二つの湾の物語 ―サンフランシスコ湾と大阪湾―
1、はじめに
私たち瀬戸内の環境を守る連絡会(瀬戸環連)は、地球的規模での環境破壊が問題になり始めた
1980年に、いち早くヨーロッパ環境調査の旅を30名余りの参加を得て実施しました。
その後ネパールやカナダへの環境調査ツアー、ブラジルで行われたアース・サミットへの10名余りの参加、アメリカのボルチモアやスエーデン、トルコで行われたEMECS(世界閉鎖性海域環境保全会議)への代表団派遣など、海外環境NGOとの交流や調査を通じて、世界的規模での環境問題をこの目で見、聞き、学び考え、報告書としてまとめ環境保全に一定の役割を果たしてきたと考えております。
今年の2002年6月にも、「日米湾岸の環境実態と保全活動及び保全条令の調査、比較、提言活動」というテーマで、小澤団長以下11名によるサンフランシスコ湾環境調査の旅を行いました。
以下の記載は、その調査結果を一部抜粋したものです。
2、調査団メンバー
小澤秀造(調査団団長):瀬戸内の環境を守る連絡会 弁護士
ハービイ・シャピロ(調査団アドバイザー):大阪芸術大学
高山 進:伊勢湾域環境政策評価会 三重大学
荒尾立夫:公害のない住みよい泉佐野をつくる市民連絡会 元教師
芳野通弘:海洋環境保全推進員 健康ハウス経営
小山英二:瀬戸内の環境を守る連絡会 環境省環境カウンセラー
羽口幸雄:瀬戸内を守る明石市民の会 団体役員
後藤安子:瀬戸内の環境を守る連絡会 関西大学
玉田真知子:瀬戸内の環境を守る連絡会 翻訳業
釘宮延恵:ツアーコンダクター ボランテイア通訳
五島康治(調査団事務局長):瀬戸内の環境を守る連絡会 会社員
3、調査期間
2002年6月15日〜6月23日
| 4、訪問先 | 日時 |
| (1)US Army Corps of Engineers | 6/16AM |
| (2)San Francisco Estuary Project | 6/17 AM |
| (3)San Francisco Bay Conservation and Development Commission | 6/17 PM |
| (4)San Francisco Save The Bay | 6/18 AM |
| (5)San Francisco Save The Bay (Field Watch) | 6/18 PM |
| (6)San Francisco Estuary Institute | 6/18 PM |
| (7)The Nautilus Institute | 6/19 AM |
| (8)South Bay | 6/20AM,PM |
| (9)Sylvia Mclaughlin | 6/21 AM |
| (10)San Francisco Save The Bay | 6/21 PM |
私たちは今回、6箇所のNGO及び行政機関の事務所を訪問し、South Bayの実態調査を行い、また保全運動の創設者の1人であるシルビア・マクローレンさんや、フローレンスご夫妻の話を聞くなかで以下のようなことを学びました。
1、 豊富な活動資金を有し、立派な事務所を抱え、パソコンなどの機材を駆使し、優秀な専従スタッフを多数抱えていること。
2、 数多くの会員が登録し、ボランテイア 活動の協力体制が整っていること。
3、 子供の頃からの野外活動など環境教育が熱心で、自然に対する畏敬の念が醸成されていること。
4、 取り扱う活動が多種多様であり、あらゆる面で解決していこうという意欲が感じられること。
5、 環境保全条例の制定過程に住民投票を取り入れるなど、草の根民主主義が根付いていること。
6、 環境保全と開発(利用)の関係で、行政とNGO、NGOどうしのパートナーシップが確立されていること。又、埋立てなどにおける企業の違法行為には、厳しい罰則が設けられていること。
7、 利害関係を有する諸機関のコーデイネーターが対等平等の立場を貫き調整能力がすぐれていること。
8、 開発(利用)における事前・事後の環境アセスメントに時間をかけて、できるだけ住民が納得するよう努力がなされていること。
9、 カリフォルニア州湾岸域管理法のような湾の全体を調整管理する法律が制定されていること。
この報告書は全労済の助成金を得て作成したもので、そのご好意に心よりお礼申し上げます。
またこの報告書がみなさんのこれからの環境保全活動に少しでもお役に立てたら嬉しく存じます。
(調査団事務局長 五島康治)
2つの湾の物語:サンフランシスコ湾、大阪湾と埋立
ハーヴイ シャピロ
湾は生態学的にも、社会的にも交換することができないかけがえのない天然資源である。その場所によっては人間に限らずに、自然の脅威にさらされる。これは特に環太平洋の沿岸地帯の高度に都市化された湾地域で、あてはまる。本報告書はいかに湾 地域の市民と行政が埋立提案や計画案に、いかに対応しているかを簡単に述べる。
対象湾地域は、太平洋の東西沿岸に位置しているサンフランシスコ湾地域と大阪湾地域である。
この2つの湾地域は多くの点で類似している。(表1)2つとも同様の面積をもち、大きな川が流入している。サンフランシスコにはサクラメント川とサンホアキン川が、大阪湾には、淀川と大和川が流れ込む主な河川である。(図1)そして両湾は高密度の人口をかかえ、経済的にも生態学的にも重要な地域である。太平洋の火の輪(図2)として知られている環太平洋地震火山帯に位置しているから、両方の湾地域は地震(図3A,B)や海面上昇などの自然災害に弱い。加えて両者とも過去から埋立の危機にさらされてきた。
サンフランシスコ湾と大阪湾はまた多くの点で異なる(表1)。サンフランシスコ湾の平均水深は6mで、大阪湾のそれは28mである(図3c,3d)。サンフランシスコ湾地域の総人口は600万人以上であり、大阪湾ではその倍である。歴史的に見るとサンフランシスコ湾地域で人が定住しはじめたのは150年前であるのに比較して、大阪湾では1400年前にさかのぼる。サンフランシスコ湾はゴールドラッシュの時代、19世紀半ばから、埋立及び湿地の堤防構築によって33%も小さくなった。(2,030km2から1,430km2へ)(図4a)。1960年代はじめに湾は現在の広さの半分以下に埋立られ、2020年までに川のような姿にされ、計画案が発表された(図5a)。最近、サンフランシスコ湾への(S.F.O.)サンフランシスコ国際空港滑走路の延長(約600haの新しい埋立地)計画などが提案され、その湾の新しい危機になっている。
大阪湾の最初の埋立は1300年前まで溯るといわれている(現在の神戸市のあたり)。干拓は江戸におこなわれ、36km2 にのぼる。1945年までに17km2が埋立てられ、1985年までにはさらに52km2、そして1995年までにはさらに79km2が埋められた(図4B)。2025年までにさらに130km2の埋立が提案され、その一部は、すでに認可済みで、進行中である。例えば関西国際空港の拡張工事(545ha)や神戸新空港(272ha)のためである。もし提案された埋立の全プロジェクトが認可、着工そして完成されたら、大阪湾は現在の面積の75%までに縮小して、21世紀中頃までに少し広い運河のような形になる可能性がある。(図5B-IV)。
サンフランシスコ湾地域では、連邦政府(陸軍工兵部隊)の提案した埋立計画が1960年に発表された。(実行するための最終決定前)
表1: 2つの湾地域の一般的特徴
| サンフランシスコ湾地域 | 大阪湾地域 |
| 位置 | 太平洋の比東海岸 | 太平洋の比西海岸 |
| 周辺の地形 | 山地及び丘陵に囲まれている狭い湾岸平野 |
| 湾岸行政単位 | 9郡と32市町 | 2府県と20市町 |
| 湾の周辺人口 | 6,000,000以上 | 12,000,000人以上 |
| 集水域人口 | 8,000,000人以上 | 16,000,000人以上 |
| 集水域の面積 | 163,000km2 | 14,000km2 |
| 流入の主な河川 | サクラメント川とサンホアキン川 | 淀川と大和川 |
| 年間流入水量 | 約20km3 | 約12km3 |
国内の経済的 重要性 | 第4位 | 第2位 |
| 定住歴史 | 150年以上 | 1400年以上 |
| 自然災害 | 地震、洪水、地滑り、山火事、海面上昇など |
| 人的影響 | 川の上流分水、有害排水BCDCの弱体化、海面上昇等 | 埋立、海水汚染、富栄養化による赤潮、海面上昇など |
| 湾の水面面積 | 1,430km2 | 1,447km2 |
| 湾の平均水深 | 約6m | 約28m |
|---|
この提案は関連する湾岸都市の埋立提案に対して、環境に関心を持ち、危機を感じた3人の夫人(カリフォルニア大学バークレー校教授夫人ら)を、サンフランシスコ湾救済のための市民運動へとかりたてた。アメリカの民主主義は情報の公開(決定が下される前に)、決定過程での市民の参加、パブリックトラスト(公共信託)の遵守を保障しているこの係わり合いの中で、「サンフランシスコ湾を救え運動」(SSFBA)が、湾の科学的重要性を立証する研究をするよう、湾地域(ベイ・エリア)の教育研究機関を説得した。市民を啓発し動員するために、メディアを効果的に使った。さらに影響力のある政治家の支持も得て、州政府のサンフランシスコ湾保全開発委員会(B.C.D.C.)を設立させることができ、湾域全体及び湾岸地帯のための埋立や浚渫規制を含む土地及び水域利用計画を立てた。B.C.D.C.は過去も現在もひろく市民の支持を得て、さらにサンフランシスコ湾の埋立を止めさせる法的な権限を与えられている。それは約40年続いている。現在、湾の湿地を復元するため、B.C.D.C.は湾岸の市民と協働している。これらの活動は健全な湾、きれいな水と空気、豊富な野生生物、魚類、ボート遊び、及び湾岸公園などは、湾及びその周辺地域の長期の経済的、環境的な健全さと安寧に長期に投資するものである。
日本では一般的に、そしてこの場合大阪湾地域では、埋立や他の計画は政府認可の後にのみ、公表される。又市民は計画や決定過程に参加することは殆ど許されていない。何故なら日本的民主主義は殆ど情報公開及び住民参加をまだ許していないからである。更に西洋式の公共信託は日本文化や伝統の中には根ざしていない。日本では中央政府が基本的に沿岸地帯を所有している。日本のトップダウン式の文化の中で、国が殆ど管理権をもち、直接的にも間接的にも、その貴重で破壊されやすい海岸及び沿岸水域の運命の鍵をにぎっている。加えて6mの高いコンクリートの壁が津波、高潮や海岸浸食などから海岸を守るために建設されたが、それにより人々の湾・海への物理的、視的アクセスをうばっている。その結果のひとつとして、市民の湾に対する認識や意識が、たいそう低下し、あるいは失われた。空港や廃棄物処理などの各種の埋立プロジェクトに反対する市民団体は存在するが、無関心の大多数の人口に比べると非常に少ない。これらの団体や支持者は、一般大衆や政府の役人に無視される傾向がある。
1978年に立法化された瀬戸内海環境保護法の通過は、海岸埋立の速度をいくらか遅くしたが、湾域埋立の勢いは、憂慮する市民や、自然の力によってもくいとめられはしなかった。1995年1月17日に阪神大震災が神戸とその付近を中心に大阪湾地域などを襲ったが、それも神戸市が神戸港の「大阪湾断層」という活断層(図3b)の真上に立地されている現在工事中である神戸新空港のための埋立(面積3km2)を誤って、行なおうとしていることを、すでに決定された計画として、止めることはできなかった。又関西国際空港二期工事の埋立(面積5.5km2、水深20m)も、アジアで最大級の活断層である「中央構造線」には近い(図3b)と知りながら、止められていない。端的にいうと、大阪湾沿岸の住民も、彼らが選んだ政府代表も、大阪湾を見ず、知りもせず、そして関心をもってないのだと思う。
アメリカの民主主義の伝統と情報を公開され、決定過程に参加できる市民は、B.C.D.C.とともにサンフランシスコ湾を埋立から救った。彼らは他の市民が現在と未来にわたって、湾の環境を守るだけでなく、復元するよう鼓舞してきた。
まだ未熟な日本の「民主主義」とトップダウン式政治と文化、物理的・視的アクセスのほとんどない大阪湾地域を守ろうとしている関心のある市民や市民団体の努力をほとんど無効にしてきた。この背景には政府の役人が大阪湾岸を含む、日本の殆どの海岸線、沿岸水域の運命を好き勝手にできるようにしてきたことがある。湾を救うためには環境教育はまず市民と政治・行政の代表への両方に必要不可欠である。さらに、内部からも外部からも圧力が与えられることが大切であると思う。さらに多くの多様な、単独に行動している環境保護団体は、ひとつひとつの埋立プロジェクトではなく、共通の目的であるべき『大阪湾とともに瀬戸内海全体を守る』ための強力な市民リーダーシップで、全グループの共同行動に導かねばならない。これらの市民は、関心のある科学者達と問題意識のある一般大衆からの強力な支持、認知を必要とする。加えて科学的知識をメディアを効果的かつ継続的に使って、大阪湾の生態的重要性や話題としての大阪湾を常に絶対的に忘れてはならないものとしてスポットをあてる。大阪湾地域と瀬戸内海の市民はサンフランシスコ湾地域の住民の経験から多くを学んだし、学ぶことができる。しかし大阪湾地域の住民のみが大阪湾を救えるのだ。
日米「沿岸域管理」の誕生物語から何を学ぶか
高山 進
1 はじめに
この文章を書く際の私の立場は「参加感想文」にゆずりたい。今回瀬戸環連主宰の調査旅行に同行してサンフランシスコ湾の「沿岸域管理」の様子を見学し、日本の事情との違いを様々の形で突きつけられた。どこがどのように異なっているのか正確に知りたい、と同時に、なぜこのような違いが生じたのか、本質的に何を学ぶべきか(できれば双方ともに)を深く知りたいという興味がわいた。しばしば比較に基づく議論には「文化がまったく違うから当然だ」と一蹴する議論にぶつかるが、注意深く議論すればすばらしい学習の材料を得ることができると思う。そこで日米双方の先駆けとなったサンフランシスコ湾と瀬戸内海の二つの「沿岸域管理」誕生の歴史的経過を整理しながら、とりわけ日本にとっての教訓を考察してみよう。
2 二つの「沿岸域管理」の類似性
調べていくと、二つの誕生物語がいくつかの類似的な状況を抱えていたことがわかる。
まず第一に、両湾ともに猛烈な開発の波に洗われ、誰の目にもその弊害が明らかとなり、緊急的にでもこの勢いをくい止めなければならない、という状況に直面していたこと、である。サンフランシスコ湾のマクアティア・ペトリス法(以後「MP法」と表記)が成立する1965年と瀬戸内海環境保全臨時措置法(以後「臨時措置法」と表記)が成立する1973年までの両湾の埋め立ての推移を見れば開発の激しさが伺える。サンフランシスコ湾の場合、当時もともと存在した湿地(tidal marsh)の95%が失われていたということであるし、瀬戸内海でも急速な埋め立てとあわせて赤潮による養殖魚の大量斃死が衝撃を与えていた。
第二に、緊急的な措置が必要である、という思いが急速に幅広い人々の間に共有され、当時としてはたいへん思い切った対策・政策になって実を結んだということである。サンフランシスコ湾の場合、われわれが訪問したシルビアさん達3人のカリフォルニア大学教授夫人達の行動がきっかけとなり、市民の運動が盛り上がり、湾の問題に取り組む市民運動団体Save San Francisco Bay Association(以後Save the Bayと表記)が結成された。彼らが相談をかけたカリフォルニア大学研究員メル・スコット(専門:都市計画)が『サンフランシスコ湾の将来(The Future of San Francisco Bay)』をまとめた。市民達はメル・スコットの論理を当時開発計画を持っていたバークレー市等への説得の論拠にしたが、結局のところこの論理がマクアティア・ペトリス法の中心的な理念と手法に採用されるほどの展開になった。開発の許認可権を持つ組織(BCDC)を既存の行政組織から独立させるという手法も、もちろんそれまでにない思い切ったものであった。
一方、瀬戸内海の場合も、市民、漁民、自治体、各政党がすべて緊急的な「環境保全法」の制定を求め、結局国会内で全会一致の議員立法として臨時措置法が成立した。その気高い理念と合わせ、単に水質保全法にとどまらない守備範囲の広い法律として成立した背景として国民的な盛り上がりがあったものと思う。実際それは、公害規制法の強化という側面(産業排水の中のCODを3年以内に1/2に減少させるという条項(臨時措置法第4条)は、産業排水の総量を把握し総量の急速な削減を、各府県の上乗せ排水基準の設定によってはかる試み)と公有水面埋立法等開発法との調整法の側面に踏み込もうとした。さらに特別措置法では、全国的な入り浜権運動の影響があったものと思うが、自然海浜保全地区の指定問題は自然保護法の補充法としての側面を持ち、「瀬戸内法が我が国の公害・環境保全法体系の中で特異な位置と性格を有するもの」<1>という規定が成り立ち得る。
第三に、緊急的な対策法として自覚されていた両法とも3年という期間を限定され、その期間の後安定的に通用する恒久的な法律に移行することが決められた。その条件として、どちらも十分に考慮された「計画」を策定するよう、それぞれの法律の中で求められた(MP法:第66603節「包括的で強制力を持った計画」、臨時措置法:第1章第1条「瀬戸内海の環境の保全に関する基本となるべき計画」、臨時措置法では冒頭にこのことが謳われている)。
3 類似の状況への対応過程
似た状況を再確認すると、(1)急いでくい止めるべき緊急事態であることを沿岸の多くの立場の人々が認識したということ。(2)緊急対策にふさわしく先例のない対策・政策を大胆に打ち立てたこと。(3)恒常法への一定期間内での移行とそれを可能にする包括的な計画を作るべきと設定されたこと。
ここで解説なしに用いていた「沿岸域管理」という言葉を説明しよう。閉鎖性内湾の沿岸域(「水深の浅い海とそれに接続する陸を含んだ、海岸線に沿ってのびる細長い空間」)は環境にとってもきわめて大切であるばかりではなく、利用にとっても多面的な利用が競合する場所である。このため、(1)環境と開発(利用)をどのように調整するか、(2)多面的な利用をどのように調整するか、に関して何らかの理念を確立・承認し、具体的な調整方法をうち立てなくては、いずれ未調整による弊害(共有地の悲劇、持続性の喪失)を被ることになる。この課題を何らかの特定の立場からではなく「総合的・統合的」な立場から行う行為が「沿岸域管理」である。
1.サンフランシスコ湾の場合<2>
1959年12月3人の運動創設者の二人(キャサリン・ケールとシルビア・マクローリン)は偶然お茶を飲みながらオークランド・トリビューン紙に掲載されたある地図を見た。それは陸軍工兵隊が連邦商務省から依頼されてまとめた報告書『サンフランシスコ湾域の開発の将来・1960-2020』(1959)に付けられた地図であった。われわれも今回シルビア邸でうかがったが、これまでもしばしば紹介されてきた話である。
当時開発計画は市と産業・商業セクターと協力して行われていた。バークレー市で2000エーカーの埋め立て計画があり、他の市や郡でも似たような計画があったという。先に触れたようにSave the Bayに集った市民達は、メル・スコットの議論を頼りに市への説得を始めた。
メル・スコットは開発計画が総合的に調整されずに打ち出されていることを強く戒めた。
「おのおのの市と郡は、湾の本質的な一体性に対してほとんど考慮を払わないか、または何らの考慮も払うことなく、個々ばらばらの湾岸線開発計画を作成してきている。これらの地方政府並びに州と連邦の機関は、自らの各種の努力の指針となるべき何らの総合計画もないままに、個々の企てを実施するための各種の計画を作成するか、または干潟および冠水地の私的所有者が未調整の地方計画の枠組み内で各種の事業を展開するのを許可してきている」。「地域的アプローチ(regional approach)に基づいた総合計画」が必要であり、「総合的な湾計画の実施のためには、湾域の諸政府全部と州政府および連邦政府がすべて当事者であるような正式な取り決めが必要となってこよう。…計画の実施のためには、個々の市、郡、特別区、さらには州機関および連邦機関にさえ優越する権限を持つ何らかの政府機関が必然的に必要になってくる」「一般住民は、実際のところ、将来的展望を示すような計画が住民に公開される形で作成されるのでなければ、おそらくはこれ以外の内容と方法で作成される計画には満足しないであろう」。メル・スコットはさらに総合計画の策定が終わるまでの間は、埋め立てのモラトリアム、つまり一切の埋め立て計画が凍結されるべきであること、を提言した。また彼は独立機関の許認可権限についても明瞭に進言している。「公共機関であろうと民間機関であろうと、湾の水域の埋め立ておよび築堤その他の事業を企画する場合には、かかる事業の認可を求める一切の申請書を委員会に提出しなければならず、委員会は、これに関して承認または不承認の決定を下すことになるだろう」<3>。
以上紹介したメル・スコットの論理は、われわれが訪問した現在のサンフランシスコ湾の総合管理の理念と基本的には同じものであることがわかる。なお、独立した機関の名称としてメル・スコットはすでに今日と同じ「湾保全開発委員会(Bay Conservation and Development Committee)」という名称を用いている。
市民が市議会へ説得を行い、この論理にある「バランスのとれた発展(balanced development)」に強い印象を持ったとのこと。「1963年の末には完全に政策の転換を」し、同時期の選挙のあと市議会の構成が変わり、保全派が多数派を占めたとのことである。
1964年にキャサリン・ケールは知人のカリフォルニア州上院議員ユージン・マクアティアをたずね協力を要請した。彼が直ちに行ったことは、彼が議長となった公聴会を4ヶ月開催したことだった。彼を含め10名の委員の構成も多様である(新聞社代表、郡開発局、湾岸自治体連合、企業家、市民、サンフランシスコ市長、オークランド市議会議員等)。12回のヒアリングの中で合わせて56名の意見陳述があり、65年1月には報告書がまとめられた。意見陳述者は連邦と州の職員、市と郡の職員、さまざまな保全と開発団体の代表、土地所有者、関心を持つ市民達であった。この報告書がメル・スコットの論理を踏襲したものであることは一目瞭然である。独立機関BCDCは「連邦政府、州政府、湾岸の市と郡、一般市民の代表からなり」「湾のすべての特徴についての詳細な研究を行い、…その材料を用いて湾の保全と利用、海岸の開発に対する包括的なプランを準備するべきである」。許認可権についても明言していることはいうまでもない。マクアティア委員会の結論もまたメル・スコットの論理を強く支持していた。実際、委員会は1964年9月15日の公聴会の初日にメル・スコットを講師として呼んでいるし、BCDCという名称、地域的アプローチ(regional approach)という概念、基本的な議論の展開方法もほぼ踏襲する形となった<4>。リベラルではあっても必ずしも環境保全派ではなかったといわれるマクアティアがメル・スコットの論理に惹かれた真の理由は伺い知れないが、市民運動の強い後押しとともに、この論理の普遍的な正当性に共感したためではないだろうか。
65年5月には、二人の州議員ユージン・マクアティアとニコラス・ペトリスによって提案された法律は議会を通過した。この法律も基本的にはメル・スコットの論理を踏襲するが、「総合計画までは埋め立てを凍結」という姿勢をとらず、本当に必要な埋め立てを限定し、埋め立ての可能な場所(「水関連工業優先利用区域water-related industry priority use areas」)に認めることによって「将来の埋め立ての必要を最小限にとどめる」という立場と、開発が認められても一般大衆へのアクセスが最大限認められるべき、という立場を明記している。68年には、MP法の枠内で可能と見たのか、ロックフェラーと開発会社と銀行がサンメテオ郡にマンハッタン島と同規模の土地(約1万エーカー)を開発しようと試みた。この中には公園やレクレーションのための公共施設なども含まれていたが、州の土地部局も湿地への脅威に対して毅然と立ち向かい、裁判での激しい論争の末、判決によって開発計画は拒否された。こうした裁判でMP法の解釈が一義的に定まったのだろう。
69年1月には懸案であった「サンフランシスコ計画」が知事と州議会に提出された。これを受けてMP法を引き継ぐ法律についての議論が始まり、市民運動として「第二の政治闘争が始まった。第一次運動に参加した人々が今度も参加し、手紙、電報作戦、車にステッカー、襟のワッペン、ディスクジョッキーはまたキャンペーン、議会のあるサクラメントへバスで乗り込んだ」<5>。議会にはMP法を継続する法案(マクアティアは67年に死去し、今回はジョン・ノックスが提案者となった)と別の考え方に基づく開発寄りの法案が二つ提案されていたが、マスコミの論調は後者に厳しかった。レーガン知事は環境に熱心とは言えなかったが、レーガン人脈でもカリフォルニア資源局長官、州公園局長、州財政局長3人はBCDCに賛同していた。こんな中で選挙を準備していたレーガンはBCDCの存続を支持する発言をした。「このお金で買えない自然資源の保護のためには、法律が少しの間も失効することは認められない」。この発言でMP法の継続は共和、民主二大政党連携の課題となり、委員会の投票の末ついにBCDCは「恒久機関」となった。
このサンフランシスコ湾の物語から「開発側対環境側という峻別が強くない」ことに驚かされる。商務省の報告書(1959)も計画文書ではなく将来予測であり、新聞に掲載することでむしろ一般の注意を喚起する働きをした。レーガンの任命者からもBCDCの支持者が現れている。連邦(国)は開発の推進役ではなく、むしろ乱開発を制御しようとしているように見える。この点は「沿岸域管理」の日米比較を考える際のもっとも大きな前提の違いであるので、注意を要する。「アメリカでは特定の国有地を除き、土地利用規制の最終権限は州が有しており、連邦はいかなる指示権も監督権も有しない」<6>。しかも、アメリカは基本的に「規制国家」の典型といわれ、その対局にある日本の「発展指向型国家」とは区別される<7>。「アメリカでは連邦政府が民間企業を厳しく監視し、両者はしばしば敵対関係に陥ることがある。一方、州政府に行くと、政府は企業と足並みをそろえ、両者が協力して地域経済の振興や活性化につとめるのが一般的である。つまり、これまでのアメリカの現状から言うと、中央政府は企業のコントロールに関心を持つ規制型をとるが、地方団体は経済成長に精を出す開発型政府を指向するのが通例である」<8>。1972年に成立したアメリカで最初の沿岸域管理法であり、今も「沿岸域に関する数多くの法律の中心に位置する」沿岸域管理法(Coastal Zone Management Act)もそうした考え方によって作られている。その4つの目的を見ると内容的にサンフランシスコ湾の教訓をくみ取っていることが読みとれる。4つの目的とは、(1)現在および将来の世代のために、国の沿岸域の資源を保存し、保護し、可能なところでは復元し、または価値を高めること、(2)州の管理計画の開発・実施を奨励し・援助すること、(3)この法律の目的の実施のために連邦機関、州および地方政府等が協力すること、(4)管理計画の開発において住民、連邦、州および地方政府等の参加を促進すること<9>。
したがって、サンフランシスコ湾の物語に触れたときのわれわれの驚きは、国が開発の先頭に立った日本のスタイルを前提にした驚きだったのだろう。環境と開発の対立を「止揚する」<10>理念と具体的な手法が形成されなければ、「環境と開発」をめぐる不毛な争いが続くことになる。アメリカでは、アメリカ特有の制度的事情から、一歩離れた位置からの調整を国が果たそうとし、メル・スコットが提唱したような「正論」がつぶされずに通っていく条件が生まれた。日本では周知のように「環境と開発」をめぐる抜き差しならない軋轢の物語が積み重ねられてきた。その結果生じてしまった不幸なトラウマからいかにすれば抜け出せるのだろう。その一つの方法が歴史に対する共通認識が形成されることだと思われるので以下を書くことにする。
2.瀬戸内海の場合
「計画」はずっと公表されなかった。瀬戸審計画部会の初会合も75年2月まで遅れた。臨時措置法の期限である76年11月の半年前に国会の衆議院公害環境特別委員会で二年延長の草案が五党一致で提案された。その際「計画」について、次のように説明された。
「計画の策定については目下瀬戸内海環境保全審議会において、その基本的考え方を中心に審議中でありますが、なにぶん、広範な問題を含む上に、必要な資料の不足もあって、いまだに策定するに至っておりません。今回延長される場合には 第一に、現行法により実施されつつある排水規制について、汚濁負荷量削減達成状況効果確認調査等、所要の調査を実施して、実態の把握を行い、その分析評価を行うとともに、現在実施中の栄養塩類収支挙動調査、総量規制調査の結果を取りまとめ、これらの総合解析評価等を専門家にも依頼して行うこととする。第二に、右の調査結果に基づいて、今後恒久的にとるべき排水規制の方式について、関係各方面との折衝等を経て必ず立法措置を講ずる等、その具体化を図ることとする。第三に、水質汚濁を防止するため、下水道整備の促進、埋め立てに対する配慮等関連施策の強力な推進につき関係省庁と緊密な連携のもとに最大限の努力を払うこととする。以上を中心に瀬戸内海の自然景観の保全にも、きめ細い配慮を加えて、その保全につき一層の努力を払う考えであります」<11>。
これを見ると検討が水質問題に偏っているように見える。そしてようやく76年12月に「瀬戸内海の環境保全に関する基本となるべき計画の基本的考え方について」が答申された。なおこれには「調査報告書」もしくは「調査解説」のたぐいは付けられていない。この点がサンフランシスコとはまず異なる。「湾計画は、3年間にわたる調査と公的審議を経て、BCDCのメンバーによって用意された。…調査にあたってはコンサル、研究者、企業から多くの協力を得、…調査報告は23冊の専門報告書としてまとめられた。詳細な報告書は、多くの公立図書館や本委員会の事務所で閲覧できる」(San Francisco Bay Plan)。日本では万人が納得できる計画というよりは、省庁間で調整がはかられた計画、が重視されているようだ。「基本的考え方について」では、埋立については、十分な調整の規定にはなっていなかった「埋立についての規定の運用に関する基本方針について」(74年5月決定)をそのまま認め、審議の過程でさらに踏み込んで議論した形跡は見られず、「基本計画」でも継承された。
特別措置法への改定に向けた経過について、当時の水質保全局長二瓶博氏の克明な手記が著されている<12>。それによれば、環境庁水質保全局内でまず原案が作られ(77年5月)、他省庁との折衝が開始され、自民党内に瀬戸内小委員会ができ(77年8月)局の方針が説明され、この二つの組織が並行して財界、漁業組織、自治体との折衝を行い、建設省下水道部、河川局、通産立地公害局、農林等他省庁との激しいやりとりを経ながら、1978年4月各省庁との大筋合意がすべて得られ、この時点で作業の大半が終了したという判断をしている。この間市民団体との折衝は一度もなかった(日弁連からのヒアリングは行っている)。
直ちに法案と基本計画の閣議決定があり、1週間後に衆議院公害環境特別委員会が行われたが、野党はすべて独自案を出しており、会期までの時間を考慮すれば「野党の修正に一部応ずるのもやむを得ない」という声があったという。その際二瓶氏は「(各省庁に対して)国会修正ということにならないように最大限の努力を表明していた」ので、修正に応じたのでは「面目が立たない」という理由で「一言一句修正しない」と言い張る。省庁間の駆け引きと政権政党の意向が重視されるこうしたプロセスは、初めこの法案が国民の後押しを受けた超党派の議員立法として生まれた、という経過を踏みにじっていることに気づかなかったのだろうか。
5月8,9日には参考人意見聴取が行われ、何人かの内の一人として市民団体から瀬戸環連(西村忠行氏)が参考人意見を述べ、質疑が行われた。氏はこの中で「多面的、複合的な利用が矛盾し合うとき…国民の将来にとって、日本の未来にとって瀬戸内海の基本的な利用がどうあるべきかという理念がなければ、利用が衝突し合うときに解決する手だてはないと思います」「どうしても改変の必要な、海岸線の利用が必要な場合だけ利用を認めていく。それ以外は、原則として瀬戸内海の海岸線の改変は禁止していくという方向で後継法の中で考えていただきたい。それが私達の痛切な願いでございます」と述べた。「沿岸域管理」にとってはまことに正論である。問いたいことは、こうした正論が単に一セレモニーとして聞き置かれていく意思決定システム、であった(である?)ことだ。
この経過をやや突き放して表現すれば、日本社会の意思形成システムの歴史的条件が、「エコシステムと人間社会との折り合い」といういわば普遍的課題に正面から取り組む機会を先送りした、と言える。
4 今日の視点から
時代は変わって「沿岸域管理」「参加、パートナーシップ」「生態系管理」という言葉が飛び交うようになってきた。しかし、一方で環境基本法や生物多様性国家戦略を改定しながら、いまだにトラウマの解消を容易にできない事例をしばしば目にする。エコシステムの価値を謙虚に見据え、地域諸主体(もしくは国民)の責任ある合意を民主的に行うことは、アジェンダ21のキーワードである
Sustainable Development の意味するところである。メル・スコットや西村忠行の議論は時代に先駆けてこの普遍的価値を語っていたと思うがゆえに、「正論」という予断的表現をさせていただいた。
注
<1> 伊藤護也「瀬戸内法の実施過程」『広島大学総合科学部紀要U社会文化研究』,1973,p.40
<2> この部分の流れは基本的に次の文献によっている。Esther Gulick"Saving San Francisco Bay-The Past"(BCDCのホームページhttp://www.bcdc.ca.gov/ library/archives/albright1988.htm)
<3> 以上のメル・スコットの発言は、鷲見一夫「沿岸管理−「サンフランシスコ湾計画」の検討−」『横浜私立大学総合研究』1985.6,p.40
<4> San Francisco Bay Conservation Study Commission "A Report to the California Legislature",1965(http://www.bcdc.ca.gov/library/archives/sfbcsc/sfbcsc.htm)
<5> この下りは文献<2>。
<6> 畠山武道『アメリカの環境保護法』北海道大学図書刊行会、
<7> チェルマーズ・ジョンソンによる類型化『通産省と日本の奇跡』TBSブリタニカ
<8> 中邨章「経済開発と環境行政−わが国政治行政の構造論的解釈」中邨章『官僚制と日本の政治』北樹出版、p.191
<9> 畠山武道『アメリカの環境保護法』北海道大学図書刊行会,p.218
<10> 西村忠行『人と自然の共生をめざして』西村忠行遺稿集編集委員会、p.88
<11> 衆議院公害環境特別委員会、昭和51年5月18日議事録
<12> 二瓶博『瀬戸内海後継法成立までの顛末記−ある行政官の手記』社団法人瀬戸内海環境保全協会、1984
参考資料 「日米埋立てデータ」
| 瀬戸内海の埋立 | |
| (概数、単位km2) |
| 1898-1924 | 35 |
| 1925-1949 | 66 |
| 1950-1970 | 163 |
| 瀬戸内海の埋立 | 62 |
| 1974-1994 | 93 |
| 計 | 419 |
| 10m以浅の海域面積計 | 2100 |
瀬戸内審議会計画部会資料より作成
| サンフランシスコ湾の埋立 | | |
| (概数、単位km2) | うち湿地 |
| 1850-1900 | 199 | |
| 1901-1925 | 153 | |
| 1926-1940 | 111 | |
| 1941-1957 | 158 | |
| 計 | 622 | 579 |
| 湿地・干潟・冠水域面積計 | 1455 | |
| 湿地面積計 | | 777 |
アメリカ商務省『サンフランシスコ湾域の開発の将来』より作成
1941年から1957年まで17年間158平方キロ=1年間約9平方キロ=1年間約2250エーカー。「1965年までは年間2300エーカー埋め立てられていたが、現在は年間数エーカーにとどまっている」(現在のパンフレットより)。
エーカー :4047m2=0.004km2
マイル:1.6km
平方マイル:2.56km2
サンフランシスコ湾「沿岸域管理」の形成過程
1959 商務省地域開発局「サンフランシスコ湾域の開発の将来・1960-2020」。開発計画というよりは将来予測。12月Silviaさん等新聞で目撃。
1960 バークレー市が大規模な埋立計画、他市でも同様の計画があった。
1962 Save San Francisco Bay Association 結成。年内に会員2500名に。
1963 カリフォルニア大学バークレー校Mel Scott 『サンフランシスコ湾の将来(The
Future of San Francisco Bay)』、市民運動の理論的根拠となった。
1964 上院議員マクアティアの提議でさまざまな立場の人の意見を聴取する委員会(San
Francisco Bay Conservation Study Commission)設立。4ヶ月間12回の公聴会開催。
1965.6 マクアティア・ペトリス法制定、「湾保全開発委員会(Bay Conservation and Development Committee=BCDC)」設立、4年間の期限内に「サンフランシスコ湾計画」作成し、その間の暫定的に開発の許認可権が付与された。
1969 マクアティア・ペトリス法修正、BCDC常設機関に。「サンフランシスコ湾計画」作成、議会では二大政党連携の形に。
1972 連邦沿岸域管理法(Coastal Zone Management Act)、カリフォルニア沿岸保全法住民投票により成立
1975 「カリフォルニア沿岸計画」作成
1983 チェサピークプログラム開始
1987 San Francisco Estuary Project 発足
瀬戸内海「沿岸域管理」の形成過程
1971.7 第1回瀬戸内海環境保全知事・市長会議、72.8 第2回知事・市長会議で瀬戸内海環境保全法について協議
1972-73 環境庁「瀬戸内海水質汚濁総合調査」4回実施
1972.1 第1回瀬戸内シンポジウム(翌年第2回、1000名以上参加)
1973.6 瀬戸内海の環境を守る連絡会発足
1972.9 自民党瀬戸内議員連盟設立、73.7 衆議院公害・環境特別委員会で法案成立へ与野党合意
1973.3 全国漁業組合連合会が公害撲滅瀬戸内海漁民決起大会を明石で開催、瀬戸内海環境保全法の制定を決議
1973.9 瀬戸内海環境保全臨時措置法(3年間時限法)衆議院全会一致で可決
1974.5 瀬戸審「埋立についての規定の運用に関する基本方針について」
1975.2 瀬戸内審議会計画部会初会合
1975.10 瀬戸環連「瀬戸内の破壊と汚染総点検調査」
1976.12 瀬戸内審議会答申「計画の基本的考え方について」
1976.5 国会で臨時措置法2年延長決定。
1976.8 第1回入浜権シンポジウム、76神戸提言
1977.10 日弁連第20回人権大会「海岸地帯保全法案要綱」発表
1978.4 瀬戸内海環境保全特別措置法、基本計画閣議決定
1978.5 衆院公害・環境委員会で参考人質疑
1978.10 瀬戸内海環境保全特別措置法与党案通り可決
復元再生のあり方と住民投票 日米比較
小沢秀造
1.ミティゲーションとは
環境を守るという観点からアメリカで取られている手法である。ミティゲーションは、まず影響の回避を図り、影響が回避できないときは、影響を低減して最小化を図り、影響を低減出来ないときは、最後の手段として、代償措置をとることである。日本は単に代償措置ととらえがちであるが、注意を要する点である。
サンフランシスコベイプランのミティゲーションの考え方は資料1のとおりである。
(資料1)
ミティゲーション
ミティゲーションに関する政策
(1)避けられない環境に悪影響を与える湾の埋立に対するミティゲーションは、埋立計画の公共的な利益が明らかに埋立による水の部分の損失からの公共的な損害を上回っているかどうかを委員会は決めなくてはならない。そしてミティゲーションは、カリフォルニア環境質法の条項に合致する必要がある。ミティゲーションが必要な場合はいつでもミティゲーションは、計画の一部として計画されなければならない。ミティゲーションは水面面積、水容量、水の循環や魚や野生動植物や湿地や干潟などの天然資源について埋立の悪影響を補償するものでなければならない。ミティゲーションはマクアテアやペトリス法の要件を満たすための代用物ではない。ミティゲーションは同意された埋立の避けられない悪影響をなくす必要があり、次のことを確実にすべきである。
a.ミティゲーションからの利益は、湾の資源に悪い影響を与えるものとつりあったものではならず、悪影響を与えたものの特徴と価値とつりあった面積と質を提供しなくてはならない。
b.ミティゲーションは、埋立を推進する場所でするかあるいは委員会が定めた実現可能なできるだけ近接したところでなされなければならない。
c.ミティゲーションの方法は、注意深く計画され再評価され、そしてコミッションによりあるいはコミッションのために是認されるものであり、成功とその永続と長い期間の保全を確実にするための合理的なコントロールによらなければならない。
d.ミティゲーションは、悪影響を引き起こす計画の実行と可能な限り同時に行う必要がある。
e.ミティゲーションの方法は、影響を受ける権限のある地方、州、連邦の機関が協力しあい、そして、ミティゲーションの技術は、最大の実際上の成果が得られるようにそれぞれのミティゲーション計画は関係する機関のすべての政策を満足することを確保するものでなければならない。
ひとつ以上のミティゲーション計画が、上記の5つの要件を満足させるように計画できている場合、コミッションは適切な計画決定に際し、代案の費用を考えるべきである。
費用の面で合理的でそして、総合的なミティゲーションの計画を奨励するため委員会は、一定の埋立地を除去することに金融面の信用を強め、コミッションによる明文の合意に従って貸し付けや土地担保で可能な金融を奨励すべきである。金融面を考慮して委員会は上記の5つの要件にあっていることを確証すべきである。
(サンフランシスコ ベイプラン BCDC 2001年7月)
2.ミティゲーションの位置付
開発をする場合、代償措置をとるなどして環境をいま以上に悪化させない、環境を良くするということでは大事な考え方である。しかし開発を前提とする考え方であり現実には環境に対する影響はさけられない。代償措置にしてもわれわれとの懇親でサンフランシスコ湾運動の創設者の一人でもあり現在も活躍されているシルビア・マクローリンさんの質の異なるものを提示し環境悪化の代償といっても論理的にも感情的にも納得できないものがあるとの指摘は重要であると考える。 BCDCのジョナサン・T・スミスさんもミティゲーションは住民に必ずしも好感をもって受け入れられていないことを示唆していた。
3.実例
サンフランシスコでいまホットな問題はサンフランシスコ空港拡張問題である。地元の運動団体の2000年3月のSFO UPDATE によると埋立面積は約1400エイカー(566ha)である。神戸空港の埋立面積は約300haである。関西国際空港一期工事の埋立面積は511haである。サンフランシスコ空港の埋立のためカーギルのもっている湿地を確保するようである。セイブザベイのサンフランシスコ湾の埋立自体を代替できないとの意見は住民にとって参照されるべきであろう
(http://savesfbay.org/news052200.html).
1997年神戸空港計画の概要(神戸市発行)の神戸空港における環境保全・創造施策にある環境創造型護岸のイメージ図にみられるように護岸をコンクリートではなく、石積にすること、階段式親水護岸にする、人工ラグーンをつくることなどである。(資料2)
サンフランシスコの住民の間で必ずしも評判のよくないミティゲーションは理念としてはこれ以上の環境悪化を防ぐということでありアメリカで実行されている。ところが神戸空港における環境保全・創造施策にはそのような理念はない。現実には環境が悪化するが人工海岸を造るというものである。昔からある緑の地や自然海岸を破壊して工場を造り工場の周辺に木を植えるということ以上のものではない。環境アセスメントを文字通り環境の影響の評価と解し、評価書に「影響は軽微である」と記した従来の日本の環境影響評価のように、アセスメント法の形だけ取り入れたという歴史的な事実は日本でミティゲーションを倣ったと理解される環境創造についても当てはまる。神戸空港の環境アセスメントをみても、大気質への「影響は軽微」潮流、水質の変化の程度は軽微であるとされている。軽微かどうかの判断基準はないのである。環境創造はどの程度が創造といえるのかの基準はない。たとえば個人住宅でも庭に木を植えていれば環境創造の実例となろう。
4. ミティゲーションの事後評価について
ミティゲーションがうまくいったかどうかを評価する基準はない。確認する方法としては、モニタリング、レポートの提出が決められている。先のスミスさんの話では最低5年ほどのモニタリングが要求されるとのことである。 われわれに配布されたサンフランシスコ湾などのRestoration Primerには太平洋ノースウエストの例が惨めな失敗とまではいわないにしても、単に部分的な成功と評価されており、干満のある湿地はいまだ謎が多いと評価するなどのことが発表されている。そこではミティゲーションに対する謙虚な態度とモニタリングや情報公開がある。
(資料3 レストレ-ション・プライマー、サンフランシスコ・エスチュアリー・プロジェクト 2000年8月)から抜粋
「湿地保全の予測と不確かな結果: チャールズ・エー・シメンスタッド(ワシントン大学)
ここ十年来に太平洋の西北部分の湿地保全は、それぞれの間に合わせの、埋め合わせ程度の湿地の損失に対するミティゲーションから、エコシステム全体を視野に入れた公の資金を使った埋め合わせを越えた、重要な魚や野生動植物や環境的な水文学的なまた文化的な要素を回復する先例へと急速に変化している。これは塩性湿地を保全し、そしてその正確な影響を評価するわれわれの技術的な力がますます増大していることを示している。しかし、多くの批判があるようにわれわれの努力がみじめな失敗とはいえないものまでも部分的な成功に終わっている。現在も湿地保全は十分できると予測されながら、結果はまだ実際上、予測を下回っている。」
97年日本の環境省(当時環境庁)が瀬戸内海環境保全室は保全審議会へ諮問をしたがその際瀬戸内の環境保全については公害などの規制より環境創造が今後は大事であるとしていた。多くの環境創造の例が挙げられていた。わたしたちは広島県の五日市の人工海岸に野鳥が寄りついていない、兵庫県高砂市では人工海岸で遊んだ子の死亡事故や汚染の事実を指摘してきた。環境庁の担当者は成功しているとはいえなかったのか導入例であるとした。ところでわれわれと環境省(当時)の担当者との議論がかみ合わなかった。なぜかというとそこではモニタリングが極めて不十分でありまた担当者は府県の担当部局からの報告で把握し直接調査してものではないようで、担当者が答えようもなかったのである。われわれが失敗例をあげてもここが成功していると確信を持って言えないのは調べていないからだとわれわれが理解したのは相当時間が経過してからのことであった。
02年日本の国会で自然再生推進法案が審議されている。過去に損なわれた自然を再生するというのである。自然の再生と創出などを目的としている。しかし日弁連や多くの住民団体が批判しているようにどのように自然を再生するのは明らかにしていないとか、現存する自然との関係について考慮されていない等の批判がある。そしてそれが成功したと判断出来る基準も示されていない。環境省はフィードバックするといっているが判断基準は示されていないのにどのように調査するのであろうか。自然再生推進法案という前に瀬戸内環境保全室の挙げた環境創造の例などを調査して創造の成功、失敗とはどういう場合か整理してみる必要があるのではないか。そしてミティゲーションなどもいかに困難が伴うものか、それをいかすためには開発に予算を使うこととは異なる地道なモニタリングが必要であることを再確認すべきである。
5.住民投票について
日本の住民投票は、地方自治法で定められている。選挙権をもつ50名以上の連署をもって地方自治体の長に条例の制定を請求し、議会において住民投票についての条例を定めることになる。議会が住民投票に付することを決めて、住民投票をすることになる。セイブザベイで2001年11月サンフサンシスコ市で成立したプロポジションDについても詳しく話を聞くことができた。投票をする前にサンフランシスコ市議会の12名の内7名の選挙管理委員Supervisorの賛成がいる。その上で住民投票をし、過半数が賛成すれば法的効果を持つ訳である。プロポジションDの内容は沿岸100エーカー以上の埋立をする場合に埋立をするかどうか住民投票で決するというものである。
2000年11月投票の75%の賛成で認められたということであった。サンフラン空港の拡張自身は公共性があるものとして認められている。したがって空港拡張そのものに賛成かどうかについては相当Supervisorとしても慎重であろう。しかし、地元の政治のあり方から言って、住民の意見によってものごとを決定すること自体は、民主主義のあり方からいって反対できることではないという。セイブザベイの担当者の話では、一定面積以上の埋立の場合住民による決定を問うことにし、サンフランシスコ空港の拡張のための埋立の是非そのものを問う住民投票とはしなかったということであった。次の段階でサンフランシスコ空港の拡張のための埋立の是非を、住民投票で問うということにしたとのことである。
日本のように、住民条例を制定すること自体に、賛成の署名を要求され、しかもいかに住民の賛成があろうとも、住民投票条例は最終的には議会に任せられ、議会が条例を制定しなければ住民投票する機会さえないという日本の制度とは大きな違いがある。そのためもあって日本の場合計画の賛否を問うというせっぱ詰まった投票になるが、プロポジションDのようにもう一度住民投票をするという一歩下がったものを住民自身が決定するというのも、なかなか興味があると考えた。
情報が住民に対し、早く公開され、余裕をもった議論が市民の間でもなされることが日本でも望まれるところである。新潟県巻町における原発建設という例がある。しかし巻町では建設賛成と答えた人も含め、有権者の7割以上の人が「住民投票をやってよかった」「町長は投票結果を尊重すべき」と答え、いまでは住民同士のいがみ合いもほぼ完全に解消されたと報告されている(今井一)。日本のように住民投票をするための技術的な細目を定めた法律や条例がなく、いちいち有権者の50分の1以上の連署が要求されその上で条例制定を議会で決定するというのはいかにも迂遠であり、あまりに住民による直接民主主義をおそれていると指摘せざるを得ない状況である。むしろそのような実施のための法律や条令(住民投票法あるいは住民投票条例を定めておいて、大事な問題では住民投票をするというのが本筋であると痛感した次第である。
資料4としてプロポジションDにあたり運動が住民に働きかけた際のビラと、今井一氏がまとめた日本における住民投票をめぐる主な動きを(住民運動QアンドA 岩波ブックレット 1998年)を添付する。
プロポジションDの呼びかけ文
ベイ ボート
スポンサー: ペスキン、 アッミアーノ、 ダリイ(訳注:いずれも議会のスーパーバイザー)
目 的: サンフランシスコ湾における埋立の内100エーカー以上の市の計画は住民投票が必要であるという条項をつけくわえる
現在の状況: 選挙管理委員会への提出 2001年5月21日
規則委員会の聴聞2001年6月22日予定
2001年11月6日の投票をするために7月後半に選挙管理委員の過半数の賛成が必要
新しい条項はどういう効果があるのですか?
100エイカー以上の湾の埋立が必要な市の計画に対し法的に要求された環境影響報告をした上で、定められた市の機関により選択された計画の最初の選択をし、そして同意するか反対かについての投票を次の定期的な選挙により市民の投票に付す。投票により同意された計画は、なお連邦や州の法的な許可条件を満たす必要がある。
なぜ投票が必要ですか?
多大な汚染を引き起こすかもしれないプロジェクトについて市民の声を反映させることを確保する必要があるからです。今は有権者や市のスーパーバイザーが認めることなしに環境に大変な影響を与えるプロジェクトが認められうるのです。条例改正はこのような計画について公の是認を確保するためです。
湾はすでに海岸線開発により、3分の1は小さくなっています。そしてその結果その魚類、野生生物や水質は非常に悪くなっています。1960年までに100年以上の干拓、埋立により湾の食物連鎖の基礎である肥沃な潮間帯の湿地の95%は破壊されている。
30年にわたりこれ以上の大規模埋立に反対する強い市民的な合意が存続してきた。最近この市民的合意は、選挙で選ばれず、政治的に任命された者により、サンフランシスコ国際空港における主従年で最大の埋立により脅かされている。市民はこのような決定に関与するに値するし、改正条例は100エーカー以上の埋立を伴うプロジェクトについては投票することにより市民の意見を保障するであろう。
だれが改正条例を支持していますか?
15のコミュニティー、釣り団体、レクリエイション団体、そして環境保護団体です。
だれがこの条例の改正に反対していますか?
大規模なもので汚染が発生するプロジェックで有権者の声を聞く事に反対している人は知られていません。空港当局は、改正条例が提供するある種の住民の声を歓迎するということをいくつか示しています。そして滑走路の拡張は、コミュニィティーからの幅広い指令を必要とするであろうということは認識されています。
なぜ100エーカー以上を投票するのですか?
数十年来の間、サンフランシスコではひとつの計画でそれほど大きなものは提案されたことはありませんでした。100エーカーは大変な埋立になります。それは湾の水質や生物や野生の動植物に非常に大きな破壊を起こすかもしれません。そのような計画は、サンフランスシスコの法規が規定する以外に市民の十分な考慮に値します。
この改正条例は、重大な計画を予想外に遅らせることになりますか?
いいえ。この新しい手続きは、環境影響報告の後、定期的に予定された次の選挙で市に居住する市民による直接の投票によります。この選挙は通常6ヶ月ごとにあります。
今、条例改正をしないで特定の計画が提案された後に投票すればいいのではないでしょうか?
サンフランシスコ空港でのこのような滑走路拡張計画のような市の計画は、一般的に言って市議会? による立法活動にはよらず、また有権者の投票にもよりません。今回の改正は、計画が成熟したとき湾の100エーカー以上の埋立の市のどんな計画も有権者が投票するようにするものです。湾の埋立計画について湾岸全域の投票をすべきではないですか。この条例改正は、市の計画についてのサンフランシスコの有権者の役割を確率するものです。他のコミュニィティーは有権者がどういう役割をするかこれとは別に決めることができます。たとえば、もし、サンマテオ郡の土地を追加的に必要な場合、現に今もサンフランシスコ空港は、サンマテオ郡の議会また広く言えば、サンマテオ郡の有権者をサンフランシスコ空港滑走路計画を同意するかどうかを保証する州の立法をもっています。サンフランシスコの議会と有権者は、現在はこのような役割は何もありません。
この改正条例は、サンフランシスコ空港の滑走路だけを規制する目的ですか?
いいえ。この条項によって湾内の100エーカー以上の埋立計画はすべて対象とします。この大規模な湾内埋立計画は、提案されて数十年になります。空港当局は、現在このような大規模埋立計画をしている市の唯一の機関ですが、滑走路についての攻勢的なキャンペーンは、湾埋立の別な計画に道を開きます。
この改正条例は、どのように滑走路再編成計画に影響を与えますか?
空港委員会(エアポート コミッション)は、公式的には滑走路を変更する具合的な計画を選択していません。ある選択では、1000エーカー以上の埋立で湾を汚染するものもあります。もっとも小さい滑走路の建設計画は、トレジャーアイランドの面積を超える程度のものもあります。改正条例は空港委員会が100エーカー以上の埋立を選択した場合に 有権者が是認するか拒否するかを要求することになります。
行政・企業・住民との関連からみた湾岸域環境保全活動
小 山 英 二
1.はじめに
瀬戸内海の環境保全運動も30年におよび,その間,埋立反対の訴訟や漁業者による,企業や行政に対する座り込み行動が,瀬戸内沿岸各地で行われた。 また,リオサミット以来,多くのNGOが瀬戸内各地で立ちあげられ,埋立の中止や,汚染と破壊から瀬戸内を守ろうと活発な活動が進められた。しかし,残念ながらそういうNGOの連携が必ずしもうまく行われたとは言いがたい。各NGOはそれなりに行動をおこし,一定の成果を上げてはいるが,まざまざ弱い面を克服できず,連携不足から大きな成果を上げるまでには至ていない。これらの点をサンフランシスコ湾の環境保全活動と対比して,ウイークポイントの克服を目指したい。
2. 開発の歴史
◆サンフランシスコ湾
1850年代のゴールドラッシュの時代に鉱山の乱掘によって水銀等の汚染物質を含む大量の水が,サクラメント河とサンサンホアキン河の両河川より流入して汚染が始まった。 湾の大部分が水深6メートル以下の浅瀬であり,湿地帯が広がっている地形のため,その部分からの埋立てが始まり,1950年からは毎年960ヘクタールが埋立てられた。 1960年に産業界から埋立て申請が相次いで出されたのに対し,行政が積極的にバックアップした。
◇大阪湾
江戸時代以前から大阪湾は海上交通路として発達し、大阪港・堺港・神戸港とも港湾建設や重化学工業,防潮堤のための埋立てが行われてきたが,一方,大阪湾沿岸漁業も盛んに営まれていた。
1950年代以降,重化学工業や産業振興のための埋め立てが阪神間に集中し,その面積は5100haに達した。1967年には運輸省第3港湾建設局の大阪湾海上理想都市構想をはじめとして,関西経済同友会の大阪湾総合開発構想,1984年には同建設局が大阪湾港湾計画の基本構想を,同同友会が21世紀大阪湾コスモアイルズ構想を相次いで発表した。これらの構想は,大阪湾沿岸地域における経済の地盤沈下と都市過密の解消のため,産業基盤,都市基盤として重要な意味をもち,安全で快適な都市の再構築と国際化への対応を目標として策定されている。
この計画は,従前の水深10mまでの埋め立てを,同20mまで埋め立てようというものであり,大阪湾の約3分の1を埋め立ててしまおうというもので,その面積はおよそ2万9000haにも達している。
3.行政の役割
◆サンフランシスコ湾
産業界からの埋め立て申請に対して,行政が積極的にそれを指示した結果,逆に市民運動が起こり,それを高揚させることになった,またその運動に対して議員や議会が呼応して,保全法制の立法化活動が活発に行われ,行政とNGOが協力して保全にとりくむという形が形成されていった。
◇大阪湾
開発の歴史で見たように,行政は財界と呼応して,高度経済成長とオイルショックを経験した中で,関西新空港の着工を起爆剤にした巨大開発による経済発展を夢見て,運輸省構想に大阪府も大阪市も大いに賛意を表したというのが現実であり,際限無く出されるごみ問題についてもフェニックス計画(ごみ埋め立て計画)を湾内2カ所に立案し実行に移している。 その目標とするところは,自然環境の保全と回復のために積極的に施策を推進し,大気・騒音等の改善のために,湾岸道路や海上交通網の整備を行うというものである。
後に述べる市民との協調や対話は程遠いものであった。
4.湾に関する法制
◆サンフランシスコ湾
1964年カリフォルニア州法としてマクアティア・ペトリス法が制定され,同法に基づいてサンフランシスコ湾保全開発委員会(BCDC)が 設立された。
1969年BCDCはサンフランシスコ湾計画を策定し,サンフランシスコ湾の総合的な環境管理体制と基本計画を確立した。
1969年国家環境政策法(連邦法)1972年沿岸地帯管理法(連邦法)1973年沿岸地帯保全法(カリフォルニア州法)1977年水質浄化法(連邦法)によって,更に強化されている。
現在,埋め立ては例外的,最小限でしか認められず,湾内では湿地の再生が行われ,国立野生保護区が設定されている。
◇大阪湾
1961年港湾整備緊急措置法,1963年近畿圏整備法,近畿圏整備開発法,1973年公有水面埋立法改正,この間1962年全国総合開発計画,1969年新全国総合開発計画,1972年日本列島改造計画が策定された。更に大阪湾臨海地域開発整備法により新たな開発が始まった。
これに対し保全法制として,1964年近畿圏工場等制限法,公害対策基本法,1970年水質汚濁防止法,廃棄物処理清掃法,海洋汚染等防止法,1971年環境庁設置法,1972年自然環境保全法,1973年瀬戸内海環境保全臨時措置法,1978年瀬戸内海環境保全特別措置法が制定されたが,結果は周知のとおりである。
開発指向の立法と保全法制の弱さが顕著であり,財政措置も開発優先で施行され,非民主的で情報公開も形式的で住民参加の理念すらない状況であった。
5.市民運動
◆サンフランシスコ湾
1960年に産業界の埋め立て申請に対し,行政が積極的にバックアップしたことに端を発して,1961年にキャサリン・ケリー,シルビア・マクローリン,エスター・ガリックの3名がはじめた草の根市民運動『セイブ・サンフランシスコベイ・アソシエィション』に共感し,危機感を抱いていた市民が埋め立て反対運動に立ち上がった。
1964年マクティア・ペトリス法により設立された,サンフランシスコ湾保全開発委員会(BCDC)が,サンフランシスコ湾の総合的な環境管理体制と基本政策であるサンフランシスコ湾計画を策定した。有力な議員や有識者,多くの市民を巻き込んだ住民運動が議会を動かし ,企業への圧力を加え,サンフランシスコ湾保全のための『州沿岸域保全法』が市民発議による直接投票によって成立した。これがサンフランシスコ湾保全の柱となり,原動力になっている。
19世紀以来湾の3分の1を埋め立てで失い,湿地帯の90%以上が埋め立てられているのを,ベイエリアの多くの市民団体が州や国に働きかけて,買い取り運動を起こし塩田地帯6400haを元どおりに復元するために取り組んでいる。 沿岸地帯の復元プログラムの実行資金は環境庁から提供され,保全プロジェクトの執行はカリフォルニア州が行っているが,地元のNPO、フレンズ・オブ・カリフォルニアをはじめ多くの市民参加で実施している。その活動は湾内の建設物沈殿物の減少のため建設業界への啓蒙活動やワークショップの開催,自治体の現場監督のメンバーへの協力要請を行うほか,工場施設の調査やレポート提出を求め,違反企業に対しては提訴し、告発も行っている。
レポートの文書偽造で電力の送電停止を受けた企業や40万ドルの罰金が課せられた例がある。
ベアアイランドの湿地帯保全運動では,レッドウッド市民が土地の所有者である日本の熊谷組に保全のための売り渡しを求め,日本の湿地保護運動団体も支援して,熊谷組は開発をあきらめ,この湿地帯1200haをペニンシュラ・オープン・スペース・トラスト(POST)に売り渡した。この資金は自治体や政府の資金に加えて市民の募金活動によって集められた。ここがダネドワード・サンフランシスコ湾国立野生保護区に指定されることになった。
ルーシー・エバンス自然保護センターから湾に向かってハリエット・マンディー湿地帯が広がっているが,この土地については開発計画を偶然知った学校の先生であったハリエットさんが,市民に呼びかけて保全運動を始めた結果,ベイランド自然保護地区として一帯が保全されることになった。この湿地帯を流れるチャールストン・スルー(小川)の回復の取り組みも25年にわたって行われている。
新シカゴ湿原は1974年にジョン・エドワード下院議員と市民運動により始まり,子供達を対象にした環境教育活動と一般人向け自然ガイダンスが行われ,連邦政府・市・NPOが共同で実施し,年間4000人余りの子どもたちが学んでいる。
◇大阪湾
1971年『大阪から公害をなくす会』が結成され,大気をはじめとした公害に反対し,人間が人間らしく生きられる都市づくりを目指して活動を続け,大阪湾の乱開発に対しては,自然海浜の保全や回復を訴え,ごみ処分のための埋め立て(フェニックス計画)や関西新空港建設による大阪湾の埋め立て反対運動が取り組まれた。
また,1972年には瀬戸内海保全を目指して『瀬戸内の環境を守る連絡会』が瀬戸内沿岸11府県の住民・漁業者・科学者等が参加して結成され,大阪湾についても,実態調査,保全と回復への提言,保全法の制定運動に取り組んだ。
1973年には瀬戸内海保全法制定運動を全国的に展開し,議員立法による瀬戸内海環境保全臨時措置法の制定をみた。 大阪湾に面した甲子園浜の埋め立て計画に対し,地元の主婦をはじめ2000人の原告団によって,埋め立て反対の訴訟を提起し,保全に取り組んだ。
1977年には時限立法である瀬戸内法の実効ある後継法を目指して,市民や研究者、弁護士等が多くの提言を行い,汚染と破壊による瀕死の大阪湾をはじめとした,瀬戸内海の保全と回復のための運動を展開した。
1981年には関西新空港のための観測塔が設置され,新たな局面を迎え,住民サイドからも,大阪湾の生きている現状を市民とともに確認するための市民・学者による現地調査活動が繰りひろげられた。また,1974年和歌山県天神崎の市民による買い取り保全運動『ナショナルトラスト』活動も,多くの市民による保全運動としては,日本でも例の少ない全国的な活動として取り組まれ,企業や行政との厳しい局面を乗り越えた30年にわたる運動の成果が見られる。
6.行政・企業・市民の連携
◆サンフランシスコ湾
サンフランシスコエスチュアリプロジェクトにおける総合的保全マネージメント計画の立案のため環境保護団体・企業・自治体・政府・市民団体等100代表位が集まって,5年間をかけて協議し計画を策定した。
2年毎にプロジェクトの現状について,科学者・研究者・市民等800名位が参加して検討する。
この資金は国の環境庁が提供し,プログラムの運営はカリフォルニア州であるが,この段階でも多くの環境団体が参加し,意見を述べ,一般市民の協力のもと,報告書を作成している。
湿地帯の買い取りは,ベイエリアの多くの団体が州・国の政府に働きかけ,国・州政府・個人財団や市民からの基金によって実現した。
水資源局は湾内の水質と流入水,地下水の浄化を担当しているが,浄化の程度の決定権は公聴会における市民がもっている。このプロジェクト計画は規制ではなく,合意のうえになりたっている自主協定のようなものである。
ルーシー・エバンズ自然保護センターの運営は,連邦政府・市・NPOの共同で行い,環境教育活動に力をいれている。
◇大阪湾
1981年,市民による大阪湾の大規模な実態調査が行われた。
大阪湾を愛する市民,漁業者,研究者等3府県(兵庫・大阪・和歌山)から500人を越える参加者による,水質をはじめ漁業,気象,遺跡,生物,埋立等9項目にわたる実態調査であった。当初は自治体等も協力的な姿勢も見られたが,計画が具体化するにつれて態度が変わり,ヨットの参加について,海上保安庁からの参加問い合わせなどもあって,参加者が激減し,当日は監視のため保安庁の巡視艇やヘリコプターまで出動する事態となって,現に調査に参加していた漁船が一時巡視艇に拿捕されたりもした。
兵庫県では,毎年『公害なくせ県民大集会』を開催し,県知事と住民代表による対話集会も開かれていたが,知事が出席しなくなって久しい。
83年まで大阪湾調査が毎年続けられたり,6月の公害週間には,全国の公害被害者や環境保全団体が,環境省をはじめ関係各省と交渉を実施しているが,瀬戸内保全に関して色よい返事を聞くことはできない。
1997年COP3京都会議には,日本全国のNGOが結集して,政府を動かした事実は記憶に新しい。
1995年阪神・淡路大震災での,全国から駆けつけたボランティアの救援活動はかってない目覚ましいものがあった。
1996年には財団法人地球環境基金から300万円の助成金を受けて,第5回の大阪湾調査を実施した。
2001年神戸・淡路で開かれた第5回エメックス(世界閉鎖性海域環境保全会議)では,瀬戸環連から運営委員を出し,多くのNGOのメンバーとともに,成功に向けて協力した。
7.総 括
日本においては,先ず開発の歴史に対する思想的姿勢が問題点として指摘できる。すなわち初頭教育において,埋め立てを肯定して,乱開発を評価し,開発指向を美徳化している。
生態系保存の価値が正当に評価されず,自然や環境に対する理念の欠如が指摘される。
日本人の宗教的自然感さえも発揮できないでいるのが,大阪湾の現状であろう。大規模な埋め立てや破壊の歴史のなかから,行政はサンフランシスコ湾の乱開発に対して規制の役割を果たしているが,大阪湾では,国や府県は企業とともにより大きな開発に期待を寄せている。
行政の方向性においては,日米の姿勢にあまりにも大きな違いがあり過ぎるというのが現実ではないだろうか。
公共信託の理念を背景に,乱開発の歯止め役を果たしているのが行政であるが,BCDCは,産業界,行政,市民を取り込んで,その方向性を提起し,湾岸利用の調整をはかるという重要な役割を担っている。
法制面については,大阪湾に関する生態系管理法も沿岸管理法もなく,公有水面埋立法で埋め立ての手順を規定し,国立公園法では普通地域とし,瀬戸内法の自然海浜保全条項では指定地域を限定し,海岸法改正では市民の権利の位置付けがあいまいであり,大阪ベイエリア法では新たな開発を目指している。
サンフランシスコ湾における利用の調整と開発の規制という強力な組織 による保全施策や規制法が機能を発揮し,法制定後,埋め立てが許可された事例がほとんどないという事実は注目に値するものである。
市民運動については,両湾について詳しく述べたが,やはりサンフランシスコ湾の保全法制定過程における市民の果たした役割の大きさや,その後の保全活動への主体的参加の実績をみると,学ぶべき点もあると言えるのではなかろうか。
法そのものに,情報公開と市民参加を規定し,その機構のなかでNGOが第一線で活躍している現状は十分評価できるものである。
大阪湾における市民活動も,実態調査の取り組みや法制定運動の展開,啓蒙活動と多くの実績を残しているとはいえ,大きく飛躍できなかった点やNGO団体の連携の弱さ,強力な開発行政に対する力不足,市民参加型保全活動の未確立等反省すべき点も多々あることは否定できない。
市民・行政・企業の連携については,阪神・淡路大震災やCOP3で活躍したボラティアの経験を活かし,行政との連携がかなり進んでいるとはいえ,サンフランシスコ湾のように法律上規定された活動となり得ていないことや,市民の間に長年の行政・企業に対する不信感は未だ払拭できていないのも現実の姿である。
次代を背負う子供たちの環境教育の充実や真の民主主義の定着,情報公開の徹底,保全計画と実行段階における市民参加の確立,何よりも強力な大阪湾をはじめとした瀬戸内の保全法の制定等課題は多いが,未来に悔いを残さない活動を目指したいものである。
環境の21世紀と言われる今日,全国で展開されている環境保全運動と手を携えて,大阪湾や瀬戸内の保全と回復に向けての取り組みの一助となれば幸いである。