妹がいた。彼女は魚釣りや旅行が好きだったので晩秋のある日、日本海但馬海岸にと親子連れ立って釣りに出かけた。
早朝神戸の自宅を出る。寝不足の目をこすりながら始発電車で姫路まで、そこから播但線で和田山に、山陰本線に乗換え但馬海岸の「柴山」まで。その駅からとぼとぼと港まで十数分、釣具かついで坂道を下る。やっと突堤に着くと既に地元の釣り人が数人竿を並べていた。それに加わり投げ竿を3本並べる。高い岸壁だが港内を見下ろすと深みがあって魚の気配、皆そこを狙い目に投竿していた。
投げ竿1本を娘に任す。餌つけやリール巻きは彼女次第。残る2本は私持ち、ときどき餌を差し替えてジアイを待つ。その時分、釣果はぼつぼつで「ほどほどの釣りか」と半ばの期待。
数時間の後私の竿先が「ずずっー」と動いた。「すわっ」とリールを巻く、手応え十分だ、引き上げてみると全長40cmほどの「かれい」だった。これまでの釣果では一番の大きさ。いつも小物ばかり釣ってるので「こんな小さいサカナを・・」と笑う家内の顔がそのとき浮かび「これで、どうだ!」と内心ほくそ笑む。
それから小1時間、突然釣竿がしなった。「それっ」とリールを巻くが、こんどは前と違う重たさだ。まるで座布団を引きずるよう、やっと引き上げてみると「かれい」よりさらに丸く平たい厚身の「えい」だった。傍らの釣り人「えいの尻尾は毒があって危ない!早よう尻尾を切れ!」と叫ぶ。そこで手早く尻尾を切り落とし魚籠に入れる。その後は潮具合落ちて当たり続かず、時過ぎる。
結果、釣果は2尾だけだが、かなりの大物、満足して納竿、港近くの食堂であったかい丼物を食して駅に折り返す。
同じ帰路たどり、山陽本線姫路で乗り換えた快速列車内、隣席の壮年客が娘が手に持つ魚籠の「えい」に気づき「ほほう」と声をかける。娘、もの言わぬが得意顔、横のクーラーまで開いてもうひとつの獲物「かれい」を見せた。男客なに思ってか「ほほうー、これも釣ったの?」と愛想顔、娘と笑顔交わす。常には見知らぬ人とは話交わさぬシャイな子だが、このときばかりは「うん」とうなづいて嬉しそう。その横顔はなんとも微笑ましく可愛かった。
それから30数年経った。最近偶々その話題が出たが、そのとき彼女は急に声高に
「あのとき私、大物を釣ったけど逃がしたんよー。針にかかってたのにねー。大きかったよー」と言った。記憶のどこかそんなことがあったようにも思われ「そうやったなぁー」と相槌うったものの「はて?どんな魚だったのかな?」と首かしげる。「蛸だったかな」と思ったり・・。記憶蘇らぬは悔しい限り。いよいよ老人ボケの始まりか。
・・・突堤に秋の日や射す竿納め・・・