・・・日々の記録・・・



 須磨で魚釣り


一年ぶりに須磨海釣り公園に出かける。やや時季遅れの感あるが「小あじ」のさびき釣りをする。金曜日の午後だったが意外に釣り人は少なかった。大抵は暇つぶしの老人たちである。
  久しぶりにこの海釣り公園にきて驚いたのは、最先端の「ロ」の字形に連なるメインの釣り場の先端がすぱっと無くなっていたことである。
 どうやら台風の高波で押し流され、基幹の橋脚を残し上部橋梁全体が海中に沈んでしまったのだろうか。この海底には漁礁代わりに神戸市電の古い車両を沈めたと聞くが、それと同じ運命になったのか。
 「釣り台補修工事中」の看板があり出入り禁止、絶好の釣り場には陣取りもできない、残念だが止むを得ない。そこで第二釣り台、管理塔の下に坐り、西向けに仕掛けを垂らす。

 本日は中潮で満潮は午後5時過ぎ、釣り始めた時刻は2時過ぎ、西に流れる潮はやく、釣糸が横に流されて釣りにならない。そこで重い錘につけかえて2時間あまりねばってみた。結果は狙いの「小あじ」は一尾もあがらなかったが、長さ10センチほどの「イサギ」の子を20尾ほど釣り上げた。
 好天で澄みきった青空、微風頬に海の香りもほのかで、爽快な半日の釣り行だった。
 近く開港予定の神戸空港の発着試験飛行が先日来続けられており、双発機が時間をおいて上空を通過する。東方海上はるかに見える埋め立ての空港を飛び立って、西に向かい明石海峡大橋の上空を飛ぶ機影を追ったり、波間の沈む釣り糸を見おろしたり、退屈しない釣りだった。
 この海釣り公園のロケーションはすばらしい。南は全面大阪湾を、西は明石海峡をはさみ淡路島や明石海峡大橋、海峡を過ぎる九州、四国行きの大型フェリーや外国船の群。

 目を北側に転ずると、そこにはかの源平合戦でなじみある山が海浜に至り、「古の須磨の関此処なり」である。国道、JR、私鉄の各線が狭い海岸に併行し、往来する電車や自動車は後を絶たず、それらの光景を眺めていると、むかし「船上から源氏の軍勢を一望した平家の公達」の気持ちが察せられる。こうして眺めを楽しみながら釣り糸をたれると、釣果などあまり気にならない。

 人出は少なかったが、おりよく居合わせた隣人が同年輩のせいで心安くなり、言葉遣いから同じ神戸住まいと判り話し合ううちに遠慮もなくなる。聞けば笑って、
「晩のおかずに形のよい鯵を釣ろう」とやってきたという。本格的な流し釣りを始める。ところが小一時間経ったころから潮のじあいがよくなり、竿先しなる鯖の入れ食い状態を現出しあっという間に10尾ほど釣り上げた。

 針にかかった鯖は海中を右に左に横走りするので、その側で竿を出している者は、その都度自分の釣り糸がからまないよう竿を上げるのがマナーである。再三上げ下げする私の竿使いに、当の御仁も気兼ねしたのか。
「こんな大きな鯖は5尾もあれば十分や。お宅、よかったら家に持って帰ってや。」
 と私のクーラーボックスに釣り上げるごと鯖を放り込むこと合わせて3尾、とれとれの鮮度のよい鯖を棚ボタで頂戴した。恐縮の至り!これで今夜の食事が楽しみ。
 かれこれ3時間あまり楽しい談笑後、一期一会の釣り友に深く礼をいって一足先に釣り場を離れる。




 やきもち地蔵


 神戸電鉄「山の街」駅から有馬街道に下りた交差点、向かって右側に白塗りの看板塔が立ち「やきもち地蔵」の文字が目につく。
角の蕎麦屋「吉まん」で食事した後だったがその看板をみて「ちょっと寄ってみるか」という気になり、鉄筋つくりの階段をトントン下りて赤い欄干の小橋を渡ると道の左右には赤い幟がひらひらと風になびいていた。

「やきもち地蔵」は古くから近辺では評判の地蔵さんで、願掛け参りに訪れる人はいまも絶えない。何十年も前のことだが幼い娘を連れこの地蔵さんを訪れたことがある。当時の記憶覚束なく「はて?こんな辺鄙なところだったんか?」と首かしげる始末。

  それでも「ここで焼餅を買って食べたなぁ」という記憶がどっかに残っていて、「寄ったついで焼餅でも買って帰るか」と狭い参道を通り抜け、地蔵堂前の家に近づいたが生憎売店ではなかった。「時代も変わり人出も減って商売成り立たずか」とあきらめ、地蔵安置する小さな祠に入ると、なかはシャモジがいっぱい並んでおりそれぞれ願掛けの文字が目に、ほとんどは「合格祈願」の願掛けだった。
 肝心のご本尊「石のお地蔵さんは」と覗うと、全身覆う錦糸の布を頭からすっぽり被り、地蔵さんの姿は拝めず。
「まぁーこんなもんか」とあきらめ、祠をさらに奥に抜けると小道があり、道側に可愛らしいお地蔵さんがひとつ鎮座していた。
 両手で受け止めるほどの大きさだが、その表情の愛らしきこと!思わず見入ってしまった。いい記念だとデジカメに収める




 やまももの思い出


 散歩道、ときどき一服する公園があり、そこには「やまもも」の木が十数本並んでいる。その木にたくさん実がなり、すでに熟しはじめ、まさに食べごろである。
 私が育った田舎では梅雨過ぎから盛夏にかけて、やまもも売りのおばさんが、前後にやまももを入れた大きな籠を天秤棒で背負い売り歩いていた。
 潮風があたる山に植えたやまももの実は甘みがあり、そのおばさんの家のやまももはとくに美味しかった。おばさんが家の前で籠を下ろし声をかけると、やまもも好きの父が笑顔をうかべ出てくる。一升枡に山盛り一杯何銭かでやまももを数杯も買い、笊にいれ塩をふりかけ、家族みんなでおやつがわりに食した。
 やまももは一粒ごとに吐き出す種が厄介だが、新鮮な赤い実は甘酢っぽい味で、野生の香りもほんのり、食するほどになんともいえない満足感が残る。季節を問わず年中出回るハウス栽培と違い、夏だけの天然果実である。

 実はそのやまももが土佐に限られ珍重される果実だとは思いもしなかった。作家の宮尾登美子さんの短編集「楊梅の熟れる頃」に「楊梅−やまもも−は、暖かい潮風の吹く太平洋岸に育つ木ですが、その実を珍重して食べるのは高知県だけではないでしょうか。」と書いているのを読んで知った。
 さて、むかしのよしみで庭に植えたわがやまももは、実もたわわ熟しはじめた公園のやまももとは正反対にいっこうに実を結ばない。ましてや食を楽しませてくれたことなど一遍もない。
 やまももを植えるときめたとき、「やまももには雄と雌があるのよ。一本だけ植えても実はならないから駄目よ」と家内から言われたが、それはほんとうだった。後悔先に立たずとはこのことか。





 「萬や」のめし




 郷里を離れついつい足も遠のいてはいるが、年末になるとどうも気になる。「ひとつ墓参かね帰省するか」ということになった。

 高知市からさらに西に車で五十分、到着した郷里の小高い山上の墓にもうでるとそこら辺り茅々たる有様、生い茂る草をみてわが手に余る気がした。仕方がないがそれでもと泥まみれになって作業すること十数分、草をむしり、花を飾り、水をやり、やっと一息ついた。その後、山を下り時計をみると昼に近い。
  数日前のインターネット「満天土佐」や「中土佐日記」で町役場の近くに「萬や」という食事処があるのを知っていたので、昼食をとそのあたりを一周するが、動きながらの車外、情けないことに動態視力ともなわず「萬」の字を「草」と読み違え、ついついその店前を通り過ぎ、それではと通りかかった老婦に訊ねた。
すると彼女は私をしみじみながめ、
「あんた、○○さんじゃーないの」と言う。
「そうですが」と答えると、
「ほんと!××○○さんにそっくりやねぇ、お墓参りにおいでちょったのですか。それはそれは」のご挨拶。
 年格好から同じ歳くらいだが、何処のどなた様かとんと見当がつかぬ。いたしかたないのでただただ頷いてばかり、ひとしきり田舎話を聞かされたあげくやっと本筋の「萬や」にふれる。なんのことはない、先程通り過ぎた「草や」が「萬や」だった。
「萬やはその角を曲がったところです」と教えてくれた彼女のことも少々気になるが六十年余も昔の記憶を呼びおどすは難儀、やむなく一礼し別れた。 「草や」ならぬ「萬や」は明るく小きれいな食事処だった。店に入ると目の前にどかんと大釜が坐っている。明るい窓際に坐ると愛想のいいご婦人が出てきた。きょうの献立をたずねるうち「刺身定食」が食べたくなった。
「今日のお刺身定食はビンチョウまぐろと太刀魚ですがどちらにしましょう?」ときく。
 久方ぶりの帰省だ。「かつおの刺身」か、せめて「たたき」をと所望した。だが大正町市場のとれとれの魚を提供しているがきょうの刺身はこの二品限りという。そこで生のマグロ刺身にした。

 昔土佐山内候に納めたという「仁井田米」。この辺では「匂い米」というが、それらしき「めし」が碗に盛られ出された。「まきでたいた炊きたてのごはん」というだけに旨かった。だが、日ごろ真っ白ごはんばかり食べている家内はどうやら匂いが気になるらしく「まぁまぁ」の表情。私は昔なじみの懐かしい味と香り、十分に堪能した。
 食後スモールコーヒー(100円)を追加すると可愛らしいデザートついたセットだった。




 凧揚げ楽しんだ頃


 子どもの頃、近くの海浜でよく凧揚げを楽しんだ。正月、男の子の遊びといえばもっぱら戸外での凧揚げだった。育ったのが小さな港町、町の一隅に子ども相手の駄菓子屋があり、その店の親父さんが器用で手作りの凧を売っていた。形は「土佐凧」のひとつ正方形で、割竹を箸の大きさよりやや小さめにしごき、そこそこの長さに切断し骨組み、竹の接点を糸で縛り、表面に障子紙で貼れば白地の凧が出来上がる。後は黒、赤などの絵具を使って縁取り、桃太郎、金太郎、武者などを描くのだが、手際よく仕上がるのを傍で見るのが面白かった。
 私の凧は家紋描き、「丸に三の字」の注文、いともやすやす白黒の縁取りで家紋描き外側は紅色で「一丁上がり!」、その凧を家に持ち帰り糸結び、重心をあわせ、三か所に針をさし糸を通して凧が仕上がる。安定保つため凧の下部に長さ一メートルの紙テープを数本しばりつけ、延長数十米のタコ糸をつないで勇躍砂浜に出かける。
 冬場山から吹きおろす北風に乗せ南面の海上にむけ凧を揚げるのだが、ヘマをすると海中に落下し凧がなくなる恐れ、そんなスリルがなんともいえず、うまい具合に徐々にタコ糸伸ばすと海上遠くはるか空高く凧が舞うのがなんとも壮快だった。

 その日から数十年経ち、わが子が凧揚げした頃の私と同じ年頃になった。某日ふと凧揚げの思い出蘇り、むかし駄菓子屋の親父さんがした手法で凧を作ってみようと思い立った。上の娘は小学2年生、下の娘は4歳だったが、偶の休日遊び相手になってやろうと市場の模型店、文具店で檜材具や用紙、不易糊など買って帰り凧作り、家紋の代わりに商売していた父の商標を描き、絵具で上塗り、タコ糸がなかったので魚釣用のテグスを使い、ひき糸には太目のテグス、それを釣道具のリールに巻きつけ広場に出る。
 当時、海が臨める小高い丘の団地に住んでいたので、そこの広場から西風を利し東の空にむかって揚げると意外や意外空高く舞い上がった。

 娘ふたりは凧揚げは初めての体験、空舞う凧を見上げ満足そう、その姿見やり「お父さんは子どもの頃、こうやって遊んだよ」というと「うーん」とうなづいた。凧揚げにまつわる再度の思い出である。
 それから更に四十数年、ことし正月たまたま山沿いの広場に行ってみると、幼な子相手に風変わりな洋凧を揚げている若い父親に出合った。世代変り、揚げる凧の形は異なるが、楽しそうな親子を眺めていると、往時のことが思い出され、懐旧の念がこみ上げてきた。










 庭に鶯


 庭にある棒樫が一本立ち枯れてしまった。侘しい冬の庭さらにの風情、そこで庫から電動ノコを引っ張り出し、幹をスパッと切ってしまった。明日が「燃えるゴミの日」というわけで、かれこれ細かく刻みビニール袋に納めた後、作業これまでと骨休めしようとすると窓越しに、
「そこの梅の枝、ちょっと切ってちょうだい」と声かかる。
 棒樫のそば貧相な梅の木が一本。標高数百米山上の家の庭なれば、梅も開花遅く未だ蕾のまま、
「花がまだや!もっとおいといたらどないや」と応ずると、
「棚に飾るの」と応え、さらに、
「桜切るバカ、梅切らぬバカ言うでしょうが!梅は切ってあげたほうが残る枝が伸びて良うなるの!」と念押された。
 かようなことで蕾の小梅棚上に鎮座。その切り花眺め「春近し」を感ずる。
 ところで今朝がた、目をさますと家外からかすかに「ホーホケキョ・・」と鳴き声。ことし初めての鶯かと起き出る。
 そろっと雨戸開けその隙間から外をうかがう。
 昨日切取った梅の木あたりかとそのあたりをそっと見たが姿が見えない。それでもつづけるように「ホーホケキョ・・」の鳥の声、かなり高い鳴き声である。
 飛び立つ気配もなさそう。たぶんそこいらにとまっているのだろう。
「さては!」と雨戸を開け庭全体を見回したが声はすれども姿は見えない。そのうち声も止みどこかへ飛び去っていった。
 初鶯をじかに見ぬのを残念がる私に、
「梅が咲くころ、また来るわ」と慰め顔の家内。実を言うとこのところ耳が遠く鶯の声なんて全然聞こえなかった筈、それでもって「あんた、それ空耳じゃぁなかったの」と言いたげな顔だった。




  なんでぇー


 そろそろ散髪にゆかねばと思い「先月は今頃散髪してたかなぁ」とたずねると、カレンダーのメモをみながら家内一言、「四十五日も経ってるよ」という。これ放任主義というべきか。はたまた老夫婦相互不干渉の然らしめるところか。
 思わず「髪が伸びなくなったなぁ」とつぶやけば、「毛が薄くなったせいよ」とちょっぴり嫌味いう。そこで話逸らし、
「散髪ついで、帰りになにか買ってこようか」と伺えばややあって、
「そうねぇー、明日の朝の食パンでも買ってきて」と言返る。
 バスで数分ゆき散髪屋で店主相手世間話交わしながら散髪。勧められるままにコーヒーを一杯頂戴。そして近くのスーパーに立ち寄る。折から特売デイとか、店内に食物類がずらり並んでいる。それを見て回り、3袋58円の生そば、5本98円の竹輪、128円のヨーグルトなどなど選んで籠に入れレジで精算。
 家に帰り着き、「味はどうだか分からんが、安いもんを買ってきたよ」と声かけると、やおらビニール袋を広げた家内、
「あんた!忘れてるやん」と声高にいう。 老輩首をかしげ、「はてっ?」
「いやねぇー、食パンだけ頼んだのに」 「なんでぇー?」 「肝心のもん買わんと余分なもんばっかし買うてきて・・」と連発。
 その言を耳に、「吾ながらかくもボケたか」と自戒の嘆息。
「あーあー!歳はとりたくないなぁ」とつくづく思う。        ・・・空高し鳶悠々羨まし・・・




 とんかつ蕎麦


 神戸市電が走っていたころ、三ノ宮から王子公園、六甲道行の石屋川線電車道に熊内四丁目という停留所があってそこから南に道を下ると「む〇〇」という蕎麦屋があった。
 店主は六十歳前後の頑固親父で、友に誘われ暖簾くぐったのだが、一見客の私を一瞥、挨拶もなし、ひたすら調理に余念がない。
「さて何を食べようか」思案、きつねうどんを所望した。するとその親父間髪を入れず「うちにはうどんはおまへん!」と素っ気ない応答。

「愛想のない親父だなぁ」と感じたが、友の手前、店を出るわけにもゆかず、仕方ないので友と同じとんかつ蕎麦を注文した。ところがその旨いこと抜群、汁も残さず碗を空けた 

それからは連日蕎麦屋通い、とんかつ蕎麦ばかり。無駄口叩かぬ親父も店に入ってくる私を見かけると、注文も聞かずさっさととんかつを揚げ始める始末。そのせいかだんだん下っ腹が太くなったように思う。
 その後仕事が大阪に移ってからは馴染みの店通いも絶え、数十年後には阪神淡路大地震でその辺り一帯は壊滅、そのまま消息不明となった。
 最近たまたまその辺りを歩いてみたが、店のあった所は大きなマンションが建っており蕎麦屋の暖簾はどこにもなかった。いまも蕎麦屋ではよくとんかつ蕎麦を注文するがむ〇〇のとんかつ蕎麦に敵うものはない。
  ところで先年、明石の県道を走行中一軒の蕎麦屋があって、偶然にも屋号が同じくむ〇〇とあったので寄ってみた。すると出されたとんかつ蕎麦が昔のむ〇〇の味にそっくり、とんかつの大きさ厚さ、刻み葱、白い二八蕎麦まで似ている。汁も同じ感じ。あまりのことに「もしや」と気になって、それとなく調理場をのぞいたが、あの頑固親父ではなかった。
 歳月の経過思えば無理もない。われも古希を疾うに過ぎた。親父の齢なら優に百歳を越す筈。大地震もあった。生きて会える筈がないと悟った。
 それはそれとして、昔同様旨いとんかつ蕎麦が食べられたこと。「長生きしてよかった」としみじみ思う。





 恵山の泥人形




 九年前の秋、さる友人たちと連れ立って上海に赴いた。その際無錫で買った無彩色、土色の泥人形をいまも本棚に飾っている。

 その人形にまつわる話だが、無錫には四百年前から作られている名産の「恵山の泥人形」がある。その近辺はきめの細かい良質の粘土が産出され農民の手によって素朴な民芸品の人形が作られてきたがいまは規模の大きい工場ができて海外に輸出されている。
 私たちが訪れたのは小さな工場だったがそこでは若い娘さんが手作りの泥人形を刻んでいた。見学をすませた後展示場をのぞくとそこには彩色した華やかな「恵山の泥人形」ならぬ黒い粘土細工そのままの泥人形がずらり陳列してあった。
 その一つ一つを感心しながら見てまわっていると、なかに静座した娘の人形が目についた。
 そのたたずまいの清楚さにじっと見惚れていると、知らぬ間に寄ってきた友人の奥さんが、
「いい人形が見つかりましたか」と声をかける。思わずふりかえり、我に返ってとっさの冗談で、
「むかし失恋した彼女にそっくりの人形がおますねん。それで見惚れてますのんや」と応答。すると彼女真顔で、
「まぁー、どの人形?」と反問する。いまさら冗談ともいえず、その人形を指差して、

「この坐ってる娘さんの人形」と応えると、
「あら!まぁーきれいねぇ。別嬪さんやねぇ」と快笑、「買ってかえれば」としっこく言う。そんな後押しあって問題の人形を買う破目になった。
  そんな旅の思い出ある泥人形だがときどき眺めては当時を思い出す。そして、
「しばらくお逢いしてないがあの頃のように屈託ない顔で毎日お過ごしだろうか」と案じている。






  老夫婦の寝物語


 歳をとると夫婦それぞれ思い違いが多く、そんなときお互い言分にこだわり口論することが日常茶飯事となった。われながら自戒の至りだが、今回はある夜の話を一席。
 電気消し真っ暗闇の深夜どうにも寝つかれない。遠慮気味に小声で寝ている家内に、

「もう寝たんか」 と声をかけてみた。
 どうやら同じように寝つかれない模様だ。近頃はむかしのように窓を開けっ放しにして風をいれながら寝るのは剣呑で雨戸を閉めきってるせいもあって昼間の暑さが残る室内は空気が爽やかとはいえず、快眠にはほど遠い。それに老いも手伝う。

 そんな雰囲気のなかお互い横になったまま四方山話になった。
「おまえ、戦災にあったとき爆弾でやられたんやなぁー」
「いいえ違います。焼夷爆弾です」
「そのときトイレにゆくいうて防空壕を出た後へ爆弾が落ちておまえだけ助かった言うてたなぁー」
「いいえ、仲のいい友だちの家に行って遊んでいるとき突然爆弾が落ちてきたの!落ちたところがコンクリート塀の外の道路だったさかい助かったの」
 話がチグハグでかみあわない。これでは私がボケてしまったのか、そうでなければ彼女がでたらめを言ってたことになる。
 しかしこんな話を口論の種にするのは少々心とがめる。そこでこちらは一歩後退し、彼女の話を神妙かつ静かに聞くことにした。
 当時、家内は小学5年生、神戸の2回目の空襲は終戦の年の6月のことである。彼女は、神戸の西、須磨と舞子の真ん中、垂水の町内に住んでいた。町の北側海に面して小高い丘があり、そのふもとに1棟3軒つづき2階建の、当時でも珍しい庭付の借家に住んでいた。

大家さんが一番端の家、真ん中が家内の家族が住んでる家、一方の端は米屋の家族が細々と営業していた。
 勘違いだといわれた「防空壕命拾いの一件」は、彼女の説明によれば、「近所の資産家の庭には頑丈な防空壕があって近所でも評判だったが、家内はそこの1歳下の娘と仲良しでよく遊んでいたので、空襲警報のサイレンが鳴るとよくその壕に入れてもらっていた」という懐旧談だった。
 さて、神戸空襲の当日、彼女は朝から休校だったので、別の仲のいい友だちの家にいって庭で遊んでいるといきなりものすごい音がして近くで何かが炸裂し目の前が真っ白になった。

後で気がついたときは濛々と白い煙につつまれていたが一体何があったのか分からずしばらく正気に返らなかったそうだ。
 あわてて近所の人々について家の外に出てみると前の道路の真ん中に大きな穴があいているのが見えた。つまりコンクリート塀のおかげで爆風に遭わず命拾いしたわけである。
 怖かったが大人たちの後について近くの丘に逃げそこからわが家の方向に目を凝らすと、3軒並びの住宅が炎上しているのがはっきり見え呆然としたという。
 その空襲で端の米屋さんの若奥さんは赤ん坊をかばうような格好で溝の中で発見されたが親子とも焼死していた。夫出征後働き手いない若奥さんを助けて米屋を続けていた夫の老母だけが生き残りたいそう可哀そうだったという。
 不幸中の幸いか家内の家族はみんな無事だったが家屋は全焼し住むところがなくなった。そこでやむなく明石の母の実家に一家全員身を寄せたという。
 こういう戦争中の話、いつ聞いてもまたどんな話でも、切ない思いがする。
 家内と出会って50年経った真夏の夜、眠れぬままにこんな話を聞くのも「なにかの因縁か」と思う。




 シロギス


 シロギスを関西地方や私の故郷四国では俗にキスゴという。全長15〜30cm、表面は淡褐色だが肉白く透明感があり青魚ほど生臭くないが、なんとなく潮の香して上品な魚だ。軽く塩焼し頬ばると生ビールに適いまさに夏の味覚だ。

 小学4年の夏休み、家近くの浜辺にでかけ夕涼み、昼間使った川釣りの竹竿で餌はミミズそのまま針につけ、じゃぶじゃぶ腰までつかり波打ち際で釣り遊びしてると15cmほどの小さな魚が釣れた。竿をあげみるとそれはキスゴ、「なんでミミズの餌で海の魚が釣れるの?」と首かしげたことを昨日のように思い出す。それがシロギス釣りの初体験。
 長じてからは専ら投げ釣り三昧。夏休みともなると車を駆り四国は言うに及ばず、淡路、紀州、丹後等そこいらの海浜に出かけてはシロギス釣りに興じた。
 そうした思い出のうち、同輩サエグサ君と三重の浜島に出かけた釣り行、海浜で一夜明かし早朝に起き投釣り数回、すると突然「ビクッ」と竿に大きな当たり「スワッ」とリール巻くと全長28cmのシロギスがかかっていた。いままでの最長記録である。あのときの「ブルン」という手応え、キス独特の引きの強さ、その感触は得もいえず忘れ難い。
 それと相前後する頃同輩のシマダ君から電話あり、「近くの浜でピンギスが仰山釣れている」との誘い。いそいそと塩屋の浜に出かけ二人揃って波打ち際に立ち長い磯竿でイソメをちょん掛けしてピンギスを仰山釣りあげたこと。そのときはシマダ君の奥さんがわざわざ砂浜まで魔法瓶をさげて来られウイスキー入り熱々のコーヒーをサービスしてくれたのも懐かしい。
 とくに印象深いのは、舞鶴湾からモーターボートで日本海に出てシロギス釣りをしたこと。当時親交あったナカウエさんの招きだったが民宿で一泊、早朝起きて舞鶴港からモーターボートで舞鶴湾外に。沖に浮かぶ冠島や丹後半島を眺めながらのキス釣り三昧。かなりの数釣り上げ、船縁に紐付けした魚籠にシロギスを投げ入れ泳がしていたところ、釣り場を移動する際迂闊にも魚籠を海中から引き上げること忘れ、魚籠ごと海中いずこかに流してしまいオジャンになった。
 船長のナカウエさんが釣果ゼロとなりその後あまり釣果あがらなかった私を気の毒がって、帰り際キスを数十尾私のアイスボックスにそっと入れてくれたのには恐縮した。
 その後同じモーターボートで再度釣り行、沖に出て夢中でキス釣りをしていると、いつのまにか海上保安庁の監視船が接近し尋問を受ける。 船長のナカウエさんが免状を提示し問答しばし、どうやらおさまったが、察するに北朝鮮の不審船警戒らしく、いまにして思えば、拉致や不法侵入からむ防御だったと思われる。
 そのほかあれやこれやキス釣りまつわる話しは山ほどある。 そのひとつひとつの思い出にからむ友人や知己の多くは既に世を去り、寂しく思う。




 犬の話 


 十年一昔の伝で言えば随分昔の話だが、神戸・新開地のお好み焼屋で生まれた雑種の仔犬を一匹貰い受け育てたことがある。雌の中型犬で毛並みや毛色はシェパード風だが、どこから見ても多種の血統が入り交じった四国犬系の混血、瞳が丸く大きいのが唯一の取り柄、並の犬だった。

 縁とは不思議なもので飼うほどに情が湧いてきて、家族同様の交わりとなり十六年も長生きし、晩年は欠くべからざる存在だったが、寄る年波には克てず天寿を全うした。晩年の老犬の姿などは、いつの日かわが辿る道ではと思われる哀れさであったが、情が移ればこうなるのか、犬亡き後はしばらく失意感におそわれ意気消沈したものである。

 そんなことで、とうの昔のことながら、犬にまつわる思い出はいまだ脳裏から去ったことはない、まことに「持つべきものは犬」である。

 たまたま作家安岡章太郎さんの随筆『死との対面』(光文社刊)を読んでいると「僕の散歩は、犬を飼って犬のために散歩したことから始まった。・・」という文章が目にとまった。読み進むと「僕の友人に一人、老犬を愛し、その老犬と暮らすことを生き甲斐にしている男がいる。その男が言うには、老犬を養うことは孤独を学ぶことになるそうだ。なぜかと言うに・・」と続き、犬の一生は人間の寿命の三分の一か四分の一しかなく、犬を飼えば犬の死に立ち会うことになり、人間の死に様がどこか小賢しさを残したまま死ぬのに対して、犬は本当に生きものの哀れというものをもったまま死ぬ、人間にない美が犬にはあると記し、ある日その男から手紙が来て「この頃、わが家の老犬は白内障が進んで両眼とも殆ど視力を失ってしまいました。それでも散歩に出たがりますし、どっちみち一日中、家の中に置いておくわけにはいきません。しかし、この犬のために盲導犬をつけるわけにもいきません。そこで小生は、思い切って自分自身、盲導人になる決心をいたし、朝、夕、犬の先導となって歩いている次第です。・・・・」と話が続く。

 ここまで読み、まるでわが経験のひき写しではないかと自ずから驚いた。同様に視力失いおまけに声も出なくなった老犬を看とった当時を思い出したからである。犬を失った人は誰も「犬の死に際には二度と立ちあいたくない」と言うが、老い衰えた愛犬の哀れな姿を日々眺め、その死に様をじっと見守る辛さは、人のそれとなんら変らない、身を切られる思いである。




  津波シンドローム


 何年ぶりだろうか。室戸から徳島に抜ける国道55号線をドライブ。ここは海岸沿い室戸阿南海岸国定公園に指定される眺望絶景の道。車窓ちらりちらりと右に広がる横一線の太平洋を一瞥、海の青さ美しく天気晴朗ゆえ見事。横目運転できるほど車往来少ないのは年明けそれも厳寒の季節ゆえか。
 未だ春遠い1月というのにもう老若男女の歩き遍路が一人、二人と通り過ぎてゆくのも珍しい。徳島日和佐の薬王寺から次の札所高知室戸の最御崎寺までは遠く長い道程である。歩き疲れかはたまた思案しての道ゆきか、杖つきゆっくり歩む姿は見るも難儀。そんななか楽し気に語りながら歩む若い男女をみつけほっとする。
 こうして車走らせること長時間、高知県東端東洋町に入る。もと甲浦という地だがその手前、湾は狭いが広い砂浜がある。そこは白浜海水浴場で広い駐車場に入り一刻の休憩。
 その日は無風にして快晴、昼近く陽光燦々、砂浜の端に立って海を眺める。一息つき「さて出発!」と歩み始めて気づいたが近くに看板が立っていた。
 みると南海地震に備えての避難案内。「津波に注意しよう!」の大文字。白浜人工地盤上の避難場所への道案内。「→100m」の矢印あって「ここは東洋町白浜海岸です。地震発生から約5分で津波第1波が来ます。その後、最大約8mの津波が何回も押寄せます。(約6時間も津波危険あり)」の説明。さらに「でも大丈夫!人工地盤に避難しよう。」と記してある。
 ご丁寧にもやや太字で「約8mの津波が来てもまだ4mの余裕がある高さ設定」とある。つまり避難場所は高さ12mというのだ。
 そこでふと不安になった。果たして想定内ですむだろうか。東北の津波では3階建の屋内が総なめになったと聞いている。津波の高さは優に20mを超えるのではないか。それを考慮すればいかに津波に耐える人工地盤上であっても海抜12mの避難台では助かる命も覚束ないではと危惧した。
 そして「ここから避難するとなればもっと高い処へゆかねば」と思ったがそう思う私は津波シンドロームにかかっているのだろうか。




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