
四季それぞれ 芳春
春

都路をともに歩みて花の昼
鶯の初音も遠き山路かな
木蓮の香りほのかに朝小道
行く道に色やさまざま山つつじ
夏

楊梅のかすかに揺るる梅雨晴間
夕暮の地すれすれに飛燕かな
夕立ちぬ山一瞬に靄のなか
雷一閃会席の膳冷酒酌む
秋


ざわめきのなかに鉦の音阿波踊
四万十の川面に低く霧流る
ひぐらしの声遠くして夕の膳
秋の晴やまなみ遥か雲流る
冬

霜の野を犬駆けたりき嬉嬉として
時きざむ音に目覚めり雪の朝
朝靄や湖面に遊ぶ鴨が二羽
冬日落つ茜の海に島ふたつ

吟句・・・・小倉百人一首で遊ぶ 芳春
【参考文献・・中村聞一郎監修『百人一首』・・水田潤著『鑑賞小倉百人一首』】


一 天智天皇
第三十八代天皇、中大兄皇子時代中臣(藤原)鎌足とともに蘇我氏を滅ぼし孝徳天皇の皇太子となって大化の改新を行う。都を近江に移す。
・・・秋の庵衣の袖は露に濡れ・・・
二 持統天皇
第四十一代天皇 天智天皇第二皇女、叔父(天智天皇の弟)の皇后となり、天皇崩御により女帝として即位し、藤原京を作る。
・・・夏来る白き衣に天の香具山・・・

三 柿本人麻呂
生没年は不詳。持統、文武両朝に仕え吉野、初瀬などに宮廷歌人としてともに旅す。晩年石見(島根県)に赴任その地で没す。
・・・別れきて独り寝侘し秋の宵・・・
四 山部赤人
宮廷歌人の一人、聖武天皇の吉野、難波、紀伊への行幸に供した歌あり、歌聖と称され、自然描写に優れ歌風の格調高い。
・・・田子の浦眺め遥かに雪の富士・・・

五 猿丸大夫
生没年不詳。実在したかどうかもはっきりしないが、三十六歌仙の一人「大伴黒主の歌は古の猿丸大夫の姿也」という記述もある。ただこの歌は「古今集」に「よみ人知らず」としておさめられている。
・・・奥山や紅葉の道に鹿の声・・・
六 中納言家持
「万葉集」の歌人大伴旅人の長男。大伴氏の首長として一族を率いる。天平時代の代表的歌人。「万葉集」編纂にかかわり三十六歌仙の一人である。歌風は繊細優美。
・・・きざはしに白き霜ある夜更かな・・・

七 安倍仲麿
中務大輔船守の子。十六歳のとき遣唐生として留学、玄宗皇帝に仕える。詩人の李白、王維と親交あり。在唐三十五年帰国途中暴風に遭い船が難破し安南に漂着、再び唐朝に仕え在唐五十年その地で没した。
・・・遠き空月は遥かに都恋ふ・・・
八 喜撰法師
六歌仙の一人に数えられるが生没年は不詳。九世紀の人で出家して宇治山に住んだといわれる。一説には清和天皇ご出家の法号ともいわれるが伝記不明。
・・・鹿や住む秋の宇治山閑かなり・・・

九 小野小町
歌仙の一人で平安時代を代表する女流歌人だが生没年は不詳。絶世の美人だったが晩年は容色衰え各地をさまよったなど伝説的話題ある。夢・夜・涙などの情感あふれる歌多く浪漫的な歌風は業平と並び称されている。
・・・長雨に花の命の短かけり・・・
十 蝉 丸
生没年、経歴不詳。十世紀の歌人と思われる。琵琶の名人との説あり。逢坂山に住んでいたことは間違いない。
・・・逢坂に別れ惜しみて春の旅・・・

十一 参議 篁
参議小野岑守の子。詩文に優れ博学をもって知られた。遣唐副使となったが事件で隠岐に流された二年後許され、都に帰り参議になる。漢詩、和歌にすぐれ野宰相と称された。
・・・冬の海漁夫に託して船出せむ・・・
十二 僧正遍昭
桓武天皇の孫、大納言安世の第八子。俗名良岑宗貞。仁明天皇の寵を受け蔵人頭となったが天皇が崩御し出家、比叡山にて遍昭と改名、花山元慶寺を創建し座主となる。六歌仙の一人、歌風は洒脱。
・・・吹く風に乙女の舞の麗しや・・・

十三 陽成院
第五十一代清和天皇の第一皇子。僅か十歳で即位した第五十七代陽成天皇。母藤原高子の兄藤原基経が関白とし政務をとったが精神病で乱行多く十七歳で退位させられ、その後上皇として過ごす。八十二歳で崩御。
・・・春遊ぶ恋の淵にや男女川・・・
十四 河原左大臣
名は源 融。嵯峨天皇の第十二皇子で仁明天皇の養子になった。源氏姓を賜り臣籍に降下。後に左大臣従一位に叙せられた。宇治に営んだ別荘は後の平等院として有名である。河原院に住む左大臣であったのでこう呼ばれた。
・・・紅葉ふる道に例へむわが心・・・

十五 光孝天皇
仁明天皇の第三皇子、第五十八代天皇。五十五歳で陽成天皇の譲位を受け即位。関白藤原基経に政治を委ねそれが関白政治のはじまりとなった。学問に優れ、温厚な性格だったが在位四年で崩御。
・・・春の野に若菜摘む手に名残雪・・・
十六 中納言行平
平城天皇の皇子阿保親王の第二子。在原業平の異母兄。業平とともに在原姓を賜り臣籍に下る。中納言、民部卿を兼ねた。経済の才あり学を好み、在原氏一門のために奨学院を創設した。文徳天皇のとき須磨に流されたことあり、「源氏物語」の須磨の巻はそのときの行平がモデルとして書かれたといわれる。
・・・峰で待つ人や恋しき春いなば・・・


十七 在原業平朝臣
平城天皇の皇子阿保親王の第五子。母は桓武天皇の皇女伊登内親王で行平の異母弟。行平とともに在原姓を賜り臣籍に下る。美男子で性情は多感奔放、恋多い、「伊勢物語」の主人公に擬せられる。六歌仙、三十六歌仙の一人。情熱的で美しい歌を詠んでいる。
・・・龍田川流るる紅葉くれないに・・・
十八 藤原敏行朝臣
陸奥出羽按察使藤原富士麿の子。宇多天皇の信任を得て従四位上右兵衛督になる。没年不明。書道、和歌にすぐれ、三十六歌仙の一人。
・・・春の浦人目忍びて逢ふの瀬や・・・

十九 伊 勢
伊勢守藤原継蔭の娘。生没年不明なるも美人といわれ宇多天皇の寵愛を受け皇子を生み「伊勢の御」と呼ばれた。女流歌人として活躍、貫之とならび称された。
・・・逢ふ人の心冷たし葦の浦・・・
二十 元良親王
陽成天皇の第一皇子。母は藤原遠長の娘。三品兵部卿に任ぜられたが五十四歳で急死。かなりのプレイボーイで京極の御息所以外にもたくさんの女性と関係あったと伝えられ、光源氏のモデルのひとりともいわれる。和歌ににすぐれ、女性との贈答歌が有名。
・・・春愁の人あり身をばつくしても・・・


二十一 素性法師
僧正遍昭の子。俗名は良岑玄利。清和天皇に仕え左近将監となるが、後出家して洛北の雲林院に住み権律師となる。宇多上皇の宮滝御幸には特に召され良因朝臣の名でお供し、醍醐天皇の勅命により屏風歌を書き禄をたまわった。三十六歌仙の一人。
・・・長月のとき過ぎにけり君待ちて・・・
二十二 文屋康秀
平安初期の歌人。縫殿助文屋宗于の子。山城大掾、縫殿助に任ぜられたときくが伝記は明らかでない。異名を文彬とといい六歌仙の一人。
・・・秋風や嵐と言ふか草木萎ゆ・・・

二十三 大江千里
・・・月みればもの思ふこと多きかな・・・
二十四 菅 家
菅原道真の尊称。菅原清公の孫で参議是善の子。幼少より学問にすぐれ文章博士となり宇多天皇の信任を得て「類従国史」を編す。醍醐天皇のとき右大臣になったが左大臣藤原時平の讒言にあい、太宰権師に左遷され失意のうち五十九歳で没した。死後、太政大臣を贈られ、天満宮として学問の神様に祭られている。
・・・旅ゆきて紅葉を幣に祈りけり・・・


二十五 三条右大臣
藤原定方、内大臣高藤の次男。右近衛大将・大納言を経て右大臣に。六十歳で没す。三条に邸宅があったので三条右大臣とよばれ、才人で和歌に優れていたほか管弦をよくしたと伝えられる。紀貫之、凡河内躬恒らの後援者として和歌を普及させた功績あり。
・・・人知れず逢ふことならむさねかづら・・・
二十六 貞信公
藤原忠平のおくり名。関白基経の四男。道真を讒言した時平の異母弟。道真と親しく大宰府左遷後も音信を絶やさなかった。時平の死後政権をとり摂政に、従一位関白太政大臣にまでなり藤原家全盛の基礎を築いた。小一条太政大臣とよばれ、摂政十二年、関白九年の長きにわたり政治の実権を握ったが、兄時平とちがい資性寛厚、子孫は摂関家として栄えた。七十歳で没す。
・・・峰紅葉いまひとたびの御幸まで・・・

二十七 中納言兼輔
左大臣藤原冬嗣の曾孫。利基の六男。従三位中納言となり右衛門督を兼ねた。五十七歳で没す。鴨川の邸宅に貫之・躬恒など歌人が出入りし当時の歌壇の中心的存在だった。三十六歌仙の一人。
・・・逢瀬なき人恋しかり春の川・・・
二十八 源宗于朝臣
光孝天皇の第一皇子是忠親王の子。臣籍に下り源姓を賜わり、兵部大輔・右京大夫などを経て没す。行年不明。和歌にすぐれ三十六歌仙の一人。
・・・草枯れて人も寂しき山里や・・・

二十九 凡河内躬恒
和泉大掾、淡路権掾など地方官を歴任六位を授けられた。微官ながら和歌では貫之とならび称され「古今集」の選者、三十六歌仙の一人。生没年は不明。
・・・初霜や折りたくもあり白き菊・・・
三十 壬生忠岑
壬生安綱の子。「古今集」選者のひとり。摂津権大目を経て六位に叙せられた。身分は低かったが歌人として名は高く三十六歌仙の一人。生没年は不明。
・・・残月に切なき別れ思ひけり・・・


三十一 坂上是則
坂上田村麻呂の曾孫葦蔭の子と伝えられる。従五位下加賀介に任ぜられた。蹴鞠にも秀で古今集時代の代表的歌人で貫之・躬恒と肩をならべ三十六歌仙の一人。生没年は不明。
・・・有明の月かと思ふ朝の雪・・・
三十二 春道列樹
従五位下主税頭新名宿弥の子。壱岐守に任ぜられたが赴任せぬうちに没す。歌人として目立った活躍はない。生没年は不明。
・・・山風に流れ淀めむ紅葉かな・・・


三十三 紀友則
武内宿禰の子孫の宮内権少輔有友の子で、貫之の従兄弟。土佐掾、少内記を経て大内記になる。当時を代表する歌人で貫之らとともに「古今集」の撰者に選ばれたが完成を見ずに病没。没年は不明。三十六歌仙の一人。
・・・花の昼散りゆくさまを惜しみけり・・・
三十四 藤原興風
参議藤原浜成の曾孫。父は相模掾道成。下総大掾を経て治部丞になる。管弦に長じ特に琴を得意とした。歌人としても著名で三十六歌仙の一人。生没年は不詳。
・・・秋思あり高砂の松友にせむ・・・

三十五 紀貫之
紀望行の子。土佐守となり勅命により任地で「新撰和歌集」の撰集にあたった。「土佐日記」は帰任のときの旅日記。従五位上木工権頭となり昇殿を許された。三十六歌仙の一人。生年不明だが七十余歳で没す。
・・・梅の花匂ひ懐かし古里や・・・
三十六 清原深養父
「日本書紀」の編者、舎人親王の子孫豊前介房則の子。清少納言の曾祖父。従五位下内蔵大允に任ぜられた。兼輔、貫之とも交流があり作歌も多い。晩年に大原の近くに補陀落寺を建て隠棲した。生没年は不明。
・・・夏の月雲間の彼方何処にや・・・


三十七 文屋朝康
文屋康秀の子。生没年は明らかでない。大舎人大允に任ぜられた伝記がある。卑官であったが歌人としては世評高かった。
・・・白露は玉のごとくに秋の草・・・
三十八 右 近
従五位上右近少将藤原季縄の娘。父の官名によったもので、醍醐天皇の皇后穏子に仕えた。権中納言藤原敦忠・師輔や桃園宰相源保光などと恋愛関係にあったといわれる。生没年は不明。
・・・暮の秋別れし人の命祈らむ・・・

三十九 参議 等
嵯峨天皇の息子広幡大納言言弘の孫、父は中納言希。姓は源。二十歳で近江権少掾に任ぜられ後参議になり四位。七十二歳で没す。
・・・春愁ふ忍ぶ心の切なさや・・・
四十 平兼盛
光孝天皇の皇子是貞親王の曾孫。父は大宰小弐篤行王。父の代に平姓を賜わって臣籍に下る。生涯低い官位で過ごし従五位駿河守にとどまる。後撰集時代を代表する歌人で三十六歌仙の一人。生年不明。
・・・恋心人に問われて春愁ふ・・・

四十一 壬生忠見
壬生忠岑の子。歌人としての血脈をつぎ、秀歌を残している。摂津大目などつとめ生涯を低い官位で過ごした。六位を授けられた。三十六歌仙の一人。生没年は不明。
・・・春愁や噂になりぬ忍ぶ恋・・・
四十二 清原元輔
清原下野守顕忠の子。清少納言の父。従五位下肥後守に任ぜられ八十三歳で没す。歌人として名高く、大中臣能宣らと和歌所の寄人となり、「万葉集」の訓点および「後撰集」の撰を命ぜらた。三十六歌仙の1人。
・・・ゆく末も契りしままに暮の秋・・・


四十三 権中納言敦忠
左大臣藤原時平の三男。従五位権中納言。三十六歌仙の一人。管弦にすぐれ美男子で人柄よく、三十八歳で亡くなったときその死を惜しまぬ人はいなかったという。
・・・会ふなくば心安きに春惜しむ・・・
四十四 中納言朝忠
三条右大臣藤原定方の次男。中納言となり五十六歳で没した。三十六歌仙の一人。和漢の学に優れ笙の名手でもあった。
・・・会ふなくば人も恨まじ暮の秋・・・

四十五 謙徳公
一条摂政藤原伊尹のおくり名。右大臣師輔の長男。和歌に秀で二十七歳で和歌所別当となり「後撰集」撰進の監督になる。初め官位は振るわなかったが娘懐子が冷泉天皇の皇子を生み皇太子(花山天皇)となるにおよび、昇進いちじるしく正二位摂政太政大臣になる。一条に屋敷があったので一条摂政とよばれた。才色兼備、風流を好み贅沢な生活をおくったという。
・・・わが身をば空しく思ふ冬の風・・・
四十六 曾禰好忠
伝記不明。丹後掾であったところから曾丹と呼ばれる。直情的な性格で逸話多い。歌風は直截的で、清新自由。俗語、新語を用いるなど革新的であった。和泉式部と並んで平安中期の異色の歌人。
・・・舟人も漂うがごと冬の海・・・

四十七 恵慶法師
伝記不明。平安中期の歌人で花山天皇のころ播磨国の国分寺の講師であったと伝えられる。河原院に集まる歌人グループのひとりで大中臣能宣、平兼盛ら当時を代表する歌人と親交があった。
・・・草茂る寂しき里に秋来る・・・
四十八 源重之
清和天皇の皇子貞元親王の孫で、従五位下三河守兼信の子だが生没年不明。伯父の参議兼忠の養子となった。冷泉天皇の東宮時代に帯刀先生となり、天皇即位後は左・右将監などを経て、その後地方官歴任した。生涯を旅に過ごすことが多かったためか各地の風景を詠み旅の歌が多い。三十六歌仙の一人。藤原実方らと親交あり、実方が左遷され陸奥守になるとそれに同行してそのまま陸奥で歿したといわれる。
・・・春愁ふ岩打つ波に例へむや・・・


四十九 大中臣能宣
神祇大副頼基の子。神祇大副を経て祭主となり七十一歳で没した。大中臣氏は中臣氏を祖先にもち代々神祇官をつとめる家柄。歌人として名高く三十一歳で和歌所寄人ちなり梨壷の五人のひとりとして「万葉集」の訓点や「後撰集」の撰進に当たった。三十六歌仙の一人。
・・・思ふだに熱き思ひや夕焚火・・・
五十 藤原義孝
謙徳公一条摂政藤原伊尹の三男。母は醍醐天皇の皇子代明親王の娘恵子女王。能書家藤原行成の父である。右近衛少将。容姿美しかったが天然痘で二十一歳で死亡。
・・・恋すれば命ながしと春惜しむ・・・


五十一 藤原実方朝臣
左大臣師尹の孫で侍従定時の子。清少納言と恋愛関係にあったといわれる。左近中将となったが、宮中で藤原行成と口論、その冠をたたき落としことが一条天皇の怒りにふれ、陸奥守に左遷させられ任地で没す。和歌にすぐれ、後世、歌の神として賀茂の橋本社に祭られた。
・・・君思ふ伊吹のもぐさ燃ゆるごと・・・
五十二 藤原道信朝臣
九条右大臣師輔の孫。太政大臣恒徳公為光の子。母は謙徳公藤原伊尹の娘。後に粟田関白藤原道兼の養子となる。従四位上左近中将となったが二十二歳の若さで没す。和歌にすぐれ、容姿が美しく、人柄がよかったのでその死を惜しまれたという。
・・・春暁やまたの別れを惜しみけり・・・

五十三 右大将道綱母
伊勢守藤原倫寧の娘。東三条摂政太政大臣藤原兼家の側室となり翌年右大将道綱を生んだ。美貌で本朝三美人のひとりといわれた。「かげろふ日記」は二十年間にわたる兼家との結婚生活回想の記録で、兼家の女性関係に悩まされ満たされぬ夫婦関係の寂しさや道綱への愛情が書きつづられた。日記文学としての価値が高い。歌人としてもすぐれていた。
・・・長き夜を君待ち寝ぬる秋の宵・・・
五十四 儀同三司母
従二位式部卿高階成忠の娘で名は貴子。円融天皇に仕え高内侍ともいわれたが中関白藤原道隆と結婚、儀同三司伊周、太宰師隆家、一条天皇の皇后定子を生んだ。儀同三司とは太政大臣・左大臣・右大臣)と儀を同じくする官名で准大臣。道隆存命中は栄華を極めたが死後、子伊周が叔父道長と政権争いし敗れて太宰権帥に左遷され、皇后定子も尼となるなど権勢を失い中関白家は没落、不遇な晩年を過ごした。
・・・忘れじの声聞きながら逝春や・・・

五十五 大納言公任
藤原公任。三条関白太政大臣藤原頼忠の子。正二位権大納言。博学多才、和歌、漢詩、管弦のいわゆる三舟の才と称せられた。学者としても傑出し歌道の権威として畏敬された。晩年は官を退き北山の長谷別荘にこもり閑寂を楽しみ七十六歳で没した。
・・・滝の音絶えて久しき名残かな・・・
五十六 和泉式部
大江雅致の娘。和歌の才能豊か平安中期を代表する女流歌人。冷泉天皇の皇后昌子内親王に仕え、和泉守橘道貞と結婚後は夫に従い和泉国に下り「和泉式部」と」「いわれた。後、夫を離れ冷泉天皇の皇子弾正宮為尊親王と情を通じ、また親王没後は弟の師宮敦道親王とも交渉をもった。その恋愛生活を描いたのが「和泉式部日記」である。敦道親王没後藤原保昌に嫁し任地丹後に下ったがやがて離別。
・・・思ひ出やいまひとたびと秋の宵・・・


五十七 紫式部
藤原為時の娘。為時は文章博士菅原文時に学んで詩文をよくし、式部も幼少からその感化を受けた。藤原宣孝の妻となり、大弐三位賢子を生んだが二年余で夫死別。そのさびしさのなか「源氏物語」を書きはじめた。その名声によって一条天皇の中宮上東門院彰子に仕えその宮廷生活を記したのが「紫式部日記」である。
・・・雲隠る月を眺めて君思ふ・・・
五十八 大弐三位
藤原賢子。父は藤原宣孝、母は紫式部。後冷泉天皇の乳母となり三位典侍になった。その後正三位太宰大弐高階成章の妻となり、夫の官位によって大弐三位とよばれた。生没年は不明。
・・春嵐笹揺るごとに思ふかな・・・


五十九 赤染衛門
大隈守赤染時用の娘。父が右衛門尉であったので赤染衛門といった。摂政藤原道長の妻倫子、その娘である上東門院彰子にも仕えた。後、大江匡衡の妻となり、夫死後も八十歳以上長生きしたといわれる。和泉式部、清少納言、伊勢大輔などとも親しく、平安中期の女流歌人として、和泉式部とならび称される。生没年は不明。
・・・寝もやらず月を眺めて夜明かな・・・
六十 小式部内侍
和泉式部の娘。父は橘道貞。母と同じく上東門院彰子に仕え母の式部に対し小式部と呼ばれた。美貌で関白藤原教通に愛され静円を、後に滋井頭中将藤原公成に愛され頼仁を生んだが二十六、七歳の若さで没した。歌才あったが作品は少ない。
・・・夏山や生野は遠し橋立のふみ・・・

六十一 伊勢大輔
平安中期の歌人。生没年は不明。「後撰集」の選者大中臣能宣の孫にあたり、伊勢祭主輔親の娘。父が伊勢の祭主で神祇大副であったことで伊勢大輔と呼ばれた。上東門院彰子に仕え、後、高階成順の妻となり、晩年には白河天皇の傅育の任にあたった。祖父能宣、父輔親はともにすぐれた歌人であったが、その血を受け、すぐれた歌才をもち、紫式部、和泉式部、相模などとも親交があった。 ・・・八重桜けふを盛りの都かな・・・
六十二 清少納言
平安中期の人だが生没年は不明。清原深養父の曾孫で、元輔の娘。代々学者の家柄で幼いころから漢学、仏典、国文学などの教養を身につけた。はじめ橘則光に嫁ぎ則長を生んだが離婚。その後一条天皇の皇后定子に仕え才能を発揮して宮廷サロンの花形になった。中宮彰子に仕えた紫式部・和泉式部・赤染衛門などとならび当時の王朝文学を代表する一人。定子崩御後、宮仕えをやめて藤原棟世と結婚し小馬命婦を生んだが、晩年は不遇であった。随筆の名作「枕草子」の作者として有名である。
・・・名残かな別れ許さじ春の宵・・・

六十三 左京大夫道雅
中関白道隆と儀同三司母貴子の孫。内大臣藤原伊周の子。名門の出でありながら藤原道長の権勢におされて父が失脚し、中関白家が没落後は不遇にあった。また当子内親王との密通事件で三条院の怒りにふれ官位は従三位右京大夫にとどまり、後半生は栄達をあきらめ風流な生活を送った。六十三歳で没す。
・・・別れをば逢ふて言いたし暮の秋・・・
六十四 権中納言定頼
大納言藤原公任の長男。正二位権中納言になり、四条中納言とよばれた。小式部内侍や大弐三位と親しかった。父の血を受け和歌をよくし書にも秀でていたが軽薄であったと伝えられる。病気のため出家し五十一歳で没した。
・・・朝霧や川面たえだえ魚簀出づ・・・

六十五 相 模
平安中期の人。生没年は不明。源頼光の娘(養女)といわれる。祐子内親王に仕え侍従だったが、後大江公資が相模守のときその妻となったので相模といわれた。後、離婚し、中納言定頼・参議資通とも交渉あり、かなり奔放な恋愛生活をおくった。女流歌人として情熱的な恋歌多い。
・・・春に泥恋せし噂立ちにけり・・・
六十六 前大僧正行尊
三条天皇の皇子敦明親王の孫。参議源基平の子。右大臣源頼宗の養子となり十二歳で園城寺(三井寺)に入って出家し、十七歳おとき諸国遍歴の旅に出る。比叡山延暦寺の天台座主に任ぜられ、鳥羽天皇の護持僧をつとめた。また天王寺・平等院の寺務に当り、平等院僧上とよばれた。
山伏修験の行者として名高く崇敬を集めた。和歌、書道、管弦にすぐれ、仏教的詠嘆をこめた歌が多い。
・・・奥山の花懐しくあわれかな・・・


六十七 周防内侍
平安時代後期の人で、生没年は不明。桓武天皇の皇子葛原親王の子孫で、周防守平継仲の娘、本名は仲子といわれる。後冷泉・後三条・白河・堀川の四帝に仕え、この時期の代表的女流歌人であった。藤原通俊、藤原顕輔らと親交があった。
・・・春の夜夢の手枕懐しや・・・
六十八 三条院
第六十七代三条天皇。冷泉天皇の第二皇子で、母は摂政藤原兼家の娘超子。東宮生活長く三十六歳で即位したが、道長の圧力により在位五年間で後一条天皇に譲位、眼病に悩まさ失明し出家したが、翌年四十二歳で失意のうちに崩御。
・・・憂き世をも恋しと思はむ夜半の月・・・


六十九 能因法師
肥後守橘元トの子で俗名永ト。はじめ文章生となり、肥後進士とよばれた。三十歳のころ出家し、摂津高槻の古曾部に住んでいたために古曾部入道ともよばれた。和歌を藤原長康に学び和歌を人に師事する先例となった。生涯漂白の旅を続けて多くの歌を詠んだ。公任、保昌、兼房らとも親交があったが没年不明。
・・・風に舞ふ紅葉や錦龍田川・・・
七十 良暹法師
伝記不明。比叡山の僧で祇園別当になり、晩年洛北の大原に隠棲し雲林院にも住んでいたことが知られている。当時有数の歌僧であった。
・・・寂しさや庵より眺む秋の暮・・・

七十一 大納言経信
源経信。宇多天皇の皇子敦実親王の曾孫で民部卿道方の六男。七十六才で正二位大納言となり桂の里に別荘があったため桂の大納言とよばれた。太宰権帥に赴任し八十二歳で任地で没した。当代第一の歌人。博学多才、漢詩、管弦にもすぐれた。和歌では新しい姿と心を求め、新鮮な歌風を歌壇にふきこんだ。
・・・秋風や稲葉ゆれにしわが庵に・・・
七十二 祐子内親王家紀伊
平安時代後期の人。生没年は不明。民部大輔平経方の娘で、母と同じく後朱雀天皇の第一皇女祐子内親王家に仕え、紀伊守藤原重経の妻となり「紀伊」とよばれた。母も夫も歌人。当時一流の歌人の中にあって対等に作歌している。
・・・袖濡らす仇波避けむ春の浜・・・

七十三 権中納言匡房
大江匡房。父は大学頭成衡。学問の家に生まれ、幼少より史記、漢書に通じ、詩をつくるなど神童といわれた。白河院の近臣として重く用いられ儒家の出ながら権中納言正二位となり太宰権帥に二度任ぜられたが病気のため赴任前七十一歳で没した。漢学にくわしく、詩文に長じ、和歌の才あった。
・・・遠き峰花あり流る霞かな・・・
七十四 源俊頼朝臣
大納言源経信の三男で、堀河、鳥羽、崇徳の三朝に仕え、従四位上木工頭にいたった。藤原基俊の旧風に対し、革新歌風の当代歌壇の第一人者。仏教的な歌が多い。
・・・冷たきにまたと祈らむ長谷の秋・・・

七十五 藤原基俊
右大臣藤原俊家の子。名門藤原北家の出であったが、文才をてらい、おごりたかぶるところがあって世にいれられず、従五位上左衛門佐にとどまった。和歌では俊頼と並び称される当代一流の歌人で、旧風を代表し俊成の和歌の師である。八十七歳で没す。
・・・約しこと露と消え去り行く秋や・・・
七十六 法性寺入道前関白太政大臣
藤原忠通。摂政関白藤原忠実の子。二十五歳で関白になって三度。太政大臣に二度。摂政に二度任ぜられ摂関の地位にあること鳥羽、崇徳、近衛、後白河の四代、二十七年に及んだ。父や弟頼長と仲悪くこれが保元の乱の一因となったが乱後法性寺に隠居し詩歌にその心をなぐさめた。書にすぐれ、六十八歳で没す。
・・・沖遠く雲にまがふや夏の波・・・

七十七 崇徳院
第七十五代の崇徳天皇。鳥羽天皇の第一皇子。五歳で立太子、同日即位。二十三歳で二歳の御弟近衛天皇に譲位させられ新院とよばれた。しかし、近衛天皇は夭折、弟の後白河天皇が即位するに至ったことが原因で、関白継承問題に不満をもつ藤原頼長と共謀し保元の乱を起こした。結果は敗北に終わり、頼長は殺され、院は讃岐の国に流され怨み悲しむ日々を過ごした末、配流八年四十六歳で崩御された。和歌に熱心で藤原俊成、西行などとも親交があった。
・・・別れしも再び逢わむ花の人・・・
七十八 源兼昌
宇多天皇の息子敦実親王六代の孫で、源美濃守俊輔の子。皇后宮大進になったが、後に出家した。生没年は不明。
・・・千鳥鳴き幾夜目覚めむ須磨の人・・・

七十九 左京大夫顕輔
修理大夫藤原顕季の三男。父顕季は歌道、歌学の六条家の祖。四十八歳で正三位左京大夫に任ぜられ、皇太后宮亮等を経て、六十六歳で没した。歌人としてすぐれ、父からの和歌の伝統を受け、藤原基俊死後は歌壇の第一人者となった。
・・・雲に風合間さやかに月白や・・・
八十 待賢門院堀川
平安時代末期の人。右大臣藤原顕房の孫で、神祇伯源顕仲の娘。崇徳天皇の御母待賢門院正璋子に仕え堀川といわれた。崇徳院の譲位で待賢門院が出家したときしたがって尼になった。父、兄弟ともに歌人。西行と親交があった。生没年は不明。
・・・もの思ふ心乱れて秋の宵・・・

八十一 後徳大寺左大臣
藤原実定。大炊御門右大臣公能の長男。左大臣になった。家を徳大寺といったが祖父の徳大寺左大臣実能と区別するために、後徳大寺と呼んだ。詩歌、管弦に優れていたが、権勢欲が強かった。蔵書は万余に及ぶ。五十三歳で没した。
・・・ほととぎす鳴きつるかなた残月や・・・
八十二 道因法師
俗名藤原敦頼。内大臣藤原高藤の子孫で、父は治部丞清孝。崇徳院に仕え、従五位上右馬助になったが、後出家した。我執が強い人物であったらしく奇行の逸話多い。生没年は不明。
・・・春愁命ながらへ涙かな・・・


八十三 皇太后宮大夫俊成
藤原俊成。従三位参議権中納言藤原俊忠の三男。はじめ藤原敦頼の養子となって顕広といったが、後、俊成と改めた。正三位皇太后宮大夫となったが病により出家し釈阿と名乗った。和歌を藤原基俊に学び、西行と親交があった。当時の歌壇の第一人者で、その和歌は伝統を重んじつつ新風をとり入れ、優艶、静寂、余情の深い「幽玄体」をうちたてた。九十一歳で没した。
・・・奥山に鹿の声して秋暮るる・・・
八十四 藤原清輔朝臣
左京大夫藤原顕輔の子。官位は正四位下太皇太后宮大進にとどまった。六条家の一人として歌・歌学にすぐれ、俊成と並び称される歌壇の一人者であり、俊成が新しい歌の流れを作ったのに対し、清輔は伝統的な和歌を守った。九条兼実に愛され、しばしば九条家の歌合の判者に指名された。七十四歳で没した。
・・・憂きことも恋しく思ふ暮の冬・・・


八十五 俊恵法師
大納言源経信の孫で源俊頼の子。若くして父を亡くし、奈良東大寺の僧になった。すぐれた歌人で白川の自宅を歌林苑と名づけ幅広い階層の歌人を集め歌会、歌合を催した。俊成・清輔・実定などと親交があった。歌風は平明温雅。没年不明。
・・・もの思ふ明けやらぬ空夜長かな・・・
八十六 西行法師俗名佐藤義清。左衛門尉康清の子。鳥羽上皇に仕え左衛門尉になったが、二十三歳で出家し法名は円位。西行と号した。諸国行脚に生涯をおくり、俊成とも交渉があった。世紀末の無常思想を反映した内面生活を自然の風物に託した歌が多く、独特の歌風をきずきあげた。当時、歌壇で最高の敬意をうけ、その境地は、後の宗祇・芭蕉に大きな影響を与えた。俊成とともに平安末期の代表的歌人。


八十七 寂蓮法師
俗名藤原定長。俊成の弟阿闍梨俊海の子。幼少の頃父出家により藤原俊成の養子となり中務少輔となったが、俊成に実子の定家など生まれたので、三十余歳で出家。寂蓮と称した。諸国を行脚し、晩年は嵯峨に住んだ。和歌の才能が豊かで俊成の御子左家の有力歌人であった。
・・・雨止むや霧立ちのぼる秋の暮・・・
八十八 皇嘉門院別当
十二世紀末の女流歌人。生没年は不明。崇徳天皇の皇后皇嘉門院(藤原忠通の娘聖子)の女房の一人。太皇太后宮亮源俊隆の娘と伝えられる。皇嘉門院が九条兼実の姉であったので、その縁で「右大臣兼実家歌合」に列し「別当殿」と敬称された。
・・・みをつくし恋や続けむ葦刈根・・・


八十九 式子内親王
後白河天皇の第二皇女。賀茂斎院に任ぜられ准三宮の待遇を受けたが、病気のため退下。萱斎院・大炊御門斎院とよばれた。後に出家し法名は承如法。和歌を俊成に学ぶ。「新古今集」時代の代表的女流歌人となった。
・・・わが命絶えなばと思ふ春うれひ・・・
九十 殷富門院大輔
後白河院の第一皇女殷富門院(亮子)に仕えた。従五位下藤原信成の娘。平安時代末期の歌人で二条院讃岐らとともに活躍した。藤原定家とはとくに親しく、西行、寂蓮らとの間の贈答歌が残っている。生没年は不明。
・・・海人の袖濡れて変らじ夏の島・・・

九十一 後京極摂政前太政大臣
藤原良経。摂政九条兼実の子。従一位摂政太政大臣となったが、三十八歳で急死した。幼少よりすぐれ、和歌を俊成に学び、書道にも秀でていた。九条家の家司藤原定家を援助して新風の育成をはかった。後鳥羽院の信任が厚く、和歌所寄人となり「新古今集」の監修に当たった。
・・・こほろぎの鳴く声聞きつ独り寝ぬ・・・
九十二 二条院讃岐
三位頼政の娘。二条天皇の女房として仕え讃岐といわれた。天皇崩御後、藤原重頼と結婚した。その後、後鳥羽院の中宮宜秋門院に仕えたが晩年出家した。父頼政の血を受け継ぎ歌人としてすぐれ、著名な歌合に数多く加えられ女流歌人として最高の待遇を受けた。生没年は不明。
・・・袖ぬるる涙のままに雨月かな・・・

九十三 鎌倉右大臣
源実朝。鎌倉幕府を開いた源頼朝の二男で三代将軍。母は北条時政の娘政子。征夷大将軍となり右大臣に任じられたが翌年鶴岡八幡宮拝賀の夜、二代将軍であった兄頼家の子、公暁によって殺された。ときに二十八歳。浪漫的な詩人で、京都の文化に憧れ、和歌、蹴鞠を好んだ。藤原定家について和歌を学び秀歌をのこしている。
・・・渚こぐ舟の引き綱海人や春・・・
九十四 参議雅経
刑部卿頼経の子。藤原氏で、後鳥羽院の命により鎌倉から上洛。従二位参議となり、五十二歳で没した。和歌と蹴鞠にすぐれ、和歌所寄人となり「新古今集」の撰者となった。当時第一流の歌人であったばかりか、鎌倉幕府の最高顧問大江広元の娘を妻とした関係から、京都方と鎌倉方との重要な連絡の任に当った。蹴鞠・飛鳥井家の祖。
・・・秋風や砧うつ音聞こへけり・・・


九十五 前大僧正慈円
法性寺入道忠通の子。九条兼実の弟。十一歳で出家。慈円と命名した。権僧都。天台座主となること四度。世の尊敬を集めた。歌人としては、藤原良経、定家とともに、新しい歌風を開拓した。その歌風は西行に近く、多作。七十一歳で没した。
・・・叡山や墨染の袖秋深し・・・
九十六 入道前太政大臣
藤原公経。内大臣藤原実宗の子で、姉は藤原定家の妻。源頼朝の妹婿一条能保の娘と)結婚し、承久の乱には鎌倉方についたため後鳥羽院にはうとんぜられたが、乱後は権力を握り従一位太政大臣になった。その勢力は並ぶものなく京都の北山に西園寺を造営、吹田の別荘には有馬の湯を運ばせるなど栄華をきわめた。孫の頼経は鎌倉幕府の四代将軍となった。歌人としても優れていた。後、病気のため出家し七十四歳で没した。
・・・花誘ひ散らす風にも身思ふ・・・

九十七 権中納言定家
藤原定家。俊成の子。はやくから良経、慈円と親交があり、後鳥羽院に重んじられるにいたって、歌人および歌学者としての地位をかため、「新古今集」「新勅撰集」の撰者となり、御子左家の中心人物として新古今歌壇で活躍した。正二位権中納言となり京極中納言と称され、その後出家し八十歳で歿した。死後、紀貫之とともに歌聖といわれた。「小倉百人一首」の撰者である。
・・・来ぬ人に身焦がるるや春の宵・・・
九十八 従二位家隆
藤原家隆。権中納言藤原光隆の子。藤原俊成に和歌を学ぶ。後鳥羽院の信任が厚く、従二位宮内卿となったが、晩年は病のため出家した。京都の壬生に住んでいたので「壬生の二位」とよばれた。八十歳で歿した。定家と並ぶ新古今歌壇を代表する歌人で、多くの歌合・歌会に出詠し、また判者となった。
・・・禊かな川風そよぐ夏の夕・・・


九十九 後鳥羽院
第八十二代天皇。高倉天皇の第四皇子。御名は尊成。五歳で即位。十九歳で四歳の土御門天皇に譲位、退位後二十四年間院政を行われた。鎌倉幕府打倒を企て北条氏討伐をはかり承久の乱を起したが失敗し、隠岐島に流され、在島十九年の後六十歳でその地で崩御。多芸多才で、書道、管弦、蹴鞠等に通じ、特に和歌にすぐれ、和歌所を再興し、「新古今集」の撰集を命ぜられ、親撰されたほか、多くの歌合・歌会を催されるなど、新古今集時代の原動力となられた。
・・・世を思ひ人思ふ身や暮の秋・・・
百 順徳院
第八十四代天皇。後鳥羽天皇の第三皇子。御名は守成。御兄の土御門天皇の皇太子。十四歳で即位。父院の倒幕計画に加わって承久の乱を起し、敗れて二十五歳で譲位、佐渡島へ流された。在島二十二年の後、四十六歳その地で崩御。学問・文学にすぐれられ、特に和歌を好まれ、藤原定家らに学びその妖艶の歌風をうけつがれた。
・・・よき世をば偲び思はむ山の草・・・