・・・日々の記録・・・
須磨で魚釣り
一年ぶりに須磨海釣り公園に出かける。やや時季遅れの感あるが「小あじ」のさびき釣りをする。金曜日の午後だったが意外に釣り人は少なかった。大抵は暇つぶしの老人たちである。
久しぶりにこの海釣り公園にきて驚いたのは、最先端の「ロ」の字形に連なるメインの釣り場の先端がすぱっと無くなっていたことである。
どうやら台風の高波で押し流され、基幹の橋脚を残し上部橋梁全体が海中に沈んでしまったのだろうか。この海底には漁礁代わりに神戸市電の古い車両を沈めたと聞くが、それと同じ運命になったのか。
「釣り台補修工事中」の看板があり出入り禁止、絶好の釣り場には陣取りもできない、残念だが止むを得ない。そこで第二釣り台、管理塔の下に坐り、西向けに仕掛けを垂らす。
本日は中潮で満潮は午後5時過ぎ、釣り始めた時刻は2時過ぎ、西に流れる潮はやく、釣糸が横に流されて釣りにならない。そこで重い錘につけかえて2時間あまりねばってみた。結果は狙いの「小あじ」は一尾もあがらなかったが、長さ10センチほどの「イサギ」の子を20尾ほど釣り上げた。
好天で澄みきった青空、微風頬に海の香りもほのかで、爽快な半日の釣り行だった。
近く開港予定の神戸空港の発着試験飛行が先日来続けられており、双発機が時間をおいて上空を通過する。東方海上はるかに見える埋め立ての空港を飛び立って、西に向かい明石海峡大橋の上空を飛ぶ機影を追ったり、波間の沈む釣り糸を見おろしたり、退屈しない釣りだった。
この海釣り公園のロケーションはすばらしい。南は全面大阪湾を、西は明石海峡をはさみ淡路島や明石海峡大橋、海峡を過ぎる九州、四国行きの大型フェリーや外国船の群。
目を北側に転ずると、そこにはかの源平合戦でなじみある山が海浜に至り、「古の須磨の関此処なり」である。国道、JR、私鉄の各線が狭い海岸に併行し、往来する電車や自動車は後を絶たず、それらの光景を眺めていると、むかし「船上から源氏の軍勢を一望した平家の公達」の気持ちが察せられる。こうして眺めを楽しみながら釣り糸をたれると、釣果などあまり気にならない。
人出は少なかったが、おりよく居合わせた隣人が同年輩のせいで心安くなり、言葉遣いから同じ神戸住まいと判り話し合ううちに遠慮もなくなる。聞けば笑って、
「晩のおかずに形のよい鯵を釣ろう」とやってきたという。本格的な流し釣りを始める。ところが小一時間経ったころから潮のじあいがよくなり、竿先しなる鯖の入れ食い状態を現出しあっという間に10尾ほど釣り上げた。
針にかかった鯖は海中を右に左に横走りするので、その側で竿を出している者は、その都度自分の釣り糸がからまないよう竿を上げるのがマナーである。再三上げ下げする私の竿使いに、当の御仁も気兼ねしたのか。
「こんな大きな鯖は5尾もあれば十分や。お宅、よかったら家に持って帰ってや。」
と私のクーラーボックスに釣り上げるごと鯖を放り込むこと合わせて3尾、とれとれの鮮度のよい鯖を棚ボタで頂戴した。恐縮の至り!これで今夜の食事が楽しみ。
かれこれ3時間あまり楽しい談笑後、一期一会の釣り友に深く礼をいって一足先に釣り場を離れる。
やきもち地蔵
神戸電鉄「山の街」駅から有馬街道に下りた交差点、向かって右側に白塗りの看板塔が立ち「やきもち地蔵」の文字が目につく。
角の蕎麦屋「吉まん」で食事した後だったがその看板をみて「ちょっと寄ってみるか」という気になり、鉄筋つくりの階段をトントン下りて赤い欄干の小橋を渡ると道の左右には赤い幟がひらひらと風になびいていた。

「やきもち地蔵」は古くから近辺では評判の地蔵さんで、願掛け参りに訪れる人はいまも絶えない。何十年も前のことだが幼い娘を連れこの地蔵さんを訪れたことがある。当時の記憶覚束なく「はて?こんな辺鄙なところだったんか?」と首かしげる始末。
肝心のご本尊「石のお地蔵さんは」と覗うと、全身覆う錦糸の布を頭からすっぽり被り、地蔵さんの姿は拝めず。
「まぁーこんなもんか」とあきらめ、祠をさらに奥に抜けると小道があり、道側に可愛らしいお地蔵さんがひとつ鎮座していた。
両手で受け止めるほどの大きさだが、その表情の愛らしきこと!思わず見入ってしまった。いい記念だとデジカメに収める
やまももの思い出
散歩道、ときどき一服する公園があり、そこには「やまもも」の木が十数本並んでいる。その木にたくさん実がなり、すでに熟しはじめ、まさに食べごろである。
私が育った田舎では梅雨過ぎから盛夏にかけて、やまもも売りのおばさんが、前後にやまももを入れた大きな籠を天秤棒で背負い売り歩いていた。
潮風があたる山に植えたやまももの実は甘みがあり、そのおばさんの家のやまももはとくに美味しかった。おばさんが家の前で籠を下ろし声をかけると、やまもも好きの父が笑顔をうかべ出てくる。一升枡に山盛り一杯何銭かでやまももを数杯も買い、笊にいれ塩をふりかけ、家族みんなでおやつがわりに食した。
やまももは一粒ごとに吐き出す種が厄介だが、新鮮な赤い実は甘酢っぽい味で、野生の香りもほんのり、食するほどになんともいえない満足感が残る。季節を問わず年中出回るハウス栽培と違い、夏だけの天然果実である。
実はそのやまももが土佐に限られ珍重される果実だとは思いもしなかった。作家の宮尾登美子さんの短編集「楊梅の熟れる頃」に「楊梅−やまもも−は、暖かい潮風の吹く太平洋岸に育つ木ですが、その実を珍重して食べるのは
さて、むかしのよしみで庭に植えたわがやまももは、実もたわわ熟しはじめた公園のやまももとは正反対にいっこうに実を結ばない。ましてや食を楽しませてくれたことなど一遍もない。
やまももを植えるときめたとき、「やまももには雄と雌があるのよ。一本だけ植えても実はならないから駄目よ」と家内から言われたが、それはほんとうだった。後悔先に立たずとはこのことか。
「萬や」のめし
郷里を離れついつい足も遠のいてはいるが、年末になるとどうも気になる。「ひとつ墓参かね帰省するか」ということになった。
数日前のインターネット「満天土佐」や「中土佐日記」で町役場の近くに「萬や」という食事処があるのを知っていたので、昼食をとそのあたりを一周するが、動きながらの車外、情けないことに動態視力ともなわず「萬」の字を「草」と読み違え、ついついその店前を通り過ぎ、それではと通りかかった老婦に訊ねた。
すると彼女は私をしみじみながめ、
「あんた、○○さんじゃーないの」と言う。
「そうですが」と答えると、
「ほんと!××の○○さんにそっくりやねぇ、お墓参りにおいでちょったのですか。それはそれは」のご挨拶。
年格好から同じ歳くらいだが、何処のどなた様かとんと見当がつかぬ。いたしかたないのでただただ頷いてばかり、ひとしきり田舎話を聞かされたあげくやっと本筋の「萬や」にふれる。なんのことはない、先程通り過ぎた「草や」が「萬や」だった。
「萬やはその角を曲がったところです」と教えてくれた彼女のことも少々気になるが六十年余も昔の記憶を呼びおどすは難儀、やむなく一礼し別れた。
「草や」ならぬ「萬や」は明るく小きれいな食事処だった。店に入ると目の前にどかんと大釜が坐っている。明るい窓際に坐ると愛想のいいご婦人が出てきた。きょうの献立をたずねるうち「刺身定食」が食べたくなった。
「今日のお刺身定食はビンチョウまぐろと太刀魚ですがどちらにしましょう?」ときく。
久方ぶりの帰省だ。「かつおの刺身」か、せめて「たたき」をと所望した。だが
昔土佐山内候に納めたという「仁井田米」。この辺では「匂い米」というが、それらしき「めし」が碗に盛られ出された。「まきでたいた炊きたてのごはん」というだけに旨かった。だが、日ごろ真っ白ごはんばかり食べている家内はどうやら匂いが気になるらしく「まぁまぁ」の表情。私は昔なじみの懐かしい味と香り、十分に堪能した。
食後スモールコーヒー(100円)を追加すると可愛らしいデザートついたセットだった。
凧揚げ楽しんだ頃
子どもの頃、近くの海浜でよく凧揚げを楽しんだ。正月、男の子の遊びといえばもっぱら戸外での凧揚げだった。育ったのが小さな港町、町の一隅に子ども相手の駄菓子屋があり、その店の親父さんが器用で手作りの凧を売っていた。形は「土佐凧」のひとつ正方形で、割竹を箸の大きさよりやや小さめにしごき、そこそこの長さに切断し骨組み、竹の接点を糸で縛り、表面に障子紙で貼れば白地の凧が出来上がる。後は黒、赤などの絵具を使って縁取り、桃太郎、金太郎、武者などを描くのだが、手際よく仕上がるのを傍で見るのが面白かった。
私の凧は家紋描き、「丸に三の字」の注文、いともやすやす白黒の縁取りで家紋描き外側は紅色で「一丁上がり!」、その凧を家に持ち帰り糸結び、重心をあわせ、三か所に針をさし糸を通して凧が仕上がる。安定保つため凧の下部に長さ一メートルの紙テープを数本しばりつけ、延長数十米のタコ糸をつないで勇躍砂浜に出かける。
冬場山から吹きおろす北風に乗せ南面の海上にむけ凧を揚げるのだが、ヘマをすると海中に落下し凧がなくなる恐れ、そんなスリルがなんともいえず、うまい具合に徐々にタコ糸伸ばすと海上遠くはるか空高く凧が舞うのがなんとも壮快だった。

その日から数十年経ち、わが子が凧揚げした頃の私と同じ年頃になった。某日ふと凧揚げの思い出蘇り、むかし駄菓子屋の親父さんがした手法で凧を作ってみようと思い立った。上の娘は小学2年生、下の娘は4歳だったが、偶の休日遊び相手になってやろうと市場の模型店、文具店で檜材具や用紙、不易糊など買って帰り凧作り、家紋の代わりに商売していた父の商標を描き、絵具で上塗り、タコ糸がなかったので魚釣用のテグスを使い、ひき糸には太目のテグス、それを釣道具のリールに巻きつけ広場に出る。
当時、海が臨める小高い丘の団地に住んでいたので、そこの広場から西風を利し東の空にむかって揚げると意外や意外空高く舞い上がった。
娘ふたりは凧揚げは初めての体験、空舞う凧を見上げ満足そう、その姿見やり「お父さんは子どもの頃、こうやって遊んだよ」というと「うーん」とうなづいた。凧揚げにまつわる再度の思い出である。
それから更に四十数年、ことし正月たまたま山沿いの広場に行ってみると、幼な子相手に風変わりな洋凧を揚げている若い父親に出合った。世代変り、揚げる凧の形は異なるが、楽しそうな親子を眺めていると、往時のことが思い出され、懐旧の念がこみ上げてきた。
庭に鶯
庭にある棒樫が一本立ち枯れてしまった。侘しい冬の庭さらにの風情、そこで庫から電動ノコを引っ張り出し、幹をスパッと切ってしまった。明日が「燃えるゴミの日」というわけで、かれこれ細かく刻みビニール袋に納めた後、作業これまでと骨休めしようとすると窓越しに、
「そこの梅の枝、ちょっと切ってちょうだい」と声かかる。
棒樫のそば貧相な梅の木が一本。標高数百米山上の家の庭なれば、梅も開花遅く未だ蕾のまま、
「花がまだや!もっとおいといたらどないや」と応ずると、
「棚に飾るの」と応え、さらに、
「桜切るバカ、梅切らぬバカ言うでしょうが!梅は切ってあげたほうが残る枝が伸びて良うなるの!」と念押された。
かようなことで蕾の小梅棚上に鎮座。その切り花眺め「春近し」を感ずる。
ところで今朝がた、目をさますと家外からかすかに「ホーホケキョ・・」と鳴き声。ことし初めての鶯かと起き出る。
そろっと雨戸開けその隙間から外をうかがう。
昨日切取った梅の木あたりかとそのあたりをそっと見たが姿が見えない。それでもつづけるように「ホーホケキョ・・」の鳥の声、かなり高い鳴き声である。
飛び立つ気配もなさそう。たぶんそこいらにとまっているのだろう。
「さては!」と雨戸を開け庭全体を見回したが声はすれども姿は見えない。そのうち声も止みどこかへ飛び去っていった。
初鶯をじかに見ぬのを残念がる私に、
「梅が咲くころ、また来るわ」と慰め顔の家内。実を言うとこのところ耳が遠く鶯の声なんて全然聞こえなかった筈、それでもって「あんた、それ空耳じゃぁなかったの」と言いたげな顔だった。
アガパンサス

姉亡き後、ずっとひとり住まいだった義兄が亡くなってからはや八年、身寄りのない人だったので弔いは寂しかった。
亡くなったのが夏の頃で紫白の花アガパンサスが鉢植えに咲いていた。義兄が大事に育てていたようでそれに気づいた家内は一株の鉢をただひとつの形見分けにとわが家に持ち帰り大事に育てている。それが今年も梅雨の晴れ間縫うように四株みごとに咲いた。
人の命は絶ゆれば後に残るは記憶だけである。それも時が経てばだんだんに薄れてくるのは世の習いというもの。だが花が咲くたびその人を偲び話題になって記憶が途切れることがない。
表現迷うが、故人が花になり延々生き続けているやに思われる。
今年も暑い夏が近づいた。胸中に「故郷の墓に・・」という気が浮かんだ。
とんかつ蕎麦
神戸市電が走っていたころ、三ノ宮から王子公園、六甲道行の石屋川線電車道に“熊内四丁目”という停留所があってそこから南に道を下ると「む〇〇」という蕎麦屋があった。
店主は六十歳前後の頑固親父で、友に誘われ暖簾くぐったのだが、一見客の私を一瞥、挨拶もなし、ひたすら調理に余念がない。
「さて何を食べようか」思案、きつねうどんを所望した。するとその親父間髪を入れず「うちにはうどんはおまへん!」と素っ気ない応答。
「愛想のない親父だなぁ」と感じたが、友の手前、店を出るわけにもゆかず、仕方ないので友と同じ“とんかつ蕎麦”を注文した。ところがその旨いこと抜群、汁も残さず碗を空けた
それからは連日蕎麦屋通い、”とんかつ蕎麦”ばかり。無駄口叩かぬ親父も店に入ってくる私を見かけると、注文も聞かずさっさと“とんかつ”を揚げ始める始末。そのせいかだんだん下っ腹が太くなったように思う。
その後仕事が大阪に移ってからは馴染みの店通いも絶え、数十年後には阪神淡路大地震でその辺り一帯は壊滅、そのまま消息不明となった。
最近たまたまその辺りを歩いてみたが、店のあった所は大きなマンションが建っており蕎麦屋の暖簾はどこにもなかった。いまも蕎麦屋ではよく“とんかつ蕎麦”を注文するが“む〇〇”のとんかつ蕎麦に敵うものはない。
ところで先年、明石の県道を走行中一軒の蕎麦屋があって、偶然にも屋号が同じく”む〇〇”とあったので寄ってみた。すると出された“とんかつ蕎麦”が昔の“む〇〇”の味にそっくり、とんかつの大きさ厚さ、刻み葱、白い二八蕎麦まで似ている。汁も同じ感じ。あまりのことに「もしや」と気になって、それとなく調理場をのぞいたが、あの頑固親父ではなかった。
歳月の経過思えば無理もない。われも古希を疾うに過ぎた。親父の齢なら優に百歳を越す筈。大地震もあった。生きて会える筈がないと悟った。
それはそれとして、昔同様旨い“とんかつ蕎麦”が食べられたこと。「長生きしてよかった」としみじみ思う。
恵山の泥人形
九年前の秋、さる友人たちと連れ立って上海に赴いた。その際無錫で買った無彩色、土色の泥人形をいまも本棚に飾っている。
その人形にまつわる話だが、無錫には四百年前から作られている名産の「恵山の泥人形」がある。その近辺はきめの細かい良質の粘土が産出され農民の手によって素朴な民芸品の人形が作られてきたがいまは規模の大きい工場ができて海外に輸出されている。
私たちが訪れたのは小さな工場だったがそこでは若い娘さんが手作りの泥人形を刻んでいた。見学をすませた後展示場をのぞくとそこには彩色した華やかな「恵山の泥人形」ならぬ黒い粘土細工そのままの泥人形がずらり陳列してあった。
その一つ一つを感心しながら見てまわっていると、なかに静座した娘の人形が目についた。
そのたたずまいの清楚さにじっと見惚れていると、知らぬ間に寄ってきた友人の奥さんが、
「いい人形が見つかりましたか」と声をかける。思わずふりかえり、我に返ってとっさの冗談で、
「むかし失恋した彼女にそっくりの人形がおますねん。それで見惚れてますのんや」と応答。すると彼女真顔で、
「まぁー、どの人形?」と反問する。いまさら冗談ともいえず、その人形を指差して、
「この坐ってる娘さんの人形」と応えると、
「あら!まぁーきれいねぇ。別嬪さんやねぇ」と快笑、「買ってかえれば」としっこく言う。そんな後押しあって問題の人形を買う破目になった。
そんな旅の思い出ある泥人形だがときどき眺めては当時を思い出す。そして、
「しばらくお逢いしてないがあの頃のように屈託ない顔で毎日お過ごしだろうか」と案じている。
老夫婦の寝物語
歳をとると夫婦それぞれ思い違いが多く、そんなときお互い言分にこだわり口論することが日常茶飯事となった。われながら自戒の至りだが、今回はある夜の話を一席。
電気消し真っ暗闇の深夜どうにも寝つかれない。遠慮気味に小声で寝ている家内に、
「もう寝たんか」 と声をかけてみた。
どうやら同じように寝つかれない模様だ。近頃はむかしのように窓を開けっ放しにして風をいれながら寝るのは剣呑で雨戸を閉めきってるせいもあって昼間の暑さが残る室内は空気が爽やかとはいえず、快眠にはほど遠い。それに老いも手伝う。
そんな雰囲気のなかお互い横になったまま四方山話になった。
「おまえ、戦災にあったとき爆弾でやられたんやなぁー」
「いいえ違います。焼夷爆弾です」
「そのときトイレにゆくいうて防空壕を出た後へ爆弾が落ちておまえだけ助かった言うてたなぁー」
「いいえ、仲のいい友だちの家に行って遊んでいるとき突然爆弾が落ちてきたの!落ちたところがコンクリート塀の外の道路だったさかい助かったの」
話がチグハグでかみあわない。これでは私がボケてしまったのか、そうでなければ彼女がでたらめを言ってたことになる。
しかしこんな話を口論の種にするのは少々心とがめる。そこでこちらは一歩後退し、彼女の話を神妙かつ静かに聞くことにした。
当時、家内は小学5年生、神戸の2回目の空襲は終戦の年の6月のことである。彼女は、神戸の西、須磨と舞子の真ん中、垂水の町内に住んでいた。町の北側海に面して小高い丘があり、そのふもとに1棟3軒つづき2階建の、当時でも珍しい庭付の借家に住んでいた。
大家さんが一番端の家、真ん中が家内の家族が住んでる家、一方の端は米屋の家族が細々と営業していた。
勘違いだといわれた「防空壕命拾いの一件」は、彼女の説明によれば、「近所の資産家の庭には頑丈な防空壕があって近所でも評判だったが、家内はそこの1歳下の娘と仲良しでよく遊んでいたので、空襲警報のサイレンが鳴るとよくその壕に入れてもらっていた」という懐旧談だった。
さて、神戸空襲の当日、彼女は朝から休校だったので、別の仲のいい友だちの家にいって庭で遊んでいるといきなりものすごい音がして近くで何かが炸裂し目の前が真っ白になった。
後で気がついたときは濛々と白い煙につつまれていたが一体何があったのか分からずしばらく正気に返らなかったそうだ。
あわてて近所の人々について家の外に出てみると前の道路の真ん中に大きな穴があいているのが見えた。つまりコンクリート塀のおかげで爆風に遭わず命拾いしたわけである。
怖かったが大人たちの後について近くの丘に逃げそこからわが家の方向に目を凝らすと、3軒並びの住宅が炎上しているのがはっきり見え呆然としたという。
その空襲で端の米屋さんの若奥さんは赤ん坊をかばうような格好で溝の中で発見されたが親子とも焼死していた。夫出征後働き手いない若奥さんを助けて米屋を続けていた夫の老母だけが生き残りたいそう可哀そうだったという。
不幸中の幸いか家内の家族はみんな無事だったが家屋は全焼し住むところがなくなった。そこでやむなく明石の母の実家に一家全員身を寄せたという。
こういう戦争中の話、いつ聞いてもまたどんな話でも、切ない思いがする。
家内と出会って50年経った真夏の夜、眠れぬままにこんな話を聞くのも「なにかの因縁か」と思う。
シロギス
シロギスを関西地方や私の故郷四国では俗にキスゴという。全長15〜30cm、表面は淡褐色だが肉白く透明感があり青魚ほど生臭くないが、なんとなく潮の香して上品な魚だ。軽く塩焼し頬ばると生ビールに適いまさに夏の味覚だ。
小学4年の夏休み、家近くの浜辺にでかけ夕涼み、昼間使った川釣りの竹竿で餌はミミズそのまま針につけ、じゃぶじゃぶ腰までつかり波打ち際で釣り遊びしてると15cmほどの小さな魚が釣れた。竿をあげみるとそれはキスゴ、「なんでミミズの餌で海の魚が釣れるの?」と首かしげたことを昨日のように思い出す。それがシロギス釣りの初体験。
長じてからは専ら投げ釣り三昧。夏休みともなると車を駆り四国は言うに及ばず、淡路、紀州、丹後等そこいらの海浜に出かけてはシロギス釣りに興じた。
そうした思い出のうち、同輩サエグサ君と三重の浜島に出かけた釣り行、海浜で一夜明かし早朝に起き投釣り数回、すると突然「ビクッ」と竿に大きな当たり「スワッ」とリール巻くと全長28cmのシロギスがかかっていた。いままでの最長記録である。あのときの「ブルン」という手応え、キス独特の引きの強さ、その感触は得もいえず忘れ難い。
それと相前後する頃同輩のシマダ君から電話あり、「近くの浜でピンギスが仰山釣れている」との誘い。いそいそと塩屋の浜に出かけ二人揃って波打ち際に立ち長い磯竿でイソメをちょん掛けしてピンギスを仰山釣りあげたこと。そのときはシマダ君の奥さんがわざわざ砂浜まで魔法瓶をさげて来られウイスキー入り熱々のコーヒーをサービスしてくれたのも懐かしい。
とくに印象深いのは、舞鶴湾からモーターボートで日本海に出てシロギス釣りをしたこと。当時親交あったナカウエさんの招きだったが民宿で一泊、早朝起きて舞鶴港からモーターボートで舞鶴湾外に。沖に浮かぶ冠島や丹後半島を眺めながらのキス釣り三昧。かなりの数釣り上げ、船縁に紐付けした魚籠にシロギスを投げ入れ泳がしていたところ、釣り場を移動する際迂闊にも魚籠を海中から引き上げること忘れ、魚籠ごと海中いずこかに流してしまいオジャンになった。
船長のナカウエさんが釣果ゼロとなりその後あまり釣果あがらなかった私を気の毒がって、帰り際キスを数十尾私のアイスボックスにそっと入れてくれたのには恐縮した。
その後同じモーターボートで再度釣り行、沖に出て夢中でキス釣りをしていると、いつのまにか海上保安庁の監視船が接近し尋問を受ける。 船長のナカウエさんが免状を提示し問答しばし、どうやらおさまったが、察するに北朝鮮の不審船警戒らしく、いまにして思えば、拉致や不法侵入からむ防御だったと思われる。
そのほかあれやこれやキス釣りまつわる話しは山ほどある。
そのひとつひとつの思い出にからむ友人や知己の多くは既に世を去り、寂しく思う。
犬の話
十年一昔の伝で言えば随分昔の話だが、神戸・新開地のお好み焼屋で生まれた雑種の仔犬を一匹貰い受け育てたことがある。
雌の中型犬で毛並みや毛色はシェパード風だが、どこから見ても多種の血統が入り交じった四国犬系の混血、瞳が丸く大きいのが唯一の取り柄、並の犬だった。
縁とは不思議なもので飼うほどに情が湧いてきて、家族同様の交わりとなり十六年も長生きし、晩年は欠くべからざる存在だったが、寄る年波には克てず天寿を全うした。晩年の老犬の姿などは、いつの日かわが辿る道ではと思われる哀れさであったが、情が移ればこうなるのか、犬亡き後はしばらく失意感におそわれ意気消沈したものである。
そんなことで、とうの昔のことながら、犬にまつわる思い出はいまだ脳裏から去ったことはない、まことに「持つべきものは犬」である。
たまたま作家安岡章太郎さんの随筆『死との対面』(光文社刊)を読んでいると「僕の散歩は、犬を飼って犬のために散歩したことから始まった。・・」という文章が目にとまった。読み進むと「僕の友人に一人、老犬を愛し、その老犬と暮らすことを生き甲斐にしている男がいる。その男が言うには、老犬を養うことは孤独を学ぶことになるそうだ。なぜかと言うに・・」と続き、犬の一生は人間の寿命の三分の一か四分の一しかなく、犬を飼えば犬の死に立ち会うことになり、人間の死に様がどこか小賢しさを残したまま死ぬのに対して、犬は本当に生きものの哀れというものをもったまま死ぬ、人間にない美が犬にはあると記し、ある日その男から手紙が来て「この頃、わが家の老犬は白内障が進んで両眼とも殆ど視力を失ってしまいました。それでも散歩に出たがりますし、どっちみち一日中、家の中に置いておくわけにはいきません。しかし、この犬のために盲導犬をつけるわけにもいきません。そこで小生は、思い切って自分自身、“盲導人”になる決心をいたし、朝、夕、犬の先導となって歩いている次第です。・・・・」と話が続く。
ここまで読み、まるでわが経験のひき写しではないかと自ずから驚いた。同様に視力失いおまけに声も出なくなった老犬を看とった当時を思い出したからである。
犬を失った人は誰も「犬の死に際には二度と立ちあいたくない」と言うが、老い衰えた愛犬の哀れな姿を日々眺め、その死に様をじっと見守る辛さは、人のそれとなんら変らない、身を切られる思いである。
ちくま新書・東京大学教授竹内整一著『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』を黙読。その「はじめに」、
「・・・十数年前に父に胃癌で死なれたのですが、おもに長男の私の判断で、父に告知しないという方針もあって、最後まで「死なないもの」のように対応していました。告知しなかったということ自体は、ありうべき対応として今でもそれは後悔していないのですが、そのことによって、結局は、最後の別れを、「さようなら」というあいさつを回避してしまったという思いが強く残っています。
死の一週間ほど前に、仲のよかった親戚が来たときには、おたがいに目を真っ赤にして泣き合って別れていたのに、「死なないもの」として扱う私には、父との間には、ついにそうした時は訪れることはありませんでした
父は自分が癌であり、まもなく死ぬのだという思いがあったことは十分うかがうことができたし、実際まわりの人にもそうも言っていた(と、あとで聞いた)のですが、同時に、最後の最後まで、ひょっとしたら、そうでないかのかもしれない、という一縷の望みを、私らの言う「癌なんかじゃない。死なないよ」という言葉につないでいたようにも思います。ですから、申し上げたように、告知しなかったということ自体は、それはそれでひとつの対応としてありえたのだと今でも思っています。
しかし、そのことによって、結果的には、「無自覚」とまではいえないまでも、父との別れ、「さよなら」の場面を回避しようとしていたのではないかともいえばいえます。何度思い起こしても思い起こすたびに、その一点において、あるもやもやとした悔恨のようなものが、私にはたしかに残されています。
同じような思いは、あるいは父の側にもそれはあったかもしれないとも思っています。何かを置き忘れたままで、なにかこのままでは死にきれない思いをもったままで逝かざるをえなかったのかもしれない、とも。・・・・・」の文節が心に残った。
というのは四十数年前、それに似た体験があるからである。 家族構成では末弟だが看病している長姉の近くに住んでいたので、末期癌の父親には兄弟中で最も多く話を交わしていた。当時癌といえば不治の病、告知するなど「もってのほか」だったが、父が胃癌であると知った兄弟姉妹のショックは大きく、家族の態度から父はどうやら分かっていたようだった。
死ぬ数日前の夕刻、仕事を終えかけつけた私とふたりきりのとき、枕元で、
「こんな畳の上で死ねるのは幸せや」とつぶやき、
「わしが死んだら墓はつくらんでもえいきに。 お母さんのお墓の脇にちょっと土を掘って骨を埋めてや」と小声ではっきり言った。そこで私は、
「うん!わかった!お父さんのお墓はお母さんのお墓の横にお父さんがつくったお墓と同んなじようにちゃんとした墓をつくるきに!ぼくがぜったいするきに!」と土佐弁で応えた。
そのとき、いっぺんに親子の本当の別れ「さようなら」ができた。いまにして思えばそのとき悲しさを通り越し「ほっと」した思いがあったが、竹内教授の話を読んでその理由が判った気がする。
そして、父との別れが「このままでは死にきれない思いをもったままで逝かざるをえない」ような結末でなかったのを本当に幸せに思う。
懐かしや!SL
日支事変が始まったのは昭和12年(1937年)、大東亜戦争が始まったのが昭和16年(1941年)だから、ちょうどその間昭和14年(1939年)の秋、わたしの故郷に待望の鉄道が開通した。いまからおよそ70年前のことである。
現在はJR四国、当時でいえば国鉄土讃線「土佐久礼」駅で、それまで土讃線の高知県側終着駅は「須崎」駅だった。その駅から「土佐新荘」「安和」と2駅あって「土佐久礼」が新しく終着駅となった。土讃線は昭和30年(1955年)代までSLが走っていたが現在はディーゼル車に代わり、当時の面影は全くない。これも時代の移り変わりだろう。
当時の「土佐久礼」駅は規模が小さくSL(蒸気機関車)に必要な石炭や水の補給施設はあるもののいずれ鉄路が延長されるというので機関車を転回させる転車台を設けていなかった。だから往復いずれか機関車はバック走行で客車を牽引しなければならなかった。
つまりバック走行時視界狭く見えにくい大きな蒸気機関車は「須崎」駅までで交代しそこからは石炭積載部が小さく機関車直結型で視界良好なC11形機関車が運転することになっていた。そして「下り」線を通常のスタイルで客車を牽引するとき「土佐久礼」駅に到着後は「上り」線でバック走行で客車を牽引するという具合だった。
そのころ小学3年生だった私は小高い山上の校舎まで石段が延々と続く坂道の途中でトンネルを折りよく抜けたC11形機関車がもくもくと煙をはきながら汽笛も高く遠去かってゆくのを見下ろしてはその光景に子ども心胸をときめかした。
そんな思い出があるせいか、SLの中でもC11形機関車にはとくに思い入れが深い。
ところで話変わり、そんな田舎風景を髣髴させるミニチュアを娘から頂戴した。
畳半畳ほどの広さのなかに小山やトンネル、丘の上の小学校、小さな駅やバス停など、街道筋には商店が並び道には3輪車があってさながら子どもの頃の風景そのものの構図、鳥瞰版というわけ。
外周にはレールが敷かれそこをNゲージの機関車が走るようになっていて、蒸気機関車を走らせると結構面白い。
付属の蒸気機関車が9600形SLで北海道を走っていたらしい。そこでふと「C11形のSLを走らせたいなぁ」と思っていたのだが、それを知った娘がその機関車も贈ってくれいたく恐縮。
さっそくSL遊びに興じた。老齢の身恥ずかしながら「歳とれば子どもに返る」というし、ときどきSLを走らせ楽しみたい。
惣領の甚六
わがことで恐縮ながら、齢八十有余歳長生きした兄にまつわる話。育った家は三男三女、昭和の昔ならごく普通の家庭で上から女・男・女・男・の順、そこで男の私、そして末が女の順の家族構成。戦争中までは商売繁盛、恵まれた環境に育った長兄は家督を継ぐ身ゆえ大事に育てられたが惣領の甚六。晩年は家運も衰え孤独のうち一生を終えた。
その兄にまつわる思い出だが父に連れられ善通寺師団に入隊した兄に面会にいったこと。兄は体格だけは人並より優れ甲種合格で帝国陸軍の一兵卒として徴兵された。当時高知県に本籍ある青年は大抵地元高知の歩兵部隊に入営していたが、頑健な体力を見込まれてか香川県善通寺の山砲部隊に入営する破目になった。山砲部隊といえば山また山の険しい道を大砲や車輪を肩にかつぎ駆け巡る重労働の軍役である。
入営して一年ほど経ったころ、いよいよ海外に赴くことになった。噂で「満州に移動する・・」と聞いた父は私を連れ長時間の汽車の旅、善通寺に赴いた。
交通事情が大儀な戦時中の長旅、「日曜日には面会が許されるだろう」と父は考え、前夜善通寺参りの遍路が泊る宿で一夜を明かした。そして翌朝、旅情珍しく二階の窓際に坐って道行く人を眺めていると、いままで見たことのない青い目の白人が二列縦隊で足早く道を通り過ぎている。よくよくみると彼らはくたびれた軍服ながらみんな屈託ない顔つき、背をのばし行進している。日本中が戦勝に浮かれていたころで多分占領した香港から連れてこられた英国兵の捕虜ではなかったかと思う。列の前後を銃剣付の銃を肩に監視する日本兵。半ば駆け足でゆくのがなんともユーモラスだったがいまもその姿が脳裏に残っている。
その日曜日午後、父と一緒に兄が入隊した山砲部隊の営舎に行った。営舎に入って直ぐのところに面会所がある。そこで外出している兄を待っていると一時間余り経ったころ兄の姿が目にとまった。新兵は入門する際歩哨の立っている位置から当番下士官が坐っている詰所前まで、敬礼のまま通過しなければならない。そこには古参軍曹がでんと坐っていて新兵いびりをしている。
「おい、おまえ!ちょっとここに来い!」
「おまえ、手にもってるのは何か?」といった調子。詰所に呼ばれて散々油しぼられる光景が次々目前で展開され、子供心に「軍隊は怖いところや」と身が引き締まる思いだった。
さて兄は如何と息をのんでいると順番になり衛兵前で敬礼、数歩歩いた途端、当番軍曹が一喝、
「こらっ!本を持ったおまえ!こっちへ来い」
詰所に入って十数分。やっと解放され出てきてようやく面会を許される。
後で父から聞いた話だが、兄が携えていた本は“聖書”だった。「そんな書物を提げて外出とはけしからん!軍規上許されぬ」と散々痛めつけられたという。
そのことでなによりショックを受けたのは入営の際聖書を持たせた父ではなかったかといまにして思う。わが子が兵隊として国のため働くのをなにより名誉と信じ心底から惣領の出征を喜んで見送った父である。かたや聖書にある「愛」とか「敵を愛せよ」の言葉を信じていた父。こうした心情の乖離がとても不思議に思えるが常軌通じぬ戦時中なら無理ないこと。人間喪失の時代だった。
