
思い出の旅
戦争中軍国少年だった私は今は老い余生は長くない。そこで一度だけでもと、かっての戦いの跡をめぐる旅に出かけた。その記録である。
−ハワイ真珠湾−

1941年開戦初頭、日本海軍航空隊は真珠湾を急襲しアメリカ軍に致命的損害を与えたが、そのハワイ、オハフ島、パールハーバーのアメリカ軍基地にはいまもその時沈没した戦艦アリゾナがそのまま海中に眠っている。その艦上デッキの辺に「アリゾナ記念館」がある。その記念館にと専用ボートで渡った。
海上浮かぶ記念館から海面に目をむけるとそこに戦艦アリゾナの残骸があった。あの日から60有余年経ったいまも海底深く沈む艦内に残る重油が一滴一滴丸い泡になって浮び上がってくるのが印象的だった。艦内には戦死した多数の遺骸がいまもそのまま眠っており、それに黙礼。
記念館訪ねる人々はたいていアメリカ人で日本人は数少ない。そんな事情で彼らの視線がなんとなく気にはなったが意外や館の雰囲気は明るく、格別日本人を意識する様子はなかった。どうやらわが懸念は杞憂に終ったよう。半世紀の時の流れ、いまはこの戦跡も観光がてらという次第か。
その後記念館傍の「アメリカ海軍潜水艦記念館」に立ち寄り、庭園の芝生に置かれた日本海軍の特攻艇「回天」前で記念撮影。
−江田島−


少年時代憧れの的だった江田島を訪問。帝国海軍の源泉(旧)海軍兵学校を見学する。夢見た赤煉瓦の校舎に入り教育参考館で「東郷元帥、山本元帥の遺髪」に拝礼。その後兵学校出身士官の遺品、特攻隊員の遺書などを拝観する。
案内の自衛隊員の先導で校庭に出ると校舎前に開戦時ハワイ真珠湾に進入した特殊潜航艇が保存され、また停泊埠頭前の広場に戦艦「陸奥」の砲塔、戦艦「大和」の主砲の砲弾が並んで立っていた。
−特攻基地−


鹿児島県の旧陸軍飛行隊知覧基地跡にある「知覧特攻記念館」を訪れる。館内を見て回ったが若くして散っていった特攻隊員の遺書の数々を読んでいるうち涙を止めることができなかった。
その後鹿児島湾をフェリーで渡り櫻島を迂回し鹿屋の旧海軍航空隊鹿屋基地跡に行く。ここには「鹿屋航空基地資料館」がある。現在海上自衛隊基地となっておりゲートで見学を申出ると丁寧に案内してくれた。
ここは海軍特攻隊の遺品や遺書が保存されており関係資料を見学する。
−沖 縄−

日米両軍の沖縄戦は全島民をまきこむ凄惨かつ熾烈な闘いになった。積年の願いかない、いまは平和なこの島を訪れ沖縄戦没者墓苑に参る。
ここには全国各地の戦没者23万4千人の記名碑が並び立っている。わが故郷高知県、いま住む兵庫県の関係者の碑並ぶところで黙祷。
また、12万人の沖縄県民、日米両軍兵士、朝鮮、台湾出身者など敵味方区別なく等しく追悼している記念碑「平和の礎」前で再び黙祷。
その後、最後の激戦地跡「ひめゆり平和祈念資料館」にゆく。そこで鎮魂碑に献花、館内を見学、戦場への動員から最後を迎えるまでの「ひめゆり学徒隊」の在りし日の姿眺める。
・・・花ちらむ風のまにまに流水に・・・
純平・八千代の浜

いまは亡き青柳裕介氏−「土佐の一本釣り」「純平」(1975〜1991小学館「ビッグコミック」連載)著者−の石像が劇画の背景になった港町・高知県中土佐町のふるさと海岸に立っている。画紙を膝にスケッチしている姿、等身大の白い石像だが、その傍で前面の海を眺めると遥かに太平洋がひろがり、浜の香りもあり心がなごんでくる。
石像の傍には「鰹一本釣り」にちなみ「鰹供養碑」が立っているが、その辺にはいつのころからか野良猫が数匹住みつき、のそりのそり徘徊したり、のんびり昼寝している姿が見うけられ、人を恐れぬ様がなんともいえぬ光景である。
私はこの小さな港町で生まれ育ったが、この地を離れ既に六十有余年経つ。いま訪れると町の様子がすっかり変わり、道行く人に知る者少ない。この浜も、かの川も、昔の面影淡く、 ・・ふるさとはとほくにありておもふもの・・ 道歩みながら、「浦島太郎の心境かくや」と思う。
傘寿の旅

傘寿過ぎての誕生日、処を土佐梼原、坂本龍馬脱藩の道筋の宿で過ごす。 明けて早朝起床し稲藁囲いの窓辺から外を望むと山郷の朝は清清しく老樹並ぶ丘の辺り黄葉の銀杏も鮮やか、背後の山々は霞みまさに秋更ける観、あきずしてしばし眺めた。
食後のひととき龍馬脱藩の道にむけ足をのばす。町役場、芝居小屋並ぶ坂道を数百米息をはずませ上がる。
かけあがりの台地あり。樹下に維新の魁となり身命を賭し国事に殉じた六志士の墓が並んでいた。吉村虎太郎、那須俊平、那須信吾、前田繁馬、中平龍之助、掛橋和泉の墓名確かめる。四国の果て土佐のまだその奥深き山郷から都に出て国事に奔走したとは驚きだが、そのバイタリティを敬して墓前で一礼、そこを離れる。
そこからさらに道筋を百米余歩むと道の側に藁葺きの古小屋があった。堂内に小さな地蔵が数基並んでいる。 これは「茶堂」と呼ばれる建物でこの辺では昔からあった休憩所だが道を通る旅人を接待、親しく話を交し外部の情報を得たというから、今風に言えば「人間直のネットワーク」というべきか。山間僻地に住みながらかっての里人の素養高きを知った。 もしかして、龍馬はこの茶堂に坐り茶を啜ったのではと想像し前方を眺めると、道筋はまさしく「龍馬脱藩の道」、山をめぐり三嶋神社へと通じていた。
薬王寺にて

室戸岬から徳島方面へと国道55線を一路。春霞ならぬ黄砂現象ようやく治まり先日とうって変わり太平洋の海原は遠くの果てまではっきり見渡され海岸線の風景が美しい。
春をひかえてこの街道は「歩き遍路」が次々通る。阿波終わる札所日和佐の薬王寺から次の土佐初の札所室戸岬の最御崎寺までの道程は数十キロ、沿道行くは一見団塊世代の夫婦か、足取り軽いひとり歩きの若者やうつむき加減思案気な女性連れ、また両手に杖持ち交互に痛む足運ぶ老人等々、さまざまな遍路が次々と通り過ぎてゆく。
昔懐かしい日和佐に到着すると街道側に大規模な「道の駅」があるのに驚く。さっそく車を停めて休憩。駐車場から筋向かいの山腹を見上げると以前にかわらぬ朱の瑜祗塔が色鮮やかに建っている。過去幾たびか訪ねたことある薬王寺、四国八十八ヶ所二十三番札所で厄除け寺で知られる。
そのとき還暦迎えた家内は阪神淡路大地震に遭ったことも重なり縁起か ついで厄除け参り、長い石段の一段毎に持参した一円玉をひとつひとつ置いては上がっていった。その後そのときの厄除け札を返納しようといっしょに出かけたが,すでに足痛める身、境内の段々坂を上がるはとても無理だった。いたし方なく老輩が代参で本堂に、境内の梅の小枝に札を結んだことがあった。
この近辺は千羽温泉。「道の駅」の建物の一郭にその温泉水を利用した足湯の施設があった。設備整った清潔な建物、其処で旅疲れの足を労わった。なんとも快よかった。
足摺岬

若いころ田宮虎彦の小説を読み足摺岬の先端にたち海を眺めたいものだとずっと思い続けた。その望みをかなえたのは四十歳をとうに過ぎた三十数年前のことである。その頃は岬に向かう道は悪く「四国遍路は死国の旅」といわれるのがよく分かった。
その後幾度かここを訪れるがいまは道もすっかりよくなって、しかも今も昔にかわらぬ風景がそこに残っている。椿の樹木に覆われたトンネル道を数十米進むと岬の白い灯台が見えてくる。さらに歩むと視界がひらけ横一線の黒潮の海が眼前にひろがる。
遠く四国西南端の岬に立ってひろく広がる太平洋を眺める。果てしない水平線、さえぎるものはなにもない。眼下見下ろせば磯には白波が砕け散り遠くから風にまじり潮騒が聞こえ清清しい。 椿の樹道を引き返し四国八十八ヶ所札所金剛福寺に参る。朱色の山門をくぐり参道に入ると本堂、大師堂、多宝塔が樹木に囲まれ整然と建っている。境内のあちらこちら遍路が三々五々佇み静かな雰囲気、ときおり鐘の音が森にこだまし静寂を破る。 その夜は近くの宿に泊まる。
日本一の大杉


高知自動車道「大豊」ICで一般道に下り右折、トンネルくぐり国道32号線に出てさらに右折、数百米走行すると道の駅「大杉」がある。そこの広場の「ここから山側400米・・・日本一の大杉」の道標にしたがって坂道を上がると「杉の大杉」と呼ばれる巨木が空高く聳えたっていた。
そこは八坂神社の境内だが中心部にどっしり根をおろしていて杉の根元は二つ、一見つながってるやに見えるがもともとは別で「南大杉」「北大杉」といい別名「夫婦杉」とも呼ばれる。南大杉は根元周り約20米、樹高約60米、北大杉は根元周り16.5米、樹高約57米で国の天然記念物に指定されている。
八坂神社の石段をいったん下り右側すこし上ったところに広場があり「美空ひばり」の遺影碑や歌碑が立っている。先刻境内で大杉を見上げていたとき深閑とした林のどこからか流行歌「悲しき口笛」が流れてきたがそれはここの歌碑の発声装置の歌声だった。
美空ひばりが無名時代(昭和22年)地方巡業中この付近でバス事故に遭ったが九死に一生を得、その際杉の大杉に「日本一になれるように」と願掛けしたところ後に名声上がり、そのお礼参りに再びここを訪れたのが縁といわれている。
歌碑前で試しに「川の流れのように」と刻まれた石を踏むと、しばらく経って彼女の歌声が流れはじめ遠く山にこだました。
会津若松を逍遥す
通称鶴が飛び立つ姿に似ているとか「鶴ヶ城」と呼ばれる会津若松城を参観。続いて白虎隊自刃の地飯盛山に向かう。近くの駐車場に立ち眺めたがどうやら山腹らしい。
足の悪い家内はもう弱気で、
「あんたひとりで行ってきたら。私、ここで待ってるから」という。せっかくこんな遠くまで足運びながら見ずして帰るのはいかにも残念なと思案していると参道石段前右に案内兼発売所があった。
よくみると「飯盛山観光株式会社(スロープコンベヤー)と記してある。石段横に乗り場がありそこから山腹まで有料のスロープが動いている。それに乗っかれば石段は無用だ。「これは大助かり」とさっそく二人分千円払いスロープを利用して山上に。
スロープを降りてさらに二十段余上がりやっと広場に到着。広場の奥まった場所に杉並木を背にたくさん墓石が並んだいたがいずれの礎石も姓名のみ刻んだ粗末な墓だった。
天朝に逆らう主君のために殉じたゆえ、立派な墓石を立て丁重に葬ることは堅く禁じられていた故か。それとわかる簡素きわまる石墓「姓名、年齢、死因」が彫られているだけである。白虎隊十九名の墓を中心に横並び。その周囲を取り囲むように、さらに小ぶりの粗末な墓石が「コ」の字形に配置されていた。 それは少年武士といわれ、さらに年若くして戦死した少年たちの墓だった。
広場の墓とは正反対の方向に石段があってそこを数十米下りたところに白虎隊自刃の場所がある。その場に立つと遥かに鶴ヶ城が望める。「白虎隊士自刃の図」の絵にあるようにそこから城下が炎上するのを眺め、もはやこれまでと城の煙を眺めながら自刃し果てたであろうか。
その広場で家内の姿をカメラにおさめていると広場の真ん中辺に立っていたひとりのボランティアが近づいてきて、
「ふたりごいっしょの写真をとってあげましょう」と仰る。ご好意に甘えシャッターをおまかせした。それが機縁で「よければご案内しましょう」ということで、白虎隊にまつわる故事来歴をこと細かく伺いながらあちらこちらと見てまわった。
「白虎隊の話は、ここに墓に眠る十九名で有名となっておりますが、実際は二百人ぐらいいたようです。そのほとんどが戦死したのですが生き残りの二十名の隊士がたまたまこの山まで生き延び避難してきまして山から望むと城下の町並みはほとんど火の海、城のあたりも黒煙濛々として落城したかのよう。もはやこれまでと互いに刺し違え、切腹などして自刃し果てたそうで、そのとき自刃した隊士は十九名、一名が生き残り後に白虎隊の事蹟が明らかになったそうです。そのほかここでは士族の子息で年齢十五歳以下の少年や白虎隊になれなかった下級武士の子弟、あわせると五十名が命を絶っております。このことは公に騒がれておりませんが、会津では知らぬ人はいません」
「この隅の墓、椎野恒四郎という若者はわずか十四歳でしたが歳を偽って戦いに加わり戦死、ここの墓に眠る中では最も若年の少年です」
「十九名の隊士のうち二名の方はみなさんよくご存知のことと思います。ひとりは右端の墓「井深茂太郎」、そうです。ソニーの井深さんはこの方の直系の家筋です。それから中ほどにある「池上新太郎」、この方の直系の家筋には秋篠宮妃の紀子さんがおられます」
聞けば興味つきない話を延々と聞かせてくれた。帰る道、「石段を使わずに別の回り道をどうぞ」という。その道すがら、
「実はこの山は弁天さんを祀ってあって正式には弁天山というのですが、この山全体が私有地で地主が飯盛さんという方なので、その姓をとって「飯盛山」と呼ばれるようになったそうです」
「もともと弁天さんがあり、お参りする人が集まる平凡な山だったのですが、白虎隊がこの山で自刃した山ということで有名になり今は飯盛山の名が通っております」

「私有地なので市役所や公的団体があれこれ勝手に計画できず手を拱いている状態で私たちボランティアが休日などにこうして奉仕活動をつづけ観光客のお手伝いをしております」と話された。
「あのスロープも墓地のあるところまで延長できればみなさんも助かるんですが、そういう事情で市役所もタッチできませんし、ご不便をおかけしてます」
足の具合よくない家内を見かねてか丁重に弁明していただき反って恐縮した。
坂を下る道、白虎隊慰霊社を過ぎたところに六面体か八面体か分からぬ五、六層建とおぼしき木造の奇妙な形をしたお堂あった。
「この建物は日本中に二、三しか現存しない御堂です。通称「さざえ堂」といっておりますが往復引き返すことなく一方通行で最上階まで上がり、また下りられる仕掛けで有名です」との説明があったが、残念ながらそこは外観だけ眺めて素通りした。そして少し歩いて小道の曲がり角に達すると道端に琴を抱いたふくよかな顔の弁天像が安置されていた。
「これが昔からこの山に祀られている弁天さんです」との説明。
さらに行ったところには疎水流れる小道があった。
「向こうの山の端に大きな穴が見えるでしょう。あれは生き残って白虎隊士が向こうの山からこの穴を通ってここにたどり着いた避難通路です。追討の政府軍は土地不案内ですが会津の武士たちはこの抜け道をよく知っていたのでそれを利用したのです」
その穴ははるか千五百米先のの猪苗代湖から引かれた疎水路の一部、百五十米余の山中をくりぬいた人工洞穴で見たところ人ひとりがやっと立って歩ける高さ、しかも下の部分は水が滔滔と流れている。政府軍も会津隊士がよもやこの疎水路をつたい山向こうまで避難したと考え及ばなかったに違いない。この疎水、一米ほどの幅で清らかな水がいまも町の方向に流れている。自然の川に接すること少ない都会人にはうらやましいほど美しい流れだった。
山を下りそろそろボランティアの紳士とお別れする時間になった。
「いろいろ有益なお話をうかがい、よい土産話ができました」と謝辞を述べていると、家内が横合いから
「実は白虎隊士のお墓にお線香をあげようと思っておりましたが、あたりに団体客がたくさんで、とうとう何もせず下りてしまいました。手前勝手で恐縮ですが、私たちの代わりにお線香をあげていただければ幸甚ですが」と手元の金子を差しだした。だが件の紳士は、
「私たちは道案内のお手伝いしかいたしません。それだけはご勘弁ください」と丁重に断られた。
重ねてその失礼を詫び、謝辞を述べその場を離れた。東北の旅、会津若松でいい方に出会え本当によかった。
岡山後楽園

鶴見橋を渡り後楽園の駐車場に入る。ここ後楽園は五十数年前訪れたことがありこのたびが二度目だ。遠く薄れてしまったが当時は広々とした芝生ばかり目立つ庭園だったように思うがいま眺めると池が多くありむかしの印象とずいぶんかけ離れている。自然のたたずまいはむかしもいまもそんなに変わる筈ないからわが記憶曖昧だったせいかと感じ園内を周遊する。
園内で最も広い「沢の池」は中にいくつか小さな島が浮んでいて美しい。池沿いの芝生には縦横巡るように歩道が通じており、それをたどり池の周辺を歩くことにした。まずは南正面、林越しに旭川の対岸岡山城天守閣が遠く見える。この城「烏城」と称し城主は池田公、岡山藩主として三百年前に造成したのがこの後楽園で由緒ある庭園だ。現在は文化財保護法により「特別名勝」に指定されている。江戸時代は大名庭園として賓客接待の場だったがいまは一般に開放され園内は自由に周遊し移り変わる景色が眺められる。
残念ながら家内は足腰悪く日常歩くのはせいぜい百メートルが限度、せっかく来たのにこの広い園内心ゆくまま散策するは無理と覚えた。
「はて、どうしたものか」と思案していたが、門内入口に障害者用の車椅子が置いてあった。そこで「これ幸い」と利用することにした。
勤めがら車椅子を使い慣れている娘の手ほどきで、乗るのが初めての家内おずおずと椅子に坐る。そろそろ動かすこと暫し、歩行苦逃れた彼女の顔やわらぐ。こんな機会滅多にないこと、私も練習方々車を押してみたが意外に軽かった。
沢の池北辺にきたとき水鳥が数十羽水面に浮び、またその辺の水中にみごとな緋鯉や真鯉が百尾あまりときどき水面に泡を浮かせていた。そこは餌つけ場でそのあたりに人影見えると鳥や魚が寄ってくる習性ができあがっているやに見受けた。そこでしばらく眺めを楽しんだ後「丹頂鶴」飼育場を観賞して園を辞す。
浮御堂の景

琵琶湖西畔、堅田の臨済宗大徳寺派満月寺のお堂、近江八景の一つ堅田の落雁で有名な「浮御堂」に足を運ぶ。
師走も押しつまり世は不況とあってか境内は訪れる人少なく時が止まったかの観、物音ひとつせぬ静けさ、古松点々の庭を逍遥、湖越し対岸はるか近江富士の遠景を楽しむ。
庭の一角に芭蕉の句碑「鎖あけて月さしいれよ浮御堂」の文字、ずいぶん以前名月の夜浮御堂に光をあて湖上から眺めるテレビシーンがあり、鮮やかに映し出された浮御堂の美しさに目を奪われた。その実景に接すべく寺堂の先端に行ってみると、寺堂のなかに無数の阿弥陀像が整然と並んでいた。伝によると、昔さる高僧が一千体の阿弥陀仏を刻んで湖上通船の安全と衆生済度を願ったことによるという。いま「千体仏」と称している。
浮御堂境内の句碑に高浜虚子の俳句もあってそれは「湖もこの辺にして鳥渡る」。
その思いをしのび堂廊から湖面を見渡すと多数の渡り鳥がそれぞれ好みのままに浮かんでいた。これまさしく今流の「堅田の落雁」か。
満月寺門前に小店が一軒、そこで琵琶湖産の「しじみ」を土産に買い求め、寺を辞す。
松山城

冬とは思えぬほど暖かい午後のひととき松山城に上る。昨夜道後の湯で旅の疲れを癒しきょうはすこぶる体調がいい。
石畳みのしゃれた道筋に面した近代風の建物に入るとそこがロープウエイの乗り場だったが、そこでロープウエイに乗り数分で終点に着く。
そこから数百米上ってゆくと天主閣そびえる本丸の広場があった。
広場には土地の老人連れが十人ほど壁際に横並びして立ち話中、のんびりと日向ぼっこの最中、その横を観光客の一行が通り過ぎるのだが、話し声から察するにどうやら韓国からのお客さんらしい。四国にまで足をのばすパック旅行があるなんて、韓国もずいぶん様変りしたものだと感心する。
さて、この松山城は17世紀初め加藤嘉明公により26年の歳月を経て築城されたというが、標高132米の勝山上にあり、ここからは市街は一望できすこぶる眺めがいい。
ちなみに加藤嘉明公によって城下は「松山」と命名され、また松山城の名がつけられたという。
城全体は戦災で焼失したが、戦後史実古蹟に基づき昔ののままに再建されたので古風そのもの、みごとな石積み、黒い板張の城壁、一枚板の門扉など諸所方々昔日の面影を留めている。
本丸から下に石段道を下ると道傍に丸い大石の句碑が立っていた。読むと俳人正岡子規の句で、
「松山や秋より高き天主閣」と刻んであった。
さすが「俳句の松山」である。
コウノトリの郷公園

日本で唯一自然のなかにコウノトリが生息する兵庫県豊岡市の「コウノトリの郷公園」に行く。
豊岡市内から円山川の橋を渡り数キロ入ったところで小高い山に囲まれたのどかな田園地帯に「コウノトリの郷公園」がある。
公園前の広場にはすでに観光バスが数両駐車していたがその脇に車を停め、雑草茂る堤沿いにさらさらと流れる小川にかかった木橋を渡って「コウノトリ文化館」に入る。
そこは人と自然の共生を考えるエコミュージアム、コウノトリにまつわる資料や写真それにコウノトリの剥製などあり、見学者が大勢つめかけていた。
各部屋をのぞい後建物外に出てみるとなだらかな丘があった。そこには高さ2米ほどの金網のフェンスで囲まれたかなり広いコウノトリ飼育場があってrコウノトリが10羽ばかりそこここに佇んでいた。
一本足でじっと立ったまま動かぬ鳥もおれば、ときどき黒いくちばしを動かし辺りを見回す鳥などいたが、最初の数十秒間じっと静止したまままったく動かなかったので、てっきりコウノトリを寄せる囮(コピー)と見間違った。
そこでしばらく観察、その丘を少し下ってガラス張りの観察室前、泥鰌や餌をやる池前のベランダで休んでいると、外壁のスピーカーからコウノトリの講義が流れてきた。
どうやら観察室の見学者向けの説明らしく、マイクの声にこれ幸いと耳をかたむける。
「コウノトリと鶴の違いは、大きさからいうと体重5キロ対10キロと鶴がほぼ2倍大きい。足の親指の構造が異なっていて、鶴は木に止まれないし、飛び立つときも地上を滑走しなければ飛び上がれない。コウノトリはその場ですぐ飛び立つことができるし、地上に降りるときも直下できる、また木の枝にもたやすく止まれる。鶴は「キィー」と声をだして鳴くが、コウノトリは発声機能が退化しており声を出し鳴けないので嘴を開閉し「カタカタ」と打ち鳴らすクラッタリングをする」
「昭和46年野生最後の一羽が死に日本国内のコウノトリは絶滅した。そこで旧ソビエト連邦ハバロフスクに生息する数千羽のコウノトリのヒナを数羽譲ってもらい、ここ豊岡で飼育し復活した。
なぜ日本のコウノトリが絶滅したかには三つ原因がある。一は江戸時代以降、伝来の鉄砲で大っぴらに鳥打ちが行われコウノトリも殺されたこと。二は太平洋戦争時、軍用の松根油をとるため松が伐採され尽し少なくなって松と共生するコウントリが住みにくい環境になったこと、三は稲田への農薬使用が常例化し田圃に生息していた泥鰌、蛙、昆虫類などの生物がいなくなりそれを餌とするコウノトリが生きる術を失ったこと。これすべて人間の業ゆえの災難、人間とコウノトリとの共生はいかにあるべきか問題です」
澄み切った大気、空気もうまい、自然豊かな山里の一角、木椅子に坐ってこん
な話題に耳かたむけ、いい勉強になった。
施設前の芝生上に黒御影石に白文字刻む碑が立っていたが、それは
「ほろびゆくものはみなうつくしい しかし ほろびさせまいとするねがいは もっとうつくしい」
と記した兵庫県知事 文人 阪本勝氏の詩文碑だった。
関空スカイビュー
和歌山からの帰途、「格別急ぐ用もないことだ。旅のついで関空に寄り飛行機見物でもするか」という気になって関西国際空港の展望ホール「スカイビュー」に立ち寄った。
和歌山市を出発し国道26号線を北上、泉南市を過ぎ関西空港自動車道「泉佐野IC」からは高速道、関空連絡橋を渡って「りんくうJC」に入り、そこからは交通標識どおり左にそれ展望ホールコースをとると直ぐのところに広い専用駐車場があった。休日明けの月曜日のせいか駐車する車は僅か3台。駐車場の前が展望ホール入口、中に入るとがらーんとしてなんだか拍子抜け、そのままエスカレータ−で5階まで上がる。
すると5階は飛行機の離着陸が間近見られるだけに見物客がかなりいてそれぞれ次々と離・着陸する飛行機を興味ありげに見物していた。スカイビューは展望ビルが2つに分かれているがエントランスホールがメインホールより展望フロアーからの眺めがよさそうだったので、そのままエントランスホールの展望フロアーから外に出てベランダから離着陸風景を眺める。常には見なれぬ外国機ばかりで、機体の社名や尾翼のマークを確かめ、「あー、あの飛行機は・・」と国籍判じるのも面白くそれが国際空港の魅力でもある。
数分おき次々離陸する飛行機を確認すると、はじめにまずデルタ航空それからコンチネンタル航空、ベトナム航空、日本航空、アリタリア航空、フィンランド航空、キャセイパシフィツク航空、ガルーダ・インドネシア航空、マレーシア航空、カンタス航空、アシアナ航空、シンガポール航空、大韓航空等々と続々。「少し間が空いたな」と思うまもなく背後からジェット音聞こえルフトハンザドイツ航空、ユナイテッド航空の大型機、続いてチェジュ航空の小型機が次々着陸して退屈しなかった。
日頃聞きなれぬ轟音、目まぐるしい飛行機に接しているうち気分高まり子ども心に戻ったような錯覚、「偶にはこんな過ごし方も長生きの秘訣か」と思ったり・・。